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家を出ることが、こんなにも苦しいと感じたのはいつ以来だろう。人の視線を、針のように痛いと思うようになったのは、いつからだったのか。 言葉を探すなら、きっと「燃え尽き症候群」というありふれた名前が一番近い。
新しい職場に来てから一年。嵐のただ中に放り込まれたまま、走り続け、倒れるように眠り、また起きて走る――その繰り返しだけで日々は過ぎ去っていった。気づけば季節が一巡していて、けれど胸の奥には何も残っていなかった。
国籍、年齢、キャリア。
本来はただの属性に過ぎないそれらが、この場所では私を値踏みするための札として首から下げられている。
まだ右も左も分からなかった頃、質問をすれば「前にも言ったよね」とため息をつかれた。
聞き取れなければ、「日本人だから分からなかった?」と笑われた。勇気を出して意見を口にすれば、「年下のくせに生意気」と目を細められた。会社に残って作業をしていれば、背後でひそひそと声がする。
「あの子、大学出てないらしいよ」
「どうせ上に取り入ったんでしょ」
振り返れば止むそれらの言葉は、止んだのではなく、ただ私に聞こえない場所へ退いただけだった。
辞めたい、と思ったことは一度や二度ではない。今すぐすべてを投げ出して、どこか遠くへ逃げてしまえたらどれほど楽だろうと、何度も想像した。
けれど現実は単純ではない。ここで私が抜ければ、困るのはスタイリストチームだけでは済まない。衣装が遅れれば、撮影やリハーサルの時間が削られる。つまり、アーティストの時間を奪うことになる。それがどれほど大きな損失か、考えずとも分かっていた。
だから辞められなかった。休むことさえ、許されない気がしていた。
やがて雑務や下働きから離れ、正式にスタイリングを任されるようになった頃には、最初のような切迫した焦りは薄れていた。仕事そのものには慣れ、手も動くようになった。それでも、孤独だけは形を変えずに残り続けた。
何をしても、どこかで誰かに見られている気がする。失敗を待たれているような、粗探しをされているような、そんな落ち着かなさが常に背中に張り付いている。
だから人と深く関わることを避けた。
必要な会話だけを交わし、それ以上は踏み込まない。そうしていれば、これ以上傷つかずに済むと信じていたから。
*
メイクを施していると、時折アーティストの側から声をかけられることがある。
「今日寒いですね」とか、「日本のご飯は何が好きですか」とか――そんな、仕事の合間を埋めるだけの他愛ない言葉ばかりだった。
けれどそのわずかなやり取りの中でさえ、決して交わることのない世界の境界が透けて見えてしまう。同じ部屋にいて、同じ空気を吸っていても、彼らの立っている場所は遠い。その距離をはっきりと自覚するたび、胸の奥が空洞になったように冷えていった。
アイドルという存在に憧れて、この仕事を選んだ。大好きな人たちと同じ現場で働けるなら、それだけでどんな苦労も報われると信じていた。
親の反対を押し切って専門学校に入り、睡眠を削って勉強し、資格もいくつも取った。
引き返す場所はないと、自分で道を断ちながら進んできた。今振り返れば、よくここまでやったと、いくらでも自分を褒めてやりたい気持ちになる。
それでも――彼らは、そのはるか先にいる。
努力も、苦労も、才能も、すべてを超えた場所。そして何より、彼らの周りには常に愛してくれる人がいる。称賛する声がある。守ろうとする人がいる。
私には、ない。だからきっと、何かを差し出した見返りに評価や対価を求めること自体が間違っているのだろう。同じ土俵に立っているつもりでいたのが、そもそも思い違いだったのだ。
人と関わるほど、自分の内側が少しずつ削れていく。言葉を交わすたびに、目を合わせるたびに、何か大切なものがこぼれ落ちていく。
――もう、誰にも見つけられたくない。
