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「私ね鈴の音が大好きなの。」
――そうなんですね。なんでですか?
「分かんない。覚えてないもの。」
――そうですか。
2人の女が会話をしていた。
鐘の音が好きだと語った女は黒い髪の毛を低い位置で
二つの三つ編みにしている。
この女は記憶がなかった。
大切な記憶ほど抜け落ちていくという障害だった。
いつからなのかそれすらもわからない。
けれど女はもう自分が誰かなのかも分からない。
名前だって分からない。
でもなんとなくいつも自分のことを花梨と呼ぶ。
なにか特別な名前だと思ったから。
花梨は病院生活である。
外に行くときは看護師さんと一緒じゃないといけない。
だってもどるべき場所が分からなくなってしまうから。いつだって2人以上でいなければならない。
病院内は自由に歩いてよいため、花梨はよく赤ちゃんのいる部屋に居座ることが多かった。
なかでも中野さんという女性が赤子と共に入院しているため、よく中野さんの病室へ行っていた。
そこで赤ちゃんと戯れるのだ。
「ねぇ。中野さん、この子の名前ってなんなの?」
花梨が聞いた。
「実はねまだ決まってないの。」
「そうなんだ。」
赤ちゃんはおもちゃを振って遊んでいる。
鈴の音がなるやつだ。
「名前の候補とかは?」
「何個かあるのよ。例えば美鈴とか佳澄、花凜とか」
「花凜。かりんちゃんか。へへ。私と一緒」
「そうね。花梨ちゃんだものね。」
中野さんが花梨と言ったとき、鈴の音が響いた。
「――花梨ちゃん?どうしたの?」
「――?」
「なんで、泣いてるの?」
花梨の目からは次から次へと涙が溢れ落ちている。
花梨だって分からなかった。
赤ちゃんが泣いている花梨をあやそうとしたのだろうか、おもちゃを花梨へ向けて振った。
中野さんがいった。
「ほら、泣かないで。赤ちゃんも笑って欲しいって。」
中野さんは花梨の頭を撫でながら言った。
花梨はふと呟いた。
「――尋くん?」
花梨はそのまま安心したように眠った。
花梨は静かに夢を見た。
誰か大切な人の夢。忘れてしまった記憶だろうか。
「鈴。また眠れないの?」
「うん。」
「そっか。」
そう言ったのは一人の男。
その男は部屋の外へと歩いていった。
どこに行ったんだろう。
鈴、と呼ばれた女は一人不安に思った。
でも案外すぐに戻ってきた。
男の手には赤ちゃん用のおもちゃが握られていた。
鈴の音がするやつ。
男は鈴の頭を優しく撫でながらおもちゃを振った。
「どう?眠れそう?」
いたずらっ子のような笑顔を見せる。
「――尋くん。ごめんね。」
「ううん。一緒に入れて幸せだよ。」
「――ありがとう。」
鈴の目から涙が溢れ落ちた。
「ふふ。泣かないで。ね。お腹の子も思ってるよ。」
鈴は妊婦だった。お腹もすっかり大きくなった。
「この子の名前。何にしようね。」
鈴が優しくお腹を撫でながら言った。
「女の子だから。うーん。そうだ「花梨」なんてどう?」
「なんで?」
「花梨の木は、春に豊かな桃色の美しい花をさかせるんだ。この子も花梨の花が咲くように笑って欲しい。――どうかな。」
「花梨。――いいじゃん。花梨ちゃん。私たちの子供。」
2人は優しい笑い声を夜の部屋に響かせ、そのまま眠った。
だんだんと花梨の意識が浮上してきた。
そこで花梨はようやく分かったのだ。
私は「鈴」。
尋くん、千尋と鈴。
夫婦で、これから親になるはずだった。
花梨は私たちの子供で、産まれてくるはずだった。
でも事故で――。
尋くんはいなくなった。花梨も。
鈴の音。尋くんが眠れない私を眠らせようと、おもちゃを振った音。
大好きで、大切な人。
鈴は一人きりの病室にいた。
せっかく思い出したのにまた、忘れてしまうのだろうか。
いやだよ。忘れたくないよ。
でもきっと忘れてしまうのだろう。
だから忘れる前に。
鈴は窓を開けて大きな声で叫んだ。
「尋くん。花梨っ。大好きだよっ。
一緒にいたかった。本物の花梨の木、見せてあげたかったなぁ。それから――」
鈴はだんだん声が震え声が小さくなっていった。
でもこれだけは言いたかった。
「ありがとう。生きる意味をくれて。」
これは千尋へ。
「ありがとう。私たちのもとへ来てくれて。」
これは花梨。
「――ごめんね。」
これは2人。
鈴は泣いた。涙が枯れても泣き続けた。
この記憶があるかぎり。ずっとずっと。
鈴の目から涙が止まった頃、鈴は病院内をまた歩いた。でも前とは少し違っていた。
もう、赤ちゃんのいる部屋に入り浸ることはなくなった。
そして今は、いつも病院の中庭に植わっている花梨の木の下で静かに座っている。
看護師さんにどうしてですか?と聞かれたら
決まり文句があった。
「分かんない。でも大好きなの。」
そう言って鈴は今日という日を笑った。
明日もきっと。
鈴の音色のように笑い声を響かせるのだろう。
コメント
1件
ああ、もうこれめっちゃ泣いたわ…。鈴の音が「思い出」そのものの象徴になってて、最後の「大好きなの」って台詞が刺さりすぎた。記憶が抜け落ちても、好きって気持ちだけは残るんやなって。花梨の木の下に座る鈴ちゃん、尊すぎて胸が締め付けられた。続きあるなら絶対読みたい🔥