今から十年も前のこと。
少年アルージエは、当時何の権力も持たぬ平民だった。
彼が教皇として擁立されたのは、偉大な奇跡を持つことが判明した三年後。当時の彼は──フェアシュヴィンデ公爵領に住む平民に過ぎなかったのだ。
彼の家は賊に焼かれ、家族は殺された。
今でもあの記憶は脳裏に焼き付いている。
後に『グラバリの惨劇』と呼ばれる事件は、以後ファデレン・フェアシュヴィンデ公が治安維持に力を入れる要因になったとも言われる。
グラバリの惨劇で生き残った数少ない人間。
それがアルージエである。
「……ああ、よかった。まだ息がある」
焼け落ちる瓦礫の下、かつて彼を助けた人がいた。
栗色の髪を持つ、目立ちの整った少女。
荒れ果てた山村には似つかわしくないドレスを着ていた。
「もう大丈夫よ。ねえ、だからお願い……生きて」
彼女は赤の他人のために涙を流した。
大きく腹部に傷を負ったアルージエの手を取って。
生きたい。
生きて、この少女のためになりたい。
彼は願った。
「きみの、名前は……」
かすれた声、今にも途切れそうな息。
アルージエは少女の名を問うた。
「シャンフレック。あなたを助けたい……でも、何もできないの。ここの人たちはみんな死んでしまって、もう救えない。せめてあなただけでも助けたいのに……どうして私は無力なの?」
シャンフレック。
その名を魂に刻んだアルージエは心から渇望した。
その渇望が奇跡を引き起こす。
彼の願いは天上へ至り、大傷を治していく。
この日、彼は奇跡を得た。
故郷を失ったアルージエはフロル教の教会に預けられ……やがて並外れた奇跡を理由に、次期教皇として選出される。
***
そして十年後。
アルージエはヘアルスト王国の土を踏んだ。
教皇になって以来、ほとんどルカロの神殿に籠りきりだったが……今回はどうしてもわがままを言って抜け出してきたのだ。
隣国の様子を視察すると称して、民間人に紛れて。
本命の目的はまた別にあったが。
「王都は栄えているな。帝国の脅威はあれど、民はとりあえず幸福に暮らせているか」
彼が確認しているのは、国の治安とフロル教の浸透度。
ヘアルスト王国はフロル教を国教に掲げており、各所に教会が建っている。民の信仰は篤く、問題はなさそうだ。
「確認したいことは済ませた。あとは……やはり彼女に会いたいな。僕のことは忘れているだろうが、せめて顔だけは拝んでおきたい」
幼少期に救ってくれたシャンフレック・フェアシュヴィンデに会うこと。それが彼の本命だった。
噂によればシャンフレックは第二王子の婚約者となっていて、今は王城で過ごしているらしい。平民として来ている以上、面会は不可能に近い。
「たしか兄のフェアリュクト殿が、別邸に滞在していたはず」
王城での面会は不可能でも、貴族街にある邸宅に面会を希望すれば通る可能性はある。シャンフレックとコンタクトを取るには、兄に会うのが手っ取り早いだろう。
フェアリュクト・フェアシュヴィンデ。
またの名を『雷光獅子』……国内最強と謳われる貴公子である。
グラバリの惨劇においても、山賊の襲撃から守ってくれたのはフェアリュクトだった。
アルージエは一縷の望みにかけて、貴族街へ向かった。
***
無事に面会の申請は通り、アルージエは屋敷の中に迎えられた。
フェアシュヴィンデの一族が民の意思を重んじるという噂は、どうやら本当のようだ。
「すまない。遅くなった」
客室に現れたのは、茶髪と碧眼を併せ持つ美丈夫。
すらりと高い長身に、鋭い目つき。
幼少期にもフェアリュクトの姿を見たことのあるアルージエだが、一段とたくましく成長したように感じる。
「お初にお目にかかります。アルージエ・ジーチと申します」
「む……どこかで聞いたことがあるような。まあいい、座れ」
フェアリュクトに促され、アルージエは正面に腰を下ろす。
「それで、何か用か? この後、俺は仕事がある。深刻な悩みでなければ手短に頼みたい」
「お忙しいところ恐縮です。実は、妹君のシャンフレック様にお目通しいただきた……」
「ダメだ」
言いきるまでもなく、フェアリュクトは拒否した。
食い気味な拒否にアルージエは困惑する。
そこまで怪しく見えるだろうか。
「失礼しました。まずは事情を説明しましょう。僕は十年前のグラバリの惨劇の生き残り。かつてシャンフレック様に命を救われた身なのです。久々に王都に戻り、せっかくですからお礼を伝えさせてはもらえないかと……」
「なるほど。だが妹に会わせるわけにはいかん。グラバリの惨劇の生き残りという話も、本当かどうかわからんからな」
たしかに、アルージエが嘘を言っていないとも限らない。
ならば面会は諦めよう。
彼としては謝意を伝えられればそれでよかったのだ。
「では、感謝の手紙を認めます。それをお渡ししてもらっても?」
「……いいだろう。時間を取らせる」
「ありがとうございます」
未だにフェアリュクトは訝しんでいるようだったが、許可を出してくれた。
アルージエは筆ペンをさらさらと走らせ、手紙を認める。
あくまで自分が教皇だという事実は伏せて、命を救われたひとりの平民として。
熱烈な感謝と敬意をこめて。
「終わりました。これをお願いします」
「中身を検めても?」
「大丈夫です」
見られて困るような内容は書いていない。
単純な感謝を綴っただけだ。
アルージエはそう思っていたのだが……
「な、な……」
フェアリュクトの顔がどんどん険しくなっていく。
頬から耳元にかけて徐々に紅潮し、眉間に皺が寄って。
やがて鬼のような形相に。
「なんだこのラブレターはぁぁっ!!」
フェアリュクトが急に叫んだと同時、アルージエの額に衝撃が走った。
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