ただ静かに、そこにいないものとして扱われたい。そう願うことすら、贅沢なのかもしれなかった。
*
合同コンサートの終了後、打ち上げがあると告げられた。理由としては何一つ不自然ではない。むしろ当然の流れだった。
本音を言えば、行きたくなかった。今すぐ家に帰って、何も考えずに横になりたかった。
けれど断ることはできない。日本人で、年齢も周囲のヌナたちより下で、キャリアも浅い。
ここで不参加を選ぶことは、協調性がないと自ら証明するようなものだと分かっていた。
貸し切りにされた店内は、外の夜気とは対照的に、むっとするほど熱を帯びていた。笑い声とグラスの触れ合う音が絶え間なく重なり、空気はすでに酔いの匂いを含んでいる。
スタイリングチームのヌナたちと同じテーブル――というより、カウンター席の一角に腰を下ろし、勧められるまま料理に箸をつけた。味はほとんど分からなかった。口に運び、飲み込み、咀嚼する。ただ作業のように繰り返すだけだった。
やがて透明な液体の入ったグラスが目の前に置かれる。
「乾杯しよう」
差し出されたそれを見て、胸の奥がわずかにざわついた。
「……すみません、私、あまりお酒が強くなくて」
できるだけ角が立たないように言ったつもりだった。けれど返ってきたのは、短く鼻で笑うような息だった。
「一杯くらい大丈夫でしょ」
その一言で、断る余地は消えた。周囲の視線が、柔らかく、しかし確実にこちらへ向けられているのが分かる。逃げ場がない。
グラスを持つ手が、わずかに震えた。唇をつけ、ほんの少しだけ流し込む。喉を通った瞬間、体の奥で何かが拒絶するように軋んだ。
数分も経たないうちに、指先が冷たくなり、視界の端がゆっくりと歪み始める。
胃のあたりが重く沈み、呼吸が浅くなる。
「顔、白くない?」
誰かが言った。けれど心配というよりは、面倒ごとに巻き込まれたくないという色の方が濃かった。
「もういいよ、飲まなくて」
そう言われてグラスを下げられたが、場の空気はわずかに濁ったままだった。言外に「最初からそう言ってくれればよかったのに」という気配が漂う。
「ちょっと他のとこ行こう」
誰かが立ち上がる。それに続くように、椅子がひとつ、またひとつと引かれていく。
「空気悪いし」
小さく落とされたその言葉だけが、はっきり耳に残った。
気づけば隣にあったはずの気配はすべて消えていた。カウンター席に、ぽつんと一人取り残される。
立ち上がろうと思えば立てたのかもしれない。けれど体がまるで水を含んだ砂のように重く、言うことを聞かなかった。
周囲の喧騒は遠く、膜を一枚隔てた向こう側の出来事のように聞こえる。笑い声も、音楽も、食器の触れる音も、すべてが現実感を失っていく。
何も考えられない。考えようとすると、頭の奥が鈍く痛む。ただぼんやりと一点を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。
このままここで溶けて消えてしまえたらいいのに、と――そんなことだけが、かすかに浮かんでは沈んだ。
*
後方のテーブル席は、まるで別の店のように賑やかだった。
笑い声が弾け、グラスがぶつかり、誰かが大きな身振りで何かを語っている。それに比べてこのカウンター席は奇妙なほど静かで、外の雨音がかすかに聞き取れるほどだった。
貸し切りの店内では、アーティストもスタッフも関係なく、思い思いに席を移動している。
気の合う者同士で集まり、飲み、食べ、騒ぐ。
その結果、ヌナたちに置いていかれた私だけが、この端の席に取り残された。
高校時代に戻ったような気分だった。
体育祭や文化祭といった行事に、義務だからという理由だけで参加していた頃。輪の中に入れず、かといって帰ることもできず、ただ時間が過ぎるのを待っていたあの感覚。
一点を見つめていると、世界が少し遠のく。
音も、光も、体の重さも、すべてが薄い膜の向こう側に押しやられていく。何も感じないでいられる時間だけが、唯一の救いだった。
ふいに、肩を軽く叩かれる。
