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リリアナはベッドの中から、窓の外へ目を向けた。もう日は傾き始め、もう少しで空は夕日に染まるだろう。寝るにはまだ早い時間だ。それなのにリリアナがベッドにいるのは、珍しく長い間、風邪を引いたからだった。
健康には自信があったので、自分でも驚いたほどだ。それももうほとんど治りかけていたが、念には念を入れて、数日こうして静養していた。
リリアナは手の中の手紙に目を落とす。戦場へ行った夫から届いた、最新の手紙だ。リリアナは無口で無表情な夫に一矢報いるつもりで、手紙に風邪で寝込んでいることを書いた。
普段の冷静な彼女であれば、そんなことはしない。戦場という緊迫する場に身を置いている夫が心配をするようなことは、普段の彼女からすれば、手紙に書くような事柄ではない。
でも、彼女はその手紙を書いていたとき、まだ風邪を引いていた。あの無表情な夫の顔を少しでも動かせるかもしれないと、風邪で少しぼんやりする彼女の頭に、意地悪な思考が隙間風のように吹き込んだのだった。
リリアナと夫クライスは、政略結婚だった。リリアナは侯爵家の生まれであり、家名の力を強めたいと考えていた伯爵、クライスへ恩を売るつもりで、リリアナの父は彼からの婚約を受け入れた。
この婚姻で父は伯爵家に貸しを作り、またこれまで関係の薄かった伯爵家とのコネクションを手に入れることができる。それにクライスは戦場では「魔物殺し」の異名を持つほどの猛者で、功績によってはこの先、侯爵に陞爵される可能性も十分ある。
父はリリアナの婚約者として侯爵家の子息を見繕っていたが、前述のメリットがあるなら相手は伯爵家でも十分と結論付けた。
婚約が申し込まれたとき、父はリリアナへかなり熱心なアプローチがあったと話した。当時、リリアナに比肩する価値を持つ貴族令嬢は複数いた。熱烈と聞いたとき、どうして私に?とリリアナは疑問に思った。
クライスとは、話したことすらなかったのである。顔も見たことはなかった。ただ一つ、「無口で無表情、鋭い視線は、まるで冷静に獲物を狙う狼のようだ」というクライスの噂だけは、耳にしていた。
その恐ろしくも感じる部分を父は気にしていたが、リリアナは別に気にしなかった。もし暴力を振るうような相手なら、すぐ実家へ戻るつもりだったからだ。
クライスは、噂どおりの男だった。値踏みするかのように、その細く鋭い目でリリアナを見つめるだけで、表情はまったく動かず、言葉すら何も発しない。
結婚までにリリアナが聞いたのは、「分かった」、「そうしよう」という二言だけだった。イエス、ノー、肯定、否定など、意志を示す際には首を振ることでそれを伝え、「そうだ」や「違う」、「ああ」とすら、クライスは言わなかった。
喋るのが嫌いなのだろうかと、リリアナは何度も思った。
新婚生活が始まっても、その態度に変化はなかった。ただクライスが他人に冷たかったり、暴力に訴えたりしない人間であることは、リリアナもすぐに理解ができた。彼はただ表情に乏しく、口数が極端に少ないだけなのだ。
とはいえ、そんな触れ合いばかりが続き、リリアナは夫の声をいまだ覚えることすらできないでいた。
結婚から一か月でクライスが同盟国軍へ参加し、魔物の軍勢の討伐に出てから、もうかれこれ半年になる。屋敷に彼の肖像が飾られていなければ、リリアナはその顔すら忘れていたかもしれない。
そんな中、戦いが膠着状態にあると国に知らせが届いたことで、リリアナは友人である伯爵夫人に誘われ、戦場の夫を勇気付ける手紙を書くことにしたのだった。
リリアナが驚いたのは、手紙ですらクライスが言葉少ななことだった。帰ってきた手紙を見て、ふと笑みがこぼれるどころか、呆れてものも言えなくなってしまったほどだ。
それでも毎回、リリアナには返事の手紙が届く。だから彼女は、健気に手紙を書き続けた。
夫からの最新の手紙には、「心配だ」とだけ書かれていた。言葉を書くのは簡単だ。ただ本当にクライスがそう思っているかは正直疑わしい、というのがリリアナの内心だった。あの無表情な夫から、感情らしいものを受け取ったことは、なかったので。
