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禊ぎの道を抜けると、洞窟に繋がっていた。かがり火が焚かれていて、揺れる光が岩肌を照らしている。さっきの池は清浄な水の匂いがしたが、ここは澱んだ水の臭いがした。かがり火の光はその周囲を照らすだけで、その光は奥の穴まで届かない。
「どこへ繋がっているんだろう……」
「…………」
「フレディ?」
呼びかけても返事がなかった。
さっきからフレディの口数が少ない。すごくしっかりしているけど、それでもやっぱり怖いのかもしれない。そうね。私の方がお姉さんなんだから、頼ってばかりじゃダメよね。こういう時くらい、しっかりしないと。
「フレディ」
はっきりと呼びかけると、我に返ったのか返事があった。
「えっ、ごめん、なに……」
「手、つなご。そうすれば怖くないよ」
「え……」
彼が断る前に手を伸ばす。私の手がフレディに触れた時、ばしっと振り払われた。
「あっ……ご、ごめん!!」
「…………」
「ごめん、姉ちゃん。嫌とかそういうんじゃなくって!」
私はニコッとする。
「うん、そうね。男の子だもんね。ちょっと照れちゃうね」
彼がホッとしたのが空気で伝わってきた。
「行こ」
フレディの背中を追って歩き出す。一瞬触れたフレディの手は、冷たくて震えていた。とても強い子だから……私には緊張していること、バレたくないのかもしれない。それだけよね?
道は地の底へ誘うかの如く、ひたすら下がっている。凸凹している上に濡れているから、転ばないように気をつけなきゃ……。
這い上がってくる冷気に、私はぶるっと震えた。
「ちょっと寒くなってきたね……」
「…………」
やっぱり返事がない。
「ね、フレ……」
呼びかけようとして、前を行く少年の息遣いがおかしいことに気づいた。妙に呼吸が浅い。
「どうしたの……調子悪い?」
「……何でもないよ。気にしないで」
「…………」
穴には澱んだ水の臭いが溢れている。まるで湖を潜っていくよう……。
道は急勾配で下っている。どこまで潜っていくんだろう。不安になる……。
フレディの呼吸が大きく、荒々しくなっていた。さっきまでは必死に隠そうとしていたが、もう耳を澄まさなくても呼吸が乱れているのが分かる。
「ねえ、どうしたの?苦しい?少し休む?」
「いい」
私の提案は切り捨て、却下された。
「大丈夫、行こう」
荒い息の向こうから、フレディが短く言う。
「……うん……」
さっきから彼の足取りが不安定だ。
「フレディ……」
「…………」
前に行くフレディに声をかけてみても、返事は返ってこない……。私たちはひたすらに潜っていく。光の届かない、暗黒の世界へ。
突然前を行く彼の肩が大きく揺れた。
「フレディ!」
膝をついたフレディに駆け寄る。
「どうし……!?」
何気なく触れた手が氷のように冷たかった。慌てて頬を触り、確認する。冷たい!!あまりの冷たさに鳥肌が立った。
「だ、大丈夫!?」
どうしよう、なんで!?確かにこの場所は少し寒い。それなのに、この冷たさは普通じゃない。さっき手を繋ごうとした時は、こんなんじゃなかったのに。どうして?どうしたらいい!?
ああ!病気には慣れているはずなのに、それが何の役にも立たないなんて!私は一生懸命彼の体をさすった。
「へいき……」
私につかんで立ち上がろうとしたフレディは、バランスを崩してもう一度膝をついた。
「戻ろう!一度外に出て……」
「だ、めだ」
掠れた声が、私の提案を却下する。
「行こう……戻ってる暇はないよ」
「でも……!」
また彼は立ち上がって歩こうとする。でも全然歩けてなんか、いないじゃない。
「行くんだ……!」
震える声とは裏腹に、そこには強い意志があった。
「…………」
どうしても逆らえず、彼に肩を貸して立ち上がる。
「フレディ、しっかりして……!」
彼の様子も気になった。ただ肩を貸している体重のほとんどを支えているため、自分の足取りに気を配らなくちゃいけない。私が転んだら、フレディも一緒に転んじゃうわ……。
崩れ落ちそうな彼を抱えて、私は必死に道を下る。どうしよう、このままじゃ……。
薄く暗い洞窟を抜け、ようやく少し開けた場所に辿り着いた。そこはたくさんの蝋燭に埋め尽くされている。地面には、うっすらと魔法陣の模様が描かれていた。これほどのたくさんの炎があるのに、暖かさは感じない。炎が冷たく見える。
「…………」
