テラーノベル
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夜は、静かなふりをしているだけだ。
本当はずっと軋んでいる。
古びた屋敷の柱も、床板も、そしてここで生きている人間も。
「……まだ終わってないのかよ」
背後から落ちてきた声に、肩がびくりと揺れた。
「す、すみません……もう少しで……」
振り返らずに答えると、乾いた笑いが降ってくる。
「遅ぇんだよ。お前は何やっても」
桶の中の水はとうに冷えきっていて、指先の感覚はほとんどなかった。
それでも止めるわけにはいかない。
止めれば、叩かれるからじゃない。
――居場所がなくなるから。
「ちゃんとやれよ、“家族”なんだからさ」
その言葉だけ、妙にやわらかくて、だから余計に苦しかった。
足音が遠ざかるのを待って、ようやく息を吐く。
家族。
その言葉を信じようとしたのは、いつまでだっただろう。
もう思い出せない。
夜更け。
誰もいなくなった台所で、ひとり、床に座り込む。
濡れた手を見下ろすと、ひび割れた皮膚が痛々しく開いていた。
「……綺麗じゃないな」
ぽつりとこぼした言葉は、誰にも届かない。
本当は知っている。
自分が、かつては違ったことを。
でも、それを思い出すのは怖かった。
今の自分との落差が、あまりにも残酷だから。
「……行きたかったな」
今日の夜会。
煌びやかな灯り、音楽、笑い声。
全部、自分には関係のない世界。
でも、ほんの少しだけ――
見てみたかった。
そのとき。
「なら、行けばいい」
低く、柔らかな声が、背後から落ちた。
はっとして振り返る。
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
黒い衣に、夜より深い影をまとったような存在。
なのに、不思議と怖くはなかった。
「だ、誰……」
「願っていただろう?」
男は答えずに笑う。
「見てみたいと。触れてみたいと。選ばれたいと」
心臓が強く打った。
言っていないはずの言葉を、なぞられたようで。
「……そんなこと、」
「嘘をつくな」
静かに遮られる。
責める声じゃない。
ただ、見透かしているだけの声。
「お前は、ずっと待っている」
ゆっくりと、男が近づいてくる。
「誰かが、お前を見つけるのを」
一歩、また一歩。
逃げなければいけないのに、足が動かなかった。
「……違う」
否定は、かすれていた。
「違わない」
男の手が、頬に触れる。
冷たいはずなのに、妙に優しかった。
「なら、与えてやる」
その瞬間。
視界が、白く弾けた。
気づいたとき、立っていたのは、見知らぬ場所だった。
高い天井。
眩い光。
音楽が、空気を震わせている。
――夜会だ。
「……え、」
自分の声が、少し違って聞こえた。
慌てて手を見る。
さっきまで荒れていた指先は、嘘みたいに滑らかで。
服も、何もかもが違っていた。
「……これ、」
震えが、止まらない。
夢みたいだ。
いや、夢だとしてもいい。
そのとき。
ざわり、と空気が揺れた。
人々の視線が、一斉にこちらへ向く。
息が詰まる。
怖いはずなのに、どこかで期待している自分がいた。
――見てほしい。
その願いに、応えるように
一人の男が、こちらへ歩いてくる。
誰よりも整った顔立ち。
誰よりも静かな圧。
そして何より、その目。
まっすぐに、こちらだけを見ていた。
「……君」
低い声。
それだけで、逃げ道が塞がれるような感覚。
「名前は?」
答えなければいけない。
そう思うのに、言葉が出ない。
名前なんて、意味があるのだろうか。
この姿も、この場所も、全部借り物なのに。
「……ありません」
気づけば、そう答えていた。
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
男は、わずかに笑った。
「なら、ちょうどいい」
手が差し出される。
拒む理由なんて、なかった。
「今夜だけでいい。俺のものになれ」
その言葉に、胸が強く締めつけられる。
怖いのに。
どうしようもなく、安心してしまう。
「……はい」
頷いた瞬間。
何かが、決定的に壊れた気がした。
音楽が流れる。
手を取られ、引き寄せられる。
近い 近すぎる。
「震えてるな」
「……初めて、なので」
「そうか」
それだけで、深く頷かれる。
否定も、疑いもない。
ただ、受け入れられている。
それが、こんなにも――
「気に入った」
囁かれた言葉に、息が止まる。
「逃がさない」
その一言が、やけに甘く響いた。
遠くで、鐘の音が鳴り始める。
――零時。
胸がざわつく。
なぜか、ここにいてはいけない気がする。
「どうした」
「……帰らないと」
思わずこぼれる。
「どこへ?」
答えられない。
帰る場所なんて、ないくせに。
「……でも、」
離れなければ そう思うのに。
手が、離れない。
「行くな」
強く、引き寄せられる。
逃げ場がない。
でも、それが嫌じゃない。
「お願い、です……」
「何がだ」
「……覚えていてください」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。
「お前を?」
「……はい」
一瞬の沈黙。
やがて、男は静かに笑う。
「当たり前だ」
その声は、あまりにも確信に満ちていて。
「お前は、もう俺のものだ」
鐘の音が、世界を裂く。
光が揺れる。
視界が崩れる。
逃げるように、手を振りほどく。
「待て――」
その声を振り切って、走った。
気づけば、元の台所だった。
荒れた手、 汚れた服。
全部、元通り。
「……夢、」
呟きかけて。
足元に、違和感を覚える。
そこには、ひとつだけ。
場違いなほど美しい靴が、落ちていた。
一方、その頃。
夜会の広間で。
「……逃げたか」
男は、静かに呟く。
手の中に残る、温もりを見つめながら。
床に残された、もう片方の靴。
それを拾い上げて、口元を歪める。
「…いい」
低く、楽しげに。
「探し出してやる」
視線が、どこか遠くを見る。
「今度は、逃がさない」
それは、救いじゃない。
檻の始まりだった。
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