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今、目の前で10人の男子らが一つのボールを奪い合い、得点を競い合っている。靴を鳴らし、攻防戦を繰り広げ、汗水が体育館の床へと滴る。タイマーには54、53と着実に迫りくる残り時間が映し出されている。コート周りには試合を放ってふざけ合う男子や、下らぬ恋の理想図を語る女子。この場に試合を真剣に観戦している者は誰一人として居なかった。僕自身も例外では無い。生まれつき喘息持ちの僕は例え授業でさえまともに参加した覚えが無く、ただ眺めているのみ。退屈な時間だ。
自身の膝を抱え込むようにして座っている僕。視線を下へ移し額が膝に触れようとしたその時、一人の大きな声が体育館中に響き渡った。
「山田っ!!」
チームメイトの名を叫びパスを出す男に一瞬にしてこの場の視線が一点へと集められた。
パスを受け取る山田と呼ばれる男はその場でボールをバウンドさせ注目を集める。そしてパスを出しすぐさま前へ走った男が手を掲げまたもや大声を張上げボールを要求した。素直にパスを回す山田、男は受け取りすかさずゴールに向かってシュート。その軌道は美しく、真っ直ぐとゴールに吸い寄せられるようにして飛んでいく。リングに当たること無くバシュッと静かに音を立てた。
ゴールネットから抜け落ちるボールが二、三回バウンドした時、タイマーが試合終了を知らせる。やっと興奮が脳まで届きそれを声に変換した周りの生徒達が騒ぎ立てる。
「「「うおぉぉぉぉ!!!」」」
「すげーすげーすげー!!」
「かっけぇぇー!」
次々に想いを口にしとても興奮した様子。しかしバスケのルールを知らずに生きてきた僕には感動しない普通のシュートに思え、周りの盛り上がり具合に動揺することしかできなかった。
「はいナイシュー!」
「ウェーイ!」
先程大活躍したらしい二人はコートの中央で力一杯のハイタッチを交わした。時間稼ぎをした後完璧なパスを回し、ボールを受け取りすぐさま美しいシュートを決めた二人。その見事な協力プレイは実際に遣って退けた当の本人達が一番盛り上がるだろう。しかしその喜びを二人のみで留めず、授業の為だけに集められた仮のチーム全体で分かち合い、チームの皆が笑顔を浮かべている。圧倒的な力を見せ付けられた敵チームでさえそれに釣られて悔しながらも笑みを零す。周りのギャラリーも感化され拍手や大声を出したりと、この空間が一気に良い雰囲気に。
彼らが人を照らす太陽ならば、僕はきっと照らされてできた影なのだろう。僕も目立つのは嫌いだし別にこれでいい。
殆どの生徒が二人を取り囲みそのまま胴上げをしそうな勢いで大盛り上がりしている。僕は座ったままそれを遠くから眺めていると、一人の足音がこちらに近付いてくるのを感じた。その足音は僕の左横でピタリと止まる。
「お前も混ざりに行けば?あ、ごめぇん!動いたらか弱い間島蓮《ましまれん》くんは喘息引き起こしちゃうから無理かぁ!」
最悪だ。この嫌味ったらしく罵倒してくる人物の名は川西。同じ学年で、常に悪い噂と共に生きる男。
僕は二年に進級した時から川西に目を付けられ密かにいじめに遭っている。毎日のように人気の無い場所へ呼び出され、容赦なく暴力を振るわれる日々。最初の頃は僕も無力なりに抗っていた時期もあった。呼び出しに応じず自宅まで走ったり、周りの生徒や教師にだって縋り付いた。しかし誰一人として僕に手を差し伸べる者は現れなかった。恐らく関わりたくないのだろう。下手に関われば標的が自分に移り変わることを恐れているのだろう。教師だって面倒事に巻き込まれたくない気持ちが露になっていた。