荒い息の向こうで、フレディが何かを訴えた。わずかな仕草から、降ろしてと言っているのが伝わってくる。彼をなんとか壁際まで引きずっていくと、壁際の蝋燭を足で薙ぎ払って場所を作った。フレディを壁にもたれかけて座らせ、その前に膝をついて座り込む。
「大丈夫!?ねえ!」
一生懸命彼の頬をさすった。見れば大丈夫じゃないことくらい分かる。朧な蝋燭の明かりの下で見たフレディの頬は、ほとんど血の気がない。さする頬が冷たい。私の手の熱がどんどん奪われていった。それなのに、息は熱に浮かされたのか速い。何かを堪えるよう。
「はは、ちょっとマジでやばい感じ……」
彼が力無く笑った。
「フレディ」
「昨日一晩抑え込めたから、このままいけるかと思ったんだけど……やっぱそう甘くはないか……」
「昨日?」
聞き返そうとして、息が止まる。
「!!」
まさか。あのとき。マシューと戦ったとき、入蝕されて……。全身の血が一気に凍りついた気がした。
「わ……たしを……」
声が掠れる。激しい耳鳴りと眩暈がした。
「庇ったから……?あのとき……私を……!」
私を庇ったフレディ。喉に突っ込まれたマシューの舌。口から溢れ出した、禍々しいまでの赤い色。
「……そんな顔しないでよ」
震える声が続けた。
「いいんだ……なんとなく予感はあったから」
「だって、私が!私があのとき、迷ったりしたから!!」
「違う。姉ちゃんのせいじゃない」
フレディは震える声で、ぴしゃりと言葉を遮る。ふうと息を整えた。
「それは俺の問題なの……俺が姉ちゃんを見捨てられなかったって、それだけのこと」
渦巻く感情をどこに持っていいのか分からなくて、握りしめた拳で彼の胸を叩く。恨み言を言ってくれた方が楽なのに。私を責めればいいのに。なんでこんな時まで、私を庇うの?
「優しすぎるわ!フレディ、あなた優しすぎだよ!!」
「優しい?あは、ちょっと違う、かな……」
彼は顔を歪めて笑った。
「俺にとって姉ちゃんを見捨てるってことは、自分が見捨てられる事と同じなんだよ。だから耐えられないだけ……。姉ちゃんを見てると、なんか自分を見てるみたいで……」
「なにそれ……私とフレディじゃ全然違うじゃない……全然違うよ!!」
激しく首を振った私を見上げるフレディの目は、不思議な色を帯びている。
「違わないよ……俺らって似てる。中途半端なところとか、さ……」
私には理解できなかった。フレディが中途半端?
強くて優しいフレディ。いろんなことを知っていて、何でも一人でこなせる。そんなはずないのに。
「俺が姉ちゃんを切り捨てるしかないなら……それしか方法がないなら、俺もいつかこの世界から切り捨てられることになる。そんなの……悲しいじゃん。そんな未来を予想しながら生きていくなんて」
掠れた声にふっと力が戻った。
「吐き気がする!」
私の知らないフレディの激しさを、垣間見た気がする。けれど、すぐに喋り疲れたのか息をついて声を落とした。
「だからいいんだ……たぶんこうなるって分かってたけど、俺、姉ちゃんを助けたこと後悔してない。だから姉ちゃんも……俺に助けられたこと、後悔しないで」
「嫌ッ!!」
私は叫んで、次第に冷えていく体にしがみつく。
「嫌だよ……何でそういうこと言うの!嫌だ、全部、嫌!!」
私を庇ってあなたがいなくなるのも。一人残されるのも。何一つできない自分も。こんな時にさえ、あなたを安心させてあげられるいい子の返事もできないことも。
後悔しないで、なんてずるい。後悔するに決まってるじゃない。あなたを助けたかったって思うに決まっているじゃない。
「姉ちゃん、一応年上でしょ……聞き分けしてよ」
「やだ!」
間髪入れずに叫んだ私に、フレディは思わずくすくすと笑った。
「姉ちゃんってさ、年上の感じしないよね……初めて会った時から、年上っていうよりか……なんか懐かしい気がして……」
そう言われて、フレディと初めて会った時の光景が脳裏に甦る。
牢の並ぶ、細長い部屋。揺れる火の明かりの中、背筋を伸ばして立っていた少年。初めから懐かしかったグレーの瞳。誰かを思い出すような……。あのとき、私も同じことを思った。
「いちいち気になるのは、同類だからかなって思ってたけど、たぶん、それだけじゃない……そう」
灰色の瞳が深い色をたたえる。
「俺の血が姉ちゃんを『憶えて』るーー……」
そのとき続けようとした彼の口が、急に結ばれた。
「姉ちゃん、離れろ」
フレディの目が血の色を帯びる。