リリアナは、部屋の外が少し騒がしいことに気が付いた。クライスのことを考えていて、彼女の耳には音が届いていなかったらしい。
彼女が耳を澄ませると、屋敷の中を慌てたように走る足音が聞こえる。そう、走っている。この屋敷で誰かが走り回るのは珍しい。
誰が何をしているのかしらとリリアナが考えを巡らせていると、その足音はどんどんリリアナの寝室へと近づいてくる。
どこかの扉を開け、それを閉め、階段を大急ぎで上がり、一度そこで止まったかと思うと、そのあとは真っ直ぐ、足音は近づいてきた。そしてすぐ、寝室の扉が開け放たれる。
「リリアナ、大丈夫かっ!?」
リリアナは最初、それが誰の声なのか、さっぱり分からなかった。まったく聞き覚えのない声だったからだ。夕日が逆光となり、顔がよく見えない声の主はずかずかと部屋の中を進み、ベッドのリリアナに近づいてくる。
近くまで来た相手の顔を見て、リリアナは納得するどころか、ひどく混乱した表情を見せた。
「だ、旦那様……? どうしてこちらに……戦いは、どうなったのです??」
部屋へ入ってきたのは、他ならぬクライスだった。軍服は土や緑色の何かで薄汚れ、顔や髪には赤い、おそらく血が付いている。
リリアナは心配して声をかけようとしたが、すぐにその血が彼のものでないと気付いた。クライスの体に傷らしいものはなく、その血はおそらく返り血であるとリリアナは理解し、開きかけた口を閉じる。
「戦いは終わった。魔物の軍勢は一匹残らず駆逐した。君の風邪が長引いていると聞いて心配で居ても立っても居られなくなったから、残っていた魔物を全力で片付けて、急いで帰ってきたんだ。馬では何日もかかるとのことだったから、魔物使いに無理を言って、魔物まで借りてきた」
クライスの饒舌ぶりに、リリアナは開いた口が塞がらなかった。もう一生分、クライスの声を聞いたような気さえしてくる。クライスが言ったとんでもない言葉も、リリアナの耳をそそくさと通り抜けていった。
「それでリリアナ、風邪の具合はどうだ? 快方に向かっているのか? 私には本当のこと言ってくれ。もしただの風邪でないと感じるなら、今すぐに国中から高名な医師を集めよう」
「だ、大丈夫です、旦那様……。もうほとんど、直っておりますので」
「本当か? 無理をしていないか? 私は君が心配でたまらないんだ」
「はい、本当です。ありがとうございます……」
「そうか、それなら良かった……」
言葉どおりとても安心したように、クライスは微笑む。そう、あの無表情一辺倒の夫が、リリアナに微笑んだのだ。
リリアナは何が起こっているのか、理解できない。目の前の夫が、魔物が化けた偽物なのではないかという疑念すら湧いてきて、リリアナは少し頭がクラクラした。
クライスはめざとくそのことに気付き、リリアナに声をかける。
「ど、どうした、リリアナッ!? やはり治ったというのは嘘で、君は無理して元気なフリを……」
「いえ、風邪が治ってきているのは本当です……ただその」
まだ不安そうに見つめてくるクライスから目を逸らして、リリアナは言葉を続ける。
「旦那様がひどく饒舌なので、少し驚いてしまって……」
「ああ、そういうことか! 細かい説明は省くのだが、私はどうやら討ち滅ぼした魔物に呪われ、自分に正直になってしまっているらしい」
「…………はいぃ?」
リリアナは自分でも信じられないほど、素っ頓狂な声を出した。からかわれているのではないかとクライスを見るが、彼の表情は真剣そのものだ。半年前の結婚式のときくらい真剣な表情だと、リリアナは感じた。
「そういう反応をしても無理はないよ。このことに気付いたとき、側にいた昔からよく知る同僚ですら困惑していたから。具体的に説明をすると、今の私は嘘がつけず、思ったことや考えたことはそのまま口や表情に出てしまう状態らしい」
「はぁ……。では、そうですね……今の私を見て、旦那様はどう思われます?」
風邪のせいで変な夢でも見ているのかもしれないと、リリアナは真面目に考えるのをやめた。