なんの前触れも無く孤独は現れ、僅かな細い糸で保っていた何かが音も無しに突然切り落とされた気がした。それからは楽だった。心を無にし全てを受け入れ、相手が満足するまで只々その場に留まるのみ。今となっては抗っていた時期を後悔する。下手に抵抗しなければ痛みも皮膚の傷も最小限に抑えられることを理解した。逆にどうして今まで気付けなかったのだろうか。
「あ?無視かよ。喘息のお次は難聴かな〜?」
「……」
「チッ、んだよその目。きめぇんだよッ!」
勢いよく左肩を蹴り飛ばされた。その衝撃でバランスを崩した僕の身体は無様に冷たい床へと吹き飛ばされる。
痛い。蹴られた肩と床に強打した肘がジンジンと痛む。こりゃ腫れて大変だろうな。腫れ薬もう少しで無くなるんだった…今日の帰りにでも薬局で買い足そうかな。そんなことを考えていると低脳の川西は満足気な表情を浮かべこの場を去って行った。
今の一部始終を遠巻きに見ていた数人の生徒らは小声で何かを囁いたり、見て見ぬふりをする。心底煩わしい。
「保健室行こ…」
川西にも周りの生徒共にも苛立ちを抑え切れず、丁度怪我の用事もできたことだし保健室へ逃げ込むことにした。
保健室の扉。この扉を何度開けただろうか。何度先生に呆れられただろうか。何度も関わっているのに特に仲は良くない。良くする理由も分からない。
扉を開け保健室の中へ入る。室内は消毒の匂いや洗剤のような香りが漂っている。ベッドは綺麗に整えられ皺一つ無い。
「失礼します、」
「はーい。どうしたの…って、また間島くん?はぁ、また怪我したの?」
「はい。転んで肩と肘を…」
「あーあー、赤くなってるじゃないの。冷やすからここ座って」
ほらね。また呆れ顔。もう少し心配してくれてもいいのでは?こっちだって好き好んでここに来てるんじゃないんですけどね。
黙って指示された長椅子へと座る。やはり保健室は静かで心休まる。会話が無ければ時計から秒針が動く音だけが響く。それとは裏腹に廊下からは駆ける音や話し声、廊下の反響を利用し大声で歌う声など、騒がしいにも程がある。
「はい。これで一時間ぐらい冷やしてね。安静にね」
先生からアイスバッグを受け取る。つい先程まで冷やされていたであろうこれは手が悴む程冷たかった。こんな物皮膚に当てられないだろと脳内で文句を浮かべる。ただあの場から離れたいが為に訪れたのだから初めから治療は望んでいなかった。特に使うことも無いだろうと割り切り、素直に礼を伝え保健室を出ようとした時、背後から呼び止められた。
「ねぇ…痛くないの?」
突然の問い掛けに思わず立ち止まり振り返る。上手く言葉が浮かばず無意識に聞き返す。
「いや、沢山傷があるから…」
「…大丈夫です」
「そっ、か…無理しないでね」
”無理しないでね”?今更善人ぶったって意味が無いのに。僕はとうの昔に気付いている。助けを求めたって救いの手は差し伸ばされない現実を。この人だってきっとこの地獄からは救い出してやくれない。分かりきっている。頭では理解している筈なのに、今僕の心は揺らぎ動いている。この人なら?他の人とは違うかも知れない、手を差し伸べてくれるかも知れない。でもこの期待をまた裏切られたら?今度こそ僕は壊れてしまうかもしれない。そんな危険な選択など今の僕にできる筈もない。
丁度よく授業の移り変わりを知らせるベルが鳴る。悶々としていた僕は我に返り、その場から逃げるように立ち去った。
放課後。すっかり返し忘れていたアイスバッグを返却しようと荷物を纏め保健室へ向かう。運良く今日は川西の機嫌がよく呼び出されることは無かった。それもそれで不気味で落ち着かない。
階段を下がり一階に辿り着く。少し歩いた先の角を曲がれば保健室が現れる。基本この時間帯は部活に入っている生徒しか残っていない為、比較的静かな廊下だ。視線に怯えること無く過ごせる貴重な一時。
「おっと、わりぃ!ぶつかっちった」
