大地陽子(38)×宮内弘晃(43)
秋の朝の匂いが好きだ。
凛とした清涼感があって、夏の重だるさも、冬の冷然さもなく、肺の中を、体中を流れる血液の中を、綺麗なものに入れ替えてくれるような秋の匂いが。
「大地さん、試乗車の鍵差し、していただいてありがとうございました!」
展示車の洗車を終えた結城麻里子が駆け寄ってくる。
黒田支店の“秋の大感謝祭”のサポートスタッフとして選ばれた大地陽子(おおちようこ)は、彼女に笑顔を返しながら伸びをした。
「そんなに動いて大丈夫?」
「平気です!お医者さんにも安定期に入ったと言われたので!」
と、麻里子のスマートフォンが鳴った。
「あ、はい。結城です。あ、少しなら大丈夫です。————はい。——————ええ?!」
麻里子の顔が歪む。
「そんなぁ!あれ、凄く気に入ってたのに…。選び直しったって……。———相談してみます。——はい」
スマートフォンをしまうなり、眉を下げてため息をついている。
「どうしたの?」
「もう。来月の結婚式でドレス借りる予定のブライダルハウスからなんですけど、選んだネックレスが、手違いで他の人と被っちゃったとかで。別のもの選び直してほしいそうなんですよ…。シルバーとパールの花柄で、ゴールドのラインがアクセントで入ってて、凄く素敵だったのになあ。ショック」
シルバーとパールの花柄。ゴールドのライン。
「ねえ。もしよかったらだけど、家にあるよ。私が使ったやつ」
「えっ!本当ですか?」
「うん。オーダーメイドで作って、結構高かったやつ。結婚式以来一度もつけてないから傷んでないと思うけど。見るだけ見てみる?今度持ってくるから」
「いいんですか……!?」
麻里子の大きな目がたちまち潤んでいく。
(すごい。漫画みたい。どうやったらこんなウルウルな目になるの?女子力?これって)
「ありがとうございます!」
朝陽を浴びた長い睫毛が、顔に影を作る。
(すごい。睫毛で影ってできる?普通…)
輝く笑顔が眩しい。
大したもんだ。
陽子はこの子を見るたびにそう思う。
本部の女たちから煙たがられ、公開プロポーズ以降、余計に風当たりが強くなったのにも関わらず、飄々と成績を上げ続けている。
彼女を強くさせているのは、やはり夫である結城の存在が大きいのだろう。クールで少し素っ気ない印象の彼だが、麻里子に対する態度を見ていると、物凄く大切にしているのが伝わってくる。
(今が一番、いい時期かもな)
その笑顔を見ながらほの暗い感情が胸を掠める。
お腹に子供がいて、優しい旦那さんがいて。
ドアを開けてあげたり、荷物を持ったり、妻を気遣いながら、お腹の子に語り掛けたり、一緒に服やベビーカーを選んだり、子供の名前を考えたり。
自分も幸せだった。確かに。
でも子供が生まれた途端女性は変わる。
子供を守る母熊のように。
そして夫婦関係も変わる。
“男女”から“パパママ”に。
女から一瞬でママに変わることができる妻に対して、男からなかなかパパに変われない夫に、妻はイライラし、絶望し、いつしか愛情が薄れていく。
「楽しみにしてますね!」
ピーピーピーピー
そんな陽子の暗い感情に気づきもせずに麻里子が満面の笑みを見せた途端、彼女のインカムが鳴り出した。
『麻里子、新規』
店長の宮内だ。
その低い声に、一瞬、身体がビクンと反応してしまう。
『コンパクトカーのカタログが欲しいって。今、梨央ちゃんが対応してる。至急行けるか?』
「はい、行きます!」
『両親を連れた若い夫婦だ。アツいぞ。決めてこい』
「はい!」
インカムを切ると、彼女のその顔は、結婚式を控えた妊婦から、黒田支店の立派な稼ぎ頭の顔に変わっていた。
「頑張ってね」
言うと、
「ありがとうございます!」
と駆け出していく。
「走るなってのに……」
陽子はその後ろ姿を見て微笑んだ。
麻里子の店頭一発、新車受注で幕を上げた黒田支店のイベントは、午前中だけで新車5台、中古車2台と好調に受注を重ねていた。
受付の梨央と、イベント時だけレンタルしているドリンクマシンの中身を確認していると、店長の宮内が覗き込んできた。
「梨央ちゃん。寒くなってきたから、ポットのお湯、切らさないでね」
言われた梨央が2台あるポットを確認する。
「あ、こっちなくなりそう。ミネラルウォーター、休憩室から持ってきていいですか」
「いいよ、ここは見とくから」
陽子が言うと、お辞儀をして休憩室に消えていった。
派手な容姿から、すぐに結婚して辞めていくかと思われた梨央も、今年で5、6年になるだろうか。
ほいほいデキ婚で辞めていく派遣の受付嬢の中では長く続いている方だ。
「ーーー久しぶり」
梨央の重力を感じないプリプリのお尻を見ていると、後ろから宮内が声をかけてきた。
同じ建物の1階と2階に勤務しているので、厳密にいえば“久しぶり”ではないのだが、言葉を交わすのが久しぶりだという意味で言っているのだろう。
陽子は頷いた。
「黒田支店はここ数年、ずっと順調ですね。店長の管理能力が高いからですか?」
言うと宮内は鼻で笑った。
「まさか。営業が優秀なんだよ」
(————へえ)
心の中で呟いた。
陽子が知っているこの男は、人を認めるなんてするような人間じゃなかった。