びくり、と体が跳ねた。無意識のうちに握っていた拳に力がこもる。
「あの……大丈夫?」
低く、控えめな声だった。
顔を上げて、思考が一瞬止まる。
――どうして、ここに。
率直な感想はそれだった。
マーク。NCTの中心にいる、誰もが知る存在。普通に生きていたら、同じ空間にいることすら奇跡のような人が、どうして自分に声をかけているのか理解できない。
夢でも見ているのだろうか、とぼんやり思った。
「あっ、すみません。今、退きます」
咄嗟に出たのは、そんな言葉だった。彼のような人がカウンター席に来るなら、マスターと話すとか、静かに飲むとか、何か理由があるはずだ。自分がいるべき場所ではない。
立ち上がろうとしてスマートフォンを手に取る。けれど、そのわずかな重さすら支えきれず、指の間から滑り落ちた。
硬い床に、乾いた音が響く。
マークが目を見開く。
「すみません」と呟きながら拾おうと屈んだ瞬間、そっと手首を押さえられた。
代わりに彼がしゃがみ込み、スマートフォンを拾い上げる。そのまま手渡すのではなく、壊れ物を扱うように慎重な仕草でカウンターの上に置いた。
「……ここに、置きますね」
責める色はどこにもなかった。
それからどういう流れだったのか、よく覚えていない。ただ、彼が席を離れずに隣に立ち続けていたことだけは確かだった。
「よかったら、少しだけ……話し相手になってくれませんか?」
返事をする前に、すぐに言葉が続く。
「あ、僕が話すので、聞いてくれるだけで大丈夫です」
困らせないように、逃げ道を残す言い方だった。
「ほら、うちのメンバーたち、今ぜんぶ他のことに夢中だから。こっち見てないし」
冗談めかして言ったその一言に、胸がざわつく。まるでこちらの事情を知っているかのような口ぶりだった。
気づけば、彼は隣のスツールに腰を下ろしていた。カウンターテーブルに並んで座り、同じ方向を向いたまま言葉を交わす形になる。真正面から向き合わない距離が、かえって息をしやすくした。
彼はぽつりぽつりと、取り留めのない話をした。ツアー中の小さな失敗談や、最近覚えた日本語のこと、ホテルの枕が合わなくて困っているというような、どうでもいい話。
けれど声は静かで、周囲の喧騒から切り離された空間だけがそこにあるようだった。
――見られていないだろうか。
そのことばかりが気にかかる。背後に視線が突き刺さっているような気がして、落ち着かない。誰かにこの状況を見られたらどうしよう。
アーティストと二人きりで座っているところを見られたら、また何か言われるかもしれない。
冷や汗が背中を伝う。呼吸が浅くなり、指先が震える。
「顔色、本当に大丈夫ですか?」
横からそっと覗き込むように声が落ちる。
「……平気です」
即答したつもりだったが、自分の声が驚くほどかすれていた。
「帰ったほうがいいかも。外の空気、吸ったら楽になるかもしれないし」
首を振る。
「じゃあ、タクシー呼びましょうか?」
「やめてください」
思った以上に強い調子になった。自分でも驚くほど、拒絶の色が濃かった。
沈黙が落ちる。彼はすぐには何も言わなかった。ただ、困ったようでも責めるようでもない、静かな視線が隣から向けられているのが分かる。
「……一人で抜けても、誰も何も言わないと思いますよ」
やがて、慎重に言葉を選ぶようにして呟いた。
「体調悪いなら、なおさら」
その声音には純粋な疑問が混じっていた。この人は、本当に状況を知らないのだろう。
ただ、目の前で具合の悪そうな人がいるから心配している――それだけ。
その無垢さが、かえって痛かった。
「無理してるように見えるから」
問い詰めるのではなく、ただ観察したことを伝えるだけの言い方。
「もし、帰れない理由があるなら……」
少し間を置く。
「話さなくてもいいけど、ここにいる間くらいは、楽にしてていいと思います」
真正面から聞かない。逃げ道を残したまま、言葉を置くだけ。その優しさが、胸の奥の何かに触れた。
*
