次の日、持っていったネックレスを見て、昨日新車3台、中古車1台を売り上げた店舗のトップスタッフは、目を輝かせた。
「すごーい!そうそう!こんな感じのだったんですよ!綺麗!」
「つけてみる?」
「え、いいんですか?」
麻里子を開店前のショールームの多目的トイレへ連れていく。
「襟元のボタン外して」
言うと、麻里子は素直に第三ボタンまで外して綺麗な鎖骨を出した。
白くなめらかな首元に軽く嫉妬しながらネックレスをかけ、首の後ろで長さを調節しつつ留める。
「わあ」
鏡に映る自分とネックレスを交互に見て、麻里子は笑った。
「髪を短く切ってしまったので、ネックレスだけはこだわりたいなって思ってて。すごく素敵です。本当に使っていいんですか?」
「もちろん」
陽子は微笑んだ。
「やった」
麻里子の目がまた潤んでいる。
もしかしたら妊婦特有のホルモンバランスの崩れで、涙もろくなっているのかもしれないなと思った。
そうでなくても公開プロポーズから、結婚、妊娠までジェットコースターのようなスピードで駆け抜けてきたのだ。いろいろ感慨深いものがあるのだろう。
麻里子は鏡に映る自分をスマートフォンで撮った。
きっと新婚の夫に送るのだろう。帰ってからいくらでも直接見せられるだろうに、早く教えたくて堪らないのか、先輩の前だというのに、ほぼ無言でメールを打ち始めている。
その幸せ溢れる麻里子の顔を見ながら、目を細めた。
(この子、私のなんか使って大丈夫かな)
陽子の中に暗い感情が影を差す。
(毎日夫の浮気を受け止めながら、離婚のタイミングを思案している私のなんかを…)
「お疲れ」
「お疲れ様です」
居酒屋の掘りごたつに足を下ろし、やけに重たいビアジョッキを合わせると、二人は同時にそれを口に運んだ。
泡を唇の上につけながら、一気に半分くらいまで飲み干した姿を見て、昔の宮内の姿がかぶって見える。
思わず口元をほころばせた陽子に、宮内は片眉を上げた。
「どうした」
「いえ」
『変わんないなと思って』なんて言葉にしたら、陽子の気持ちも変わっていないと誤解されかねないと思い、陽子ははぐらかした。
「てっきりホテルのバーとかだと思ったのに」
高いお店を期待したのに、という意味で言ったのだが、捉えようによっては、“その後”を期待している不埒な言葉に聞こえかねない。
陽子は焦って言葉を続けた。
「お洒落なバーカウンターに誘うには、おばさんになっちゃったのかなって」
「馬鹿」
しかし宮内は気にする様子もなく笑った。
「下手なバーよりこっちの店のほうが高いんだぞ。ほら」
言いながらメニューを見せてくる。
「え」
刺身などの海鮮料理が多いメニューには、ことごとく金額が書かれていなかった。
慌てて周りを見回すと、なるほど、同僚との飲み会というよりは、接待と思われるスーツを着こなした男性たちや、良い服を着た老夫婦が、グラスで日本酒を傾けていた。
「リクエストにお答えしたつもりですけど?」
言いながら宮内がメニューを捲る。
「もう適当に頼んであるから、勝手に運ばれてくるけど、もし食いたいのあったら言えよ」
それ以上メニューに興味をなくした陽子を見て、
「要らねえわな」と宮内は笑う。
「お前、昔から、酒さえあればつまみは何でもいい女だもんな」
“お前”
“昔から”
“女”
そんな他愛もない言葉が、陽子の心をチクチクと刺激する。
他意のない宮内が微笑みながらジョッキを傾ける。
黄色い液体はたちまち、その口の中へ吸い込まれていった。
(5個上だから、今年で確か43だ。12月が誕生日だから、まだ42歳、か)
42歳。男としてはまだまだ若い。
その顔をマジマジと見る。
まあ昔と同じとまではいかないが、そこまで顔も肌も体型も、変化がないように思える。
