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廊下に出たマリアンヌは、歩いているつもりだったが、ほとんど小走りに近い状態だった。
背後からジルが「お、お待ちください、お嬢様っ」と声を掛けてくるが、足を止めることができない。ジルが追いついてくれるのを祈るのみだ。
ロゼット家は長い歴史を持つ名門侯爵家だ。その邸宅となれば、他の貴族と比べてもかなり広い。
生まれた時からずっとここで過ごしているが、逸る気持ちを抱えている今は、この広さがちょっとだけ憎らしい。
そんなことを考えながらも、マリアンヌの足は止まらない。
ドレスの裾が乱れるのが嫌で、一歩足を出すごとに片手で皺を伸ばしてしまう。
今日は特別な日だから、そんな日に相応しいドレスを選んだのだ。これを見せたい人は応接室で待っている。しわくちゃな状態で会うなんて、とんでもない。
マリアンヌは歩きながら視線を下に落とす。レイドリックの瞳と同じ亜麻色のレースを少しだけ使った藤色のドレスが視界に入る。
本当は彼の瞳と同じドレスにしたかったけれど、あからさまなのは少し……いやかなり恥ずかしいから我慢した。
とはいえ、レースは胸元と袖口にしか使っていないから、もしかしたら気付いてもらえないかも。
(もっとたくさんレースをあしらっておけば良かったかしら?)
男性はそういうところに気が回らないと、もう一人の幼馴染のエリーゼが言っていた。
そうだ。もし気付いてくれなかったら、エリーゼに言いつけてやろう。きっと自分の代わりにレイドリックを叱ってくれるはず。
マリアンヌの唇が、知らず知らずのうちに弧を描く。指先は自然に胸のリボンに触れていた。
リボンは、もう一人の親友の瞳と同じ熟した果実のようなマルベリー色をしている。
「ふふっ……今度のお茶会が楽しみだわ」
鈴を転がしたような笑い声を立てたと同時に、応接室に到着した。ジルも、ほぼ同時に追いついてくれた。
「お兄様、お待たせしました」
ジルの手で開けられた扉から2歩進んで、兄に向けてマリアンヌは腰を落とす。
ついさっきまでバサバサと音を立てて廊下を早歩きしていたなど、微塵も感じさせぬ優雅さだ。
「いや、待つどころか、こんなに早くて驚いたよ」
口調だけは落ち着いているが、ウィレイムは驚いた表情を隠すことはしない。
(しまったわ。急ぎすぎてしまったようね)
マリアンヌは心の中で舌を出した。
年が離れている兄のウィレイムは、マリアンヌにとって優しい存在だったが、少し……いや、かなり過保護なところがある。
だから廊下を小走りで移動したのがバレたら、絶対に小言が始まってしまうだろう。
お行儀が悪いとかではなく、走って転倒したら危ないとか、階段を踏み外したらどうするんだという内容で。
きっと兄の目には、まだ自分が小さな子供に見えているのだろう。もう16歳で、社交界デビューだってしたというのに。
兄に対して少しだけ不満を持ってしまうマリアンヌだが、嫌なわけではない。ただ、くすぐったいだけだ。
「……ま、いいか。さぁ、座りなさいマリー」
ウィレイムは何か言いかけようとして、すぐにやめた。
普段通りの穏やかな表情に戻ると、ソファの背を軽くたたいた。
この応接室には、中央にテーブルがあって、そこを囲むようにソファが3つある。一つは一人掛けで、残り2つは3人掛け。
一人掛けのソファには、ウィレイムが既に腰かけていて、3人掛けのソファにはレイドリックが背筋を伸ばして着席している。
本当ならレイドリックの隣に座りたいけれど、兄を不機嫌にさせてしまうかもしれない。悩んだ挙句、マリアンヌは空いている方の3人掛けのソファに腰かけた。
そこでやっと、レイドリックと目が合った。
22歳にしては幼い印象を与える彼は、少し疲れた顔をしていたけれど、マリアンヌと視線が合えば、軽く眉を上げて笑みを浮かべてくれた。
「レイ、あのね」
「お茶のお代わりを用意させよう。マリー、お前も飲むだろう?」
まるで二人の仲を裂くように、ウィレイムはマリアンヌの言葉を遮って問いかける。
「……お兄様」
少しばかり非難を込めてマリアンヌがそう言っても、ウィレイムは意に介さない。それどころか、同じ問いを繰り返す始末。
23歳になるウィレイムは、三年前から家督を継いでいるので、年齢より落ち着いて見える。周りの評価も高く、マリアンヌにとって自慢の兄である。
なのに昔からマリアンヌが他の異性と会話をしていると、こんなふうに子供じみた態度を取る。妹が他の男と楽しそうにしているのが、それほど嫌なのだろうか。
マリアンヌは小さく息を吐いた。でも、それ以上不満げな態度を表に出すことはしない。ここで兄の……いや、侯爵家当主の機嫌を悪くするのは得策ではないのを知っているから。
「わたくしもお茶を飲みたいですわ、お兄様」
にこやかに返事をすれば、ウィレイムは小さく頷いてからヨーゼフにお茶を淹れ直すように指示を出した。
それから数分後、ハーブティーではないが、馴染みのある香り高いお茶が並べられ、ここにいる3人は静かにお茶を口に含んだ。
「───さて、マリアンヌ」
ティーカップをソーサーに戻してから、ウィレイムは口火を切った。
「兄としてはとても不本意ではあるが、お前の結婚相手が決まった」
「はい」
マリアンヌは緩んでしまう頬を叱咤しつつ、小さく顎を引く。
「ここにいるレイドリックがお前を妻にと求婚をしてきた。私は一応同意をした。あとは、お前の気持ち次第だが」
「謹んでお受けさせていただきます」
「……マリー、私はまだ全部話し終わっていないぞ」
「あ、ご、ごめ……いえ、失礼しました。お兄様」
ふふっと手の甲を口元に当てて、マリアンヌが誤魔化し笑いをすれば、ウィレイムは『まったくお前は』と言いたげに、肩をすくめた。
そんなじゃれ合うような兄弟のやり取りを、レイドリックは微笑みながら眺めていた。
けれども、その目の奥は笑っていなかった。
亜麻色の瞳の奥には、冷え冷えとした蔑みの色が見え隠れしていた。