今のリリアナは風邪のせいで数日入浴を控えたことで、普段と比較して清潔さは損なわれ、服も過ごしやすさを重視し、簡素なものを着用している。端的に言えば、リリアナは美しくない状態だった。
答えとして着替えや入浴を進められるつもりでリリアナはそう問うたものの、クライスからは想定外の答えが返ってきた。
「この世界の何よりも美しく神々しい、私の愛しき妻が今目の前にいる……。君のいるこの世界を守るためと思って、此度の遠征も全力を尽くした。……ああ、そうだ。今回の活躍を陛下が認めてくれたそうで、そう遠くないうちに我が家は侯爵に陞爵されるらしい。まだ公にはなっていない話だから、これは内密にしてくれると嬉しい。……最愛の妻である君にはどうしても知っていてほしくて、つい喋ってしまった」
「まあ、それはそれは……大変喜ばしいことですわね」
「君もそう思ってくれるか。嬉しいよ。あぁ、リリアナ……この半年、何度君を抱き締める夢を見たことか。……もう我慢できない。こんな格好ですまないが――」
クライスがそっとリリアナの手を取ろうとしたそのとき、部屋に執事が駆け込んできた。
「――旦那様!! ここにおりましたかっ! いけません、その格好では屋敷のどこもかしこも、汚れてしまいます。お帰りは大変嬉しゅうございますが、まずは入浴を済ませていただきませんとっ!!」
「リ、リリアナッ!! すぐ戻ってくるから、ここで待っていてくれ!」
クライスはそんな言葉を残して、執事に引っ張られていった。
◇◇◇
リリアナは見ていないが、戦場から一目散に帰ってきたクライスのせいで、屋敷の中はあちこち汚れてしまったらしい。それを使用人達が掃除し、自身ことも気にしたリリアナが入浴を済ませたところで、ようやく二人には話す時間ができた。
そしてリリアナはクライスの執務室で、彼の膝の上に抱えられてしまう。家族以外の男性にそんなことをされるのは、初めての経験だったし、されるのも子供のころ以来だ。リリアナは恥ずかしくて何度も下ろしてほしいと懇願したが、クライスは毎回丁寧にそれを断った。
「半年も君に触れられなかったんだ。しばらくは私の膝の上にいてもらうよ」
「……分かりました。それについてはもう、我慢します」
「我慢? 君はこの体勢、嫌だったかな? そうだったなら、すまない。寂しいが、下りてもらって構わないよ」
「嫌、というわけではないですけど……」
「ではこのままだ」
整った顔立ちのクライスにふっと微笑まれて、リリアナはドギマギしてしまう。これも、彼女は初めての経験だった。微笑まれるとその瞳に引き込まれそうになってしまうと、リリアナはクライスから視線を逸らした。
「あのぅ……旦那様。以前はその……もう少し物静かな感じでいらっしゃいましたよね?」
「あれは単に、私が口下手で表情に乏しかっただけだ。貴族社会や仕事柄、それはとても便利だったが。……君は以前のような私のほうが、好きか?」
「好き、かと問われますと……ええと、その。……今のほうがよろしいかと思います」
「よろしいという言い方は、どこか客観的な意見を述べているように感じるのだが。考えすぎだろうか。君は本当に、今の私のほうがいいと思ってくれているか?」
「それは…………はい。今の旦那様のほうが、好き……です」
「あぁ、その言葉が聞けて嬉しいよ、リリアナ……。私は一度も、君から好意を伝えられていなかったから。まあ、それもしょうがない。君と私の婚姻は政略結婚だった。君が異性として私に好意を持つ理由は一つもない。……そうだ。記憶が確かなら、私も君に好きと伝えたことがなかったはずだ。……リリアナ、君を愛している。この世界の誰よりも。王国一深いあの湖よりも深く、出立のとき王より賜ったあの炬火よりも激しく、君を愛している……」
「……はい」
こんなに照れてしまうのも初めてかもしれないと、リリアナは両手で顔を覆った。「どうして顔を隠してしまうんだ」とクライスが抗議したが、リリアナは恥ずかしくてそれどころではない。
「……それでその、旦那様。呪い、というのは大丈夫なのですか?」