他の追随を許さずに、いつもトップを独走していて、
「どうやったら、売れるんだよ、宮内」
と先輩営業に嫌味を言われても、
「感性とセンスですかね」
と真顔で返し、睨まれ煙たがられながらも、壇上で表彰され続けた男だった。
それが、部下を褒めるなんて。
「もうやだ~、大貫さんたら」
人懐こい笑顔で、客から叩かれている大貫を見る。
「嬉しい~!また絵を描いてきてくれたの?」
客の子供から似顔絵を受け取っている麻里子を見る。
この子たちが、彼を変えたのだろうか。
ふと、展示車の周りをうろついていた男性が、運転席に座るのが見えた。椅子の高さ調整がわからないようで、四苦八苦している。
陽子はカウンターを出ると、展示車の運転席に回った。
「高さ調整はこちらのレバーを使っていただきます。高くしたいときは上に何度も引いてください。逆に低くしたいときは何度も下に押し込んでください」
言うと男性客は「ああ!」言いながら椅子を下げた。
「ありがとう!」
「いえいえ、ごゆっくり」
微笑みを返しながらカウンターへ戻る。
宮内がすかさずインカムを入れる。
『展示車。男性客が一人、運転席に座ってるぞ。行ける営業、行け』
すぐさま、中堅社員の木村が、偶然通りかかったように足を止め、運転席の男性に話しかける。
「さすがだな」
インカムを切った宮内が陽子を見下ろす。
「本部に行っても商品知識は頭に入れてあるのか」
「当たり前でしょ。何年この仕事やってると思ってるの」
つい、言葉が砕ける。
「宮内店長の奥様も、もし仕事を続けていたら、同じことをなさったと思いますよ」
慌てて取り繕うように言葉を重ねる。
宮内は一瞬静止し、そして陽子を見下ろした。
斜め上から視線を感じる。
ダメだ。
目を合わせては。
何か言葉以上の意図があるように勘違いされてしまう。
『宮内店長。車検見積もり中の車、オイル漏れです。営業呼んで台促(台替え促進)かけますか?』
エンジニアからインカムが入る。
「ああ。まず俺が程度を見る。何番ピットだ?」
言いながら宮内がスーツのひだを翻しながらカウンターを抜けて行く。
その姿が硝子戸をあけて作業場に出て行くと、陽子は安堵のため息をついた。
結局、閉店時間を過ぎても、3組の商談が終わらずに、やっと見送りをしたときには8時を回っていた。
派遣のため定時で帰ってしまった梨央の代わりに戸締りを確認していると、
「遅くまで悪かったな」
のぼりを片付けた宮内がショールームに入ってきた。
「いえいえ、大丈夫ですよ」
「これから飯作るのか?」
ふっと笑ってしまう。
「子供はもう中学生ですし。自分で何とかできます。それに今日は友達の家に泊まり込んで受験勉強するとかで」
「へえ、えらいな」
「家で私に小言吐かれるのが嫌なんでしょう、きっと」
「旦那は?」
宮内の口から何気なくでた言葉が陽子の胸を刺す。
「——最近、外で食べてくることが多いので。今日もそうだと思います」
「外で食べてくるったって。今日土曜日だろ。市役所職員じゃなかったか、お前の旦那」
営業の記憶力の良さを嘗めていた。
陽子は少し俯いた。
「とにかく、ご心配なく」
いくらでも誤魔化すことは出来るのに、宮内の鋭い目に見つめられると、思考力が半減してしまう。
昔からそうだ。
この男には嘘がつけない。
「なあ」
他に誰もいないショールームは、よく通る宮内の声が、さらに響いて聞こえる。
「明日、イベント終わったら、久々に飲みに行かないか。一杯奢るよ」
思いがけない誘いに身体がたじろぐ。
(だめよ。ただの同僚とはいえ既婚者同士なのに、2人きりで飲むなんて)
しかも相手は宮内だ。
この男は、ただの同僚ではない。
でも―――。
きっと明日も夫は帰ってこない。
シンと静まり返ったリビングで、楽しくもないバラエティをつけて、この家のローンとか、娘の進学とか、病院通いが増えた両親のことなどを考えながら、壁時計を見上げる自分を想像する。
カチ コチ カチ コチ
秒針が音を立て、長針が動くたび、絶望が積み重なっていくあの感覚。
高校受験勉強に励む娘が2階に籠っているのは寂しい。
でも娘と話すことで誤魔化したくない、自分が置かれている現状。自分が抱いている感情。
「いいですよ。うんと高いお店でお願いしますね」
陽子は羽織っていたカーディガンのボタンを留めながら、何でもないことのように言うと、ショールームを後にした。
デスクに置かれた受話器を握りしめ、明日の呼び込みに勤しんでいる営業マンたちに会釈をしながら、事務所の傍らに置いてあったバックを肩にかける。
薄手のストールを巻くと、ちょうどショールームから戻ってきた宮内に、意味深な目配せをして、事務所の出入り口を開け放った。
冷たい風が頬を撫でる。
ストールで鼻まで覆いながら社員駐車場に向かう。
コツン。コツン。コツン。コツン。
カウントダウンの如く、ローヒールの靴底が鳴る。
これは何のカウントダウン?
決別?
破滅?
崩壊?
夫は浮気をしている。
それも随分前から。
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