この仕事に就いてからのことを、私はほとんど一息に話した。つらかったこと、苦しかったこと、どうしても辞められない理由。
アイドルが好きだったこと。この世界に入りたかったこと。
そして――彼のことを、中学生の頃から知っていたことまで。
言葉を選ぶ余裕はなかった。ただ頭に浮かんだ順に、子どもが親に必死で状況を説明するような拙い言い方で、断片をつなぎ合わせていくだけだった。
拒むのも、取り繕うのも、もう疲れていた。全部言ってしまえば、きっと彼は「そうでしたか」と頷いて、自分の席へ戻るだろう。ただの通りすがりの善意として、きれいに終わる。
そう思っていた。けれど、彼は動かなかった。相槌も、途中の慰めも挟まず、ただ静かに聞いていた。視線を逸らさず、しかし覗き込むようでもなく、こちらの言葉が終わるのを待つ姿勢で。
やがて、話が途切れる。自分でも、もう何を言えばいいのか分からなかった。
恐る恐る顔を上げる。少しだけ。
――息が止まりそうになった。
彼は、まるで自分のことのように眉間に皺を寄せ、ひどく悲しそうな顔をしていた。同情とも違う、もっと切実な表情だった。
「あの……」
低く、ためらいがちな声。
「僕の意見を、言ってもいいですか?」
頷くことしかできなかった。
「まず……その、全部一人で抱えてきたんですよね」
ゆっくりと言葉を置くように話す。
「大変だった、っていうのも足りないくらい……多分、想像よりずっと」
否定する気力もなかった。肯定する言葉も出てこない。
「でも、君が弱いからこうなった、っていう話じゃないと思うんです」
その一言に胸がかすかに揺れる。
「だって……普通、そんな状況に置かれたら、誰だって壊れます」
静かな断言だった。
「君が今ここに座ってるのは、むしろ……すごく強いからだと思う」
強い、という言葉が遠く感じた。自分には縁のない概念のようで、実感が伴わない。
彼は少し考え込むように視線を落とす。
「それに、評価とか……そういうの、欲しくなって当然だと思います」
ぽつり、と。
「人って、見てもらえないと、自分が存在してるのか分からなくなるから」
胸の奥に、何かが触れた。
「君は、ちゃんと見てほしかっただけですよね」
肯定でも否定でもない。ただ事実を言い当てられたような感覚。喉が詰まる。
彼は慌てて続けた。
「あ、責めてるわけじゃなくて、その……僕、言葉選ぶの下手で」
少し照れたように笑う。その表情があまりにも普通で、肩の力がわずかに抜けた。
「でも、本当に思うんです。君が悪いんじゃないって」
一拍置く。
「むしろ……君がすごく優しい人だから、全部受け止めちゃったんじゃないかなって」
優しい、という言葉は、想像以上に重かった。
そんなふうに言われたことは、いつ以来だろう。
彼はさらに何かを言おうとして、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
そして、ふっと顔を上げた。
「あの、ちょっと変な話してもいいですか?」
予告の時点で、もう十分に変だった。
「じゃあ、例えば――僕たちの魂を、一本の木だと考えてみてください」
唐突すぎて、思考が追いつかない。それでも彼は真剣だった。
「針葉樹でも広葉樹でも、杉でも白樺でも、なんでもいいんです。……で、君の木は、ガラスでできてるんです」
「……ガラス、ですか」
「そう。君、今二十二歳って言いましたよね? だからその木には、二十二層の年輪がある」
「な、なるほど……」
自分でも何に納得したのか分からない返事だった。
「ごめんなさい、僕、今すごく変なこと言ってますよね?」
さっきまで身振りまで交えて説明していたのに、急に我に返ったらしい。
「いえ……そんなことないです。すごく、興味深いです」
お世辞ではなかった。彼の言葉の選び方は、どこか音楽のように心地よい。意味よりも先に響きが胸に落ちてくる。
「あ、そうですか? じゃあ、続けます」
少し安心したように微笑む。