徐々に日が落ちていく外を眺めながら廊下を歩いていると、前方から歩いて来ていた人物と過ぎ去り際に左肩が掠ってしまった。通常ならなんともない衝撃だが、今の左肩は赤く腫れている。少しの衝撃でもやや強い痛みが走る。そのズキっとする痛みで手に持っていたアイスバッグを誤って落としてしまった。すぐさま拾おうとしたが、僕より先に相手がそれを拾い上げた。
ネクタイの色を一目見ればどの学年か区別可能なこの学校。着崩していてきちんと結べていないが、ワイン色のネクタイを着けている為、この人物は僕の一つ上の先輩である三年生だというのが分かる。よりによって先輩と肩をぶつけてしまった…更には床に落ちた物を拾わせてしまった。三年は怖いという噂があり今まで避けて生活していたのに、今の一瞬でこれまでの努力が水の泡になってしまった。
「あッ、すみませ「平気?ごめん痛かった?」
辿々しい謝罪を遮られ僕の顔を覗き込まれる。グイグイ来る僕が苦手とするタイプかも知れない…
やや垂れ目な瞳でこちらを直視する。その瞳から逃れようと視線を逸らしながらアイスバッグを受け取る。今の僕はなんとも見るに堪えない無様な姿だろうと自分でも思う。
「え、この傷、何…?」
その言葉に心臓が飛び跳ねた。数日前に川西にやられた傷が手首にあることを完全に忘れていた。最悪な失態をしてしまった。こんな生々しい傷跡他人になんか到底見せられる物では無い。
慌てて袖を引っ張り傷跡を隠すがそれでなにか変化が起きることも無く、ただ気まずい雰囲気が漂う。説明も弁明も下手な僕では打つ手がなく硬直状態。しかしこの空気に耐えられず、何を思ったのか後先考えず口を開いてしまった。
「え、えと…これは、その…」
もう本当に自分は愚かだと思う。先輩も首を傾げて更に変な空気にしただけじゃないか。この後どうすればいいと言うのだ…
「あー、ごめん。忘れて…うん。ごめん、デリカシーだね…わりぃ」
気まずそうに先輩は去って行った。
ここまで見苦しい会話は中々無いのではと考える。僕もこれは過去最高だ。早くこのアイスバッグを返却して帰ろう。
「ただいまー…って誰も居ないけど、」
僕の家は母子家庭。父さんは僕が小学三年生の頃に病気で亡くなった。それにより、教育費や生活費などを稼ぐ為、母さんは早朝に仕事へ出て深夜に帰ってくる。そんな忙しい中、母さんは必ず僕の朝食を用意してくれている。こんな良くしてくれている母親にこれ以上迷惑は掛けられない。
玄関から自室へと向かう。この家も決して広いとは言えないここらで一番家賃が安いボロアパート。隣室との壁も薄ければ屋根からの雨漏りも大変だ。台風が来た際には部屋中大洪水だろう。
薬局で買ってきた腫れ薬や消毒など、残り少なくなっていた物たちを自室に並べる。これまで数多の医薬品を試してきたお陰で自室の小さい棚には厳選された効果がよく効く物や傷を早く治す物ばかり揃っている。値段をできるだけ抑えて良いものを探し当てるのは少し楽しさもあった。これからも新商品が発売されれば逐一試すだろう。
買ってきた物を軽く整理し、敷布団に仰向けになり倒れこむ。薄暗い天井を見上げ一つ溜息を吐く。
「なんで学校行ってるんだろう…」
今更なことが口から零れた。何度も学校を休もうと思った。だが休んだ暁には母さんに心配などの負担が掛かってしまう恐れがある。それだけは避けなければならない。勉強の為、日差しを浴びる為、運動の為、将来の為、様々な理由を付けて自分に言い聞かせる毎日。
勿論川西のことは母さんに伝えていない。伝えられるものか。母さんは僕の幸せを願い弱音も吐かず日々働いている。寧ろ母さんの方が僕よりも辛い思いをしている。だから僕は幸せを装う。
「…何を言ってるんだ。雨風を凌げる住む場所があって食べ物もあるじゃないか。十分