「ありがとう、リリアナ。私を心配してくれて……。色々と調べてもらったんだが、正直になってしまう以外、特に問題はないらしい。といっても、このままでは嘘も建前も世辞も言えないから『いても邪魔になるだけだ』と、私は今職場を追い出されているんだ。呪いが解けるまで戻ってくるな、とも言われている」
「それは大変ですね。……その呪いを解く方法というのは?」
「…………」
クライスは何も言わず、微笑みをリリアナに向けるだけだった。リリアナは知らないのねと理解して、話を進めた。
「まあこんな呪いなど、解けずとも問題ない。元々遠征が終われば、しばらく休みになる想定だったんだ。だから当面はこうして屋敷にいて、君の側にいることができる」
幸せそうに微笑むクライスを前に、リリアナはまた恥ずかしさで目を逸らした。
「……そうだ、大事なことを忘れていた」
リリアナが何をと問う前に、クライスは自らの膝の上のリリアナをそっと抱き締めた。リリアナの髪に頬を寄せ、愛おしそうに目をつむる。それにリリアナが抗議するよりも早く、
「リリアナ、愛している……。すまない、もっと早くこうするべきだった。私の気持ちをもっと早く、ちゃんと君へ伝えるべきだった……」
とクライスが囁くものだから、リリアナの言葉は喉の奥へと引っ込んでしまった。
「旦那様は……いつからそのようなお気持ちを?」
二人の結婚はお互いの利益のためで、愛など最初からなく、それを育むだけの時間もなかったと思っていたリリアナにとって、続くクライスの言葉は予想外のものとなった。
「……君には言っていなかったが、昔、夜会で君のことを見かけてね。一目惚れだった。君のことをどうしても妻に迎えたくて、私は研鑽を積んできたんだ。あの日見た君の姿を、今でもはっきりと思い出せるよ」
クライスはリリアナの髪を一房手に取り、それに優しく口づけた。視線はずっと彼女を射止めていて、リリアナは顔が一瞬で真っ赤になるのを感じた。
「そう、だったのですね……」
恥ずかしさで、リリアナはそれ以上言葉が出てこなかった。
◇◇◇
それから、リリアナは大変な日々を過ごすことになった。クライスの言葉、行動によってことごとく照れてしまい、顔もすぐ赤くなり、治ったはずの風邪がぶり返したかのような錯覚さえしていた。
クライスが帰ってきたその日も、
「それでリリアナ、これまでできなかった分、私の愛を君へ伝えるためにも、今後夜は一緒のベッドで眠りたいのだが、構わないか?」
「か、構いますっ、旦那様!! それはちょっと、困りますわ……」
「そうか、やはり夫婦とはいえ、こんな男と一緒のベッドは嫌か……」
「そ、そうではなくて……それだと緊張して眠れそうにないので」
「……なるほど。確かにそのとおりかもしれないな。気が付かなかった。流石はリリアナ、着眼点が素晴らしい。君が妻で私も誇らしいよ。だが、ふむ……屋敷にいる間は可能なかぎり、君と一緒にいたい。君はどうするのがいいと思う?」
「そうですね…………どうしましょう」
「……よし。では明日から、毎朝目が覚めたら私がリリアナを起こしに行こう。うん、それがいい。君が起きないようなら、部屋に入って寝顔を眺めることもできるし。我ながら完璧な作戦だな。そのまま少し、添い寝をしてもいいかもしれないな……」
「それは色々な意味で心臓に悪いので、控えていただけますと……」
結局、翌朝から毎日、リリアナがクライスを起こしに行くことで、納得してもらったり。
またある日には、
「――リリアナ!! これを見てくれっ!」
「えっ……な!? なんなのです、これはっ!!」
屋敷のロビーが多種多様な花々で埋め尽くされている光景を見て、リリアナは自分でも信じられないくらい大きな声を出した。
「すべて君への贈り物だ! 驚かせようと思って、王都中の花屋から花を買い占めてしまった。ふふっ、どうだ。壮観だろう?」
「た、確かに素晴らしい眺めで、お気持ちも嬉しいですけれど……でもっ、これはあまりに量が多すぎます! これではせっかくのお花のほとんどを、すぐ枯らしてしまうことになりますわ。どうしましょう……」
「そ、そうか……確かに君の言うとおりだ。そこまで思い至らなかったな。うぅむ……せっかく咲き誇っているこの花々、どうすべきか」
「……分かりました、こうしましょう。旦那様にも手伝っていただきますよ?」