「そのガラスの木は、どれだけ強い根を張っていても、外からの衝撃で亀裂が入るんです」
彼は「お行儀悪いかもしれないけど」と前置きして、フォークでデキャンタを軽く叩いた。
澄んだ高い音が、静かなカウンターに響く。
「ほら、こんなふうに、ちょっと触れただけでも音が鳴る。木だったら、もっと鈍い音になるはずです」
さらに続ける。
「もしここに釘を打ち込んだら……どうなると思いますか?」
「……割れる、と思います」
「そう。粉々になって、元には戻らないかもしれない」
彼は少し困ったように笑った。
「えっと、僕、科学は詳しくないので、あくまで比喩なんですけど」
言葉を探しながら、それでも丁寧に伝えようとしているのが分かる。
「僕は、木彫りの狸よりも、ガラス細工の白鳥方が好きなんです」
不意に、声音が真剣になる。
「光を反射するところも、周りの色が透けて見えるところも、すごく繊細で、簡単には扱えないところも……全部、そこに確かに存在してる証みたいで。すごく綺麗だと思う」
まるで大事なものを紹介するみたいな、必死さだった。
「だから、ガラスでできた木は、光を全部受け止めて、また外に返せるんです。すごく綺麗な形で」
彼は一瞬言葉を切り、少しだけ照れたように目を逸らした。
「僕が君の魂をガラスの木だって言ったのは……その……」
小さく息を吸う。
「それだけ、君のことを尊敬してるって意味です」
最後だけ、ほとんど聞き取れないほどの声だった。
けれど、十分だった。要するに彼は、私の壊れやすさを否定するのではなく、価値として受け取ってくれたのだ。弱点ではなく、美しさとして。
胸の奥に、ずっと凍っていた場所が、わずかに溶ける。
彼の言葉が終わったあと、しばらく何も言えなかった。返事をしようとすると、胸の奥が詰まって、呼吸がうまくできない。代わりに、目の奥がじんわりと熱くなる。
泣くつもりはなかった。泣く資格もないと思っていた。それなのに、頬を伝う感触があって、ようやく自分が泣いていることに気づく。
「あ……ごめんなさい」
反射的に謝る。理由は分からない。ただ謝らなければいけない気がした。
「いや、謝らないでください」
彼の声は驚くほど柔らかかった。
「むしろ……その、少し安心しました」
「……え?」
「ちゃんと感じてるんだなって思って」
不思議な言い方だった。普通なら「大丈夫ですか」とか「つらかったですね」とか、もっと分かりやすい言葉を選ぶはずなのに。
「ずっと無理してる人って、泣けなくなることもあるから」
自分の膝の上に置いた手を、ぎゅっと握る。
彼は触れなかった。ただ、そこにあるのを見ているだけだった。
「今は、泣いてもいいと思います」
その言葉は許可のようだった。禁止されていた何かが、静かに解かれるような。
声を出さないように、必死に息を整える。
周囲の喧騒は相変わらず遠く、ここだけが切り取られた空間のようだった。
どれくらいそうしていただろう。
涙が止まった頃、体の力が一気に抜けた。まるで糸が切れたみたいに、背もたれに重く身を預ける。
「……眠いですか?」
小さく頷く。
「ちょっとだけ、目を閉じても大丈夫ですよ。ここ、うるさくないし」
言われるままに目を閉じる。まぶたの裏がじんわり熱い。
――まずい。
このまま寝たら、迷惑になる。分かっているのに、体が言うことを聞かない。
「起きてます」
とっさに言った。自分でも信じられないほど小さな声だった。
「うん」
彼は否定しなかった。
「でも、もし寝ちゃっても大丈夫です」
静かな断言。
「僕がちゃんと見てるから」
その一言が、最後だった。
安心した瞬間、意識が深いところへ落ちていく。音も光も遠ざかり、体の重さすら感じなくなる。
*
目を閉じてから、彼はしばらく動かなかった。本当に眠ったのか、それともただ休んでいるだけなのか、確信が持てなかったからだ。呼吸のリズムがゆっくりになり、肩の力が抜けているのを確認して、ようやく小さく息を吐く。
「……寝ちゃったか」