38歳になった自分は、だいぶ変わってしまった。
(私は、こんなに変わったのに。なんで彼はあまり変わらないんだろう)
陽子は、解せない疑問を、ビールと共に流し込んだ。
やはり高いだけあるのだろう。
旨い肴と共にアルコールもどんどん進んでしまう。
もともと酒に強い宮内も顔色一つ変えないが相当アルコールを身体に入れているはずだ。
ビールをハイボールに切り替えながら、店のこと、会社のこと、メーカーのこと、他愛もない話が続く。
「黒田支店は、代替えの時期だから」
「車…じゃなくて、スタッフってことですよね?」
「そう、営業スタッフのさ。大貫や、麻里子みたいな30代が引っ張って行かなきゃいけないから」
「―――へえ。麻里子さんて30になったの」
「ああ。今年な」
「30で、結婚か」
椅子を軽く引いて天井を見上げる陽子を宮内は、微笑んで見上げた。
「自分もそれくらいまで遊んでればよかったって?」
「そんなこと言ってないでしょう」
「いくつだっけ。お前が結婚したのは」
言いながらハイボールを口に運んでいる。
まあ、しがないおばさんの昔話に付き合ってくれるのも、店長としての器量の良さかもしれない。
「24の時ですよ」
「14年前、ね」
すぐに計算できるのも腹が立つ。
しかし――――。
「14年前か。そっか。娘が14歳だから、そうですよね」
妙に感慨深い。
「結婚14年…か」
自分で言ったくせに何かしらのダメージを受けて胸は痛くなる。
それをごまかすように、氷を回しながら梅酒を口に含んだ。
酸味が鼻から抜け、甘さとアルコールがピリリと喉を刺激しながら入っていく。
結婚14年。
それが、結婚歴14年間になろうとしている。
ふっと鼻で笑って、もう一度梅酒を飲む。
「店長は結婚してどれくらいになりますか?」
痛みの種類を変えたくて、わざと宮内に聞く。
「9年」
間髪入れずに答えられる宮内に、軽く嫉妬を覚える。
結婚何年目か即答できる男はそうはいない。3年、5年、10年の節目に、妻に何かイベントを考えてくれている夫でない限り、普段は意識しないのだろう。
「晴美ちゃん、元気ですか?」
自然なニュアンスで言えた自分に拍手を上げたい。
陽子はグラスについた水滴を、お手拭きにトントンとしみ込ませながら聞いた。
「元気だよ。あんまり変わらない」
宮内もハイボールのグラスを傾けながら自然に返す。
あまり変わらないということは、宮内同様、若さを保っているということだろうか。
傷むことを知らない艶々のロングヘアで。
大きな目にめいっぱいのメイクを施して。
白い肌と、大きな胸を見せびらかしながら。
男には媚びて、女にはマウントして。
宮内の周りの女たちを思い切り牽制してから会社を去っていった受付嬢。
「晴美ちゃん、気が強そうだから、尻に敷かれてそうですよね。店長は」
もう一度梅酒に手を伸ばす。
「よく言われる」
「でも世間一般的には、女性が主導権を握ったほうが夫婦はうまくいくらしいですよ」
そう。世間一般的には。
しかしあのわがままな晴美に関してはその枠には当てはまらないだろうな。
「あれに主導権を握らせたら、家が破綻するよ」
宮内も笑う。
ほら。
ほらね。やっぱり。
「私にしておけばよかったのに」
思わず口から零れた言葉に慌てて、口を塞ぐが、一度出てしまったものは戻らない。
恐る恐る宮内の顔を見上げる。
「さっさと自分だけ結婚したくせに、よく言う」
宮内は微笑んでいた。
「セフレにはなれても結婚はできないって言ったの、あなたでしょう」
「お前の耳はどう出来てるんだ。そんなこと言ってないよ」
宮内は声を出して笑った。
彼はーー陽子の初めての男だった。