「もちろんだ、何でも言ってくれ」
リリアナとクライスだけでなく屋敷の使用人総出で、手入れできない量の花を近隣へと配って回ったり(教会や孤児院、医院には特に喜ばれた)。
またある日には、クライスを心配して見舞いに来た部下がいる目の前で、
「まだ呪いは解けず、でもお元気そうなのはよく分かったんですが……どうしてずっと、奥様を膝の上に乗せているのです?」
「リリアナとずっと一緒にいるには、こうするのが一番だと思ってな。私と妻は寝室が別で、寝るときだけは離れ離れになってしまうんだが、近頃では離れている時間が惜しくて寝室を一つにしようかと考えているところだ」
「な、なるほどです……」
仲睦まじい様子を、夫婦仲の良さを見せつける羽目になったり。
「私は恥ずかしくて死にそうですが……でも、あなたが来てくれて良かったです。私はもしかしたら、旦那様に化けた魔物と本物の旦那様が、入れ替わっているんじゃないかと思っていたので……」
「なんと、そんなことを思っていたのか。何故だ、リリアナ」
「あなたが嘘みたいに正直で、それがどうしても信じられないからです」
「ははっ。隊長は間違いなくご本人ですよ、奥様。戦場で魔物の死に際に呪いを受けた直後から、ずっとこの調子でしたから。我々ですらおっしゃるように疑ったほどで、隊長が偽物でないことは十分に調査済みです」
「それは有難いですけど……でも、それはそれで困りますわね。旦那様の言っていることは、全て本心ということになりますから」
「リリアナ、君は私が本心を口にしていったい何が困るんだ」
「毎日毎日恥ずかしい思いをする私の身にもなってください……!」
結局この話の間中、リリアナはずっと両手で顔を隠していた。クライスの部下を見れる気がしなかったし、真っ赤な顔を少し見られるのすら恥ずかしいと感じたからだ。
またある日には、二人で一緒に出かけた城下町の大きな広場にて、
「――愛しい愛しいリリアナよ。どうか私と、結婚してくれないだろうか」
「もう結婚してますから、また結婚するというのは無理ですし……とりあえず跪くのは、それくらいにしていただけませんか。公衆の面前でこんなこと……さすがに恥ずかしすぎます」
「仕方ないだろう。私は君にちゃんと、プロポーズをしていなかった。思い出してひどく後悔したよ。だからやり直させてほしいんだ。最初から全部」
「それはそうしていただいて構いませんから、せめて屋敷の中でとか……。旦那様は、私を辱めたいのですか?」
「そ、そんなわけないだろうっ! ただこうして街中でプロポーズしたほうが、私がいかに君を愛しているか、人々に伝わるかと思って……」
「もう、もう十分伝わっていると思いますから……早く行きましょう」
衆人環視の中、公開プロポーズをされてしまったり。
リリアナは、彼女の貴族然とした人生では決して経験することのなかった恥ずかしさと、混乱と、高揚と、愛されているという感覚を、これでもかと味わわされた。
◇◇◇
そんな生活は一か月続き、ただそれでもクライスの呪いが解けることはなかった。
最近ようやく膝の上から下ろしてもらえるようになり、今リリアナはクライスと肩を並べてソファーに腰かけている。
「それにしても、どうすれば呪いは解けるのでしょうね」
「最近君はそればかりだな。やはり以前の私のほうが好みなのか?」
「そういうわけではないですけれど。でもそれは『呪い』でしょう? この先、もっと悪い症状が出ないとも限りません。……軍ではまだ、解呪の方法は分からないのですよね?」
「ああ、そう聞いている」
「旦那様も呪いを解く方法に心当たりなんて、ないですものね……」
「…………」
呪われた本人なのだから、何か呪いについて知っていてもおかしくないとリリアナは考えていたが、クライスは沈黙を貫いた。クライスは呪いの話になると、微笑むだけで何も言わなくなることがあり、今もそんな静かな微笑みをリリアナに向けるだけだった。
「私にも何かできれば良かったのに……今の私には、旦那様を愛することくらいしかできないのですね」
「……リリアナ」
「はい、なんでしょう」