起こすべきか迷う。このままここに置いておくわけにもいかない。けれど、やっと安心して眠れた顔を見ていると、無理に引き戻すことがひどく残酷に思えた。
カウンター越しにマスターが控えめに視線を送ってくる。事情を察したような、何も言わな
い優しさだった。
彼は軽く会釈を返し、静かに立ち上がる。
少し離れた場所で待機していたマネージャーに近づき、声を潜める。
「すみません。あの子、スタッフなんですけど……体調悪くて寝ちゃって」
「誰のチーム?」
「スタイリング。日本人の子です」
マネージャーは一度カウンターの方を見て、すぐに状況を理解したようだった。
「送ればいい?」
「はい。できれば家まで」
短く、しかしはっきりと。
「一人で帰すのは危ないと思うので」
少しだけ間が空く。
「……お前が送るわけにはいかないからな」
「分かってます」
苦笑に近い表情で頷く。
「だからお願いしてるんです」
そして、もう一度だけカウンターを振り返る。眠っている横顔は、先ほどまでとは別人のように穏やかだった。緊張も恐れも消えて、ただ静かに呼吸している。
「……起こさないでください」
低い声で付け加える。
「できるだけ、優しく」
*
肩を軽く揺すられて、意識が浮上する。
「すみません、着きましたよ」
知らない男性の声だった。
目を開けると車内の薄暗い天井が見える。数秒かけて状況を理解する。
――車?
――どうして?
慌てて身を起こすと、シートベルトが体を引き留めた。
「大丈夫ですか?」
運転席から振り返った男性は、落ち着いた雰囲気の人だった。スーツ姿で、どこか業務的な柔らかさを持っている。
「……あの、ここ……」
窓の外を見る。見慣れた街灯、見慣れた建物。自分の住んでいるマンションの前だった。
混乱する。
「どうして……」
男性は胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚差し出した。
「驚かせてしまってすみません」
丁寧に頭を下げる。
「マークのマネージャーをしております」
名刺には確かに彼の名前が印刷されていた。
「彼から、送り届けてほしいと頼まれまして」
言葉の意味が、すぐには理解できない。
送り届けてほしい。
彼が。自分を。
「……あの、私、何か……」
迷惑をかけたのではないか。叱責が続くのではないか。反射的に身構える。
しかし男性は首を横に振った。
「何もありません。ただ、体調が悪そうだったから、と」
少しだけ口元を緩める。
「心配していましたよ」
胸が、強く跳ねた。
「起こすのも申し訳ないから、寝かせたままでいいって」
淡々とした説明のはずなのに、言葉の端々が優しかった。
「ここまで来れば大丈夫ですよね?」
声が出ない。代わりに何度も頷く。
「では、お気をつけて」
ドアを開けて外に出ると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。雨はもう止んでいる。
振り返ると、車内の灯りが一瞬だけこちらを照らし、すぐに消えた。車は静かに走り去る。
一人、マンションの前に取り残される。手の中には、名刺があった。そこに書かれた名前を、何度も確かめる。現実かどうか分からなくて。
――送り届けてほしい。その一言の重みが、遅れて胸に広がる。
自分のために、誰かが動いた。何の見返りもなく、ただ心配だからという理由だけで。
視界がぼやける。
今度は、涙が止まらなかった。
*
あの夜のことは、夢のようだった。
目が覚めればいつも通りの現場があり、締め切りがあり、指示が飛び交い、眠る時間は相変わらず足りない。
スタイリング室の蛍光灯は容赦なく白く、現実を突きつけてくる。
ただ一つ違ったのは、心の奥に、かすかな温度が残っていることだった。
名刺は捨てられなかった。財布の奥に入れて、何度も取り出しては戻す。電話をかける勇気など、あるはずもないのに。
——迷惑かもしれない。
——覚えてないかもしれない。
——そもそも、業務上の配慮だっただけだ。
そう思えば思うほど、余計に触れられなくなる。
結局、何も起きなかった。何も変わらないまま、数週間が過ぎた。
*
再びNCTの現場に入ることが決まったと聞いたとき、心臓が一度だけ強く跳ねた。会場は以前と同じくらい慌ただしい。衣装ラックが行き交い、スタッフが無線でやり取りし、誰かが走る。
できるだけ意識しないようにした。ただの仕事だ。特別なことは何もない。
控室の前を通りかかったときだった。ドアが開き、中から人影が出てくる。視線を落としたまま避けようとして、ぶつかりかけた。
「あ、ごめん——」
聞き覚えのある声。顔を上げる。
時間が止まった。
マークだった。あの夜と同じ、少し驚いたような目。しかし次の瞬間、その表情が変わる。
「……あ」
はっきりとした反応だった。心臓が嫌な音を立てる。何か言わなければ。仕事中だ。立ち止まってはいけない。
「すみません」
深く頭を下げて、そのまま通り過ぎようとする。けれど、足が止まった。
「大丈夫ですか?」
後ろから声が落ちる。その言葉は、あの夜と同じだった。
振り返る。彼は、確信したようにこちらを見ていた。
「この前……送られたあと、ちゃんと帰れました?」
呼吸が止まるような感覚。覚えている。
「……覚えて、るんですか」
思わず漏れた声は、情けないほど小さかった。
「覚えてますよ」
即答だった。
「忘れるわけないじゃないですか」
まるで当然のことのように言う。胸の奥が、強く掴まれたみたいに痛む。
「体調、今はどうですか」
「……大丈夫です」
「ほんとに?」
覗き込むような目。あのときと同じ、逃げ場を塞がない優しさ。
周囲のスタッフが行き交う。誰かに見られているかもしれない。でも、不思議と怖くなかった。
「……ありがとうございました、あのとき」
やっと言えた。彼は少しだけ安心したように笑った。
「よかった。無事そうで」
短い沈黙。何か言いたそうにして、しかし迷っている様子だった。
やがて小さく息を吸う。
「もし迷惑じゃなければ」
ポケットからスマートフォンを取り出し、何かを操作する。そして名刺サイズのカードを差し出した。
「これ、僕の連絡先です」
思考が追いつかない。
「え……」
「個人のやつです。仕事のじゃなくて」
さらに混乱する。
「いつでも連絡してくれていいので」
反射的に首を振っていた。
「でも……忙しいじゃないですか」
自分でも何を言っているのか分からない。断りたいわけではない。ただ、受け取る資格がない気がした。
彼は少しだけ目を丸くして、すぐに柔らかく笑った。
「忙しいのは、お互い様でしょ」
あまりにも自然な返しだった。
「君もすごく忙しそうだし」
言葉が出ない。彼はカードを引っ込めず、ただそこに差し出したまま待っている。
「本当に、いつでも連絡してくれていいから」
さっきまでの柔らかさとは違う、静かな真剣さだった。
「何かあったときじゃなくてもいいし、何もなくてもいいし」
一瞬、言葉を探すように視線を落とす。
「ただ……元気かどうか分かれば、それで安心するので」
胸がいっぱいになって、息がうまくできない。震える手でカードを受け取る。指先が触れそうになり、慌てて引っ込める。彼も同じように少しだけ距離を取った。
それが逆に、ひどく誠実に思えた。
「……ありがとうございます」
かろうじて絞り出す。彼はうなずいた。
「無理に連絡しなくてもいいです。でも」
一拍。まっすぐに目を見て言う。
「本当に、いつでも連絡してくれていいから」
その言葉は約束のようだった。命令でも、社交辞令でもない。
ただ、扉が開かれているという事実。
スタッフの呼ぶ声が遠くから聞こえる。彼はそちらを振り返り、またこちらを見る。
「じゃあ、仕事頑張ってください」
去り際、ふっと笑う。
「あんまり無理しすぎないように」
そして人の流れの中に消えていった。
残された手の中には、温度の残るカード。
胸の奥で、何かが静かに芽を出していた。