リリアナがクライスを見ると、そこには静かな表情を顔に貼り付けた夫がいた。最近ではもう忘れそうになっていた、リリアナがずっと知っている彼の顔がそこにはあった。
こんなに凜々しいお顔を以前はしていたのね、とリリアナが懐かしく思っていると、表情をまったく変えることなく、クライスが彼女の手を取る。
「呪いが解けた」
「…………はい? それは……本当なのですか?」
「ああ。この感覚、間違いない」
「それなら……本当に良かったです」
リリアナが手を重ね、両手でクライスの手を包み込む。リリアナは潤んだ瞳で、クライスを見つめた。最近のクライスなら飛び上がって喜びそうなものだが、今の彼は顔色一つ変えなかった。
「お身体はどこも、なんともありませんか?」
「ああ。実は……解呪の方法は知っていたんだが、言えなかった。呪いの影響で」
「そうだったのですね……あぁ! 旦那様がときどき黙ってしまっていたのは、つまりそういうことですか?」
クライスは深く頷いた。
「はぁ、良かった……。安心しました。念のため軍でも一応、検査してもらいましょう。それにしても……」
言葉を切り、リリアナは少し考え込む。クライスは何も言わず、彼女の顔を覗き込んだ。
そんな彼を見上げるようにして、リリアナは浮かんだ疑問を口にする。
「どうして今、呪いが解けたんでしょう。解呪の方法は、何だったのですか?」
クライスは視線を逸らし、そして何も言わない。リリアナがいつまで待っても、彼が口を開くことはなかった。
痺れを切らしたリリアナが、念を押すように告げる。
「呪いはもう解けたのでしょう? 何を隠す必要があるのです? それともまさか……解けたというのは嘘でしょうか?」
「違う。ただ…………」
「……旦那様?」
クライスはリリアナの視線に、初めて少し恐怖と威圧感を覚えた。観念したように、クライスは小さな声で続きを口にする。
「……愛する者に、『愛している』と言ってもらう」
「それが……解呪の方法?」
クライスは視線を合わせないまま首肯する。リリアナはクライスのその行動から、彼が照れているのだと気付いた。
「でも、だとしたら不思議です。だって私、旦那様が戻られてから、何回かは『愛している』と言った気がしますもの」
「……本当に『愛して』いないと、効果がないんだ」
「あー……そういうことでしたか」
最後のほうは小声になっていた。クライスの言わんとしていることが分かって、流石にリリアナも照れてしまったのだ。
自分の愛する者が、自分を愛してくれている状態で、『愛している』と言ってくれる――それが解呪の条件だったということだ。
リリアナがクライスを見るが、彼は目を逸らしているだけで、顔に表情らしいものはまったく見えない。
呪いが解け、以前のクライスへと、完全に戻ってしまっていた。
「……呪いが解けて、本当に安心しました。でもこれで……旦那様の素直な気持ちは、しばらく聞けなくなってしまうのでしょうね」
この一か月でクライスへの愛がはっきりと芽生えるほどに、リリアナはクライスからの真っ直ぐで情熱的な愛情を、日々つぶさに感じ取っていた。
これは呪いの、言わば恩恵だった。その呪いが解けた今はもう、クライスは以前の無口で無表情な男に戻っているということだ。
リリアナは無意識のうちに、微笑みの消えた沈んだ表情を形作っていた。
そんな彼女の両手を、クライスが自らのそれでそっと握り締める。いつの間にか、クライスはリリアナを見つめていた。
「その……リリアナ」
「はい」
ゆっくりと返事を待つ中で、リリアナはクライスの手がわずかに震えていることに気が付いた。
「これからは、私も……しっかりと気持ちを、伝えるようにする。……だから」
「はい」
クライスは少しリリアナに近づき、これまでよりも大きな声で、妻へ思いを告げる。
「ずっとずっと、側にいてほしい。君のことをこんなにも――愛しているんだ」
リリアナはクライスの言葉に胸を打たれ、すぐには返事ができなかった。
でも彼女の中で、答えはもうずっと前から決まっている。だから彼女はそれを、声に出して言った。
「もちろんです、クライス様。私もあなたを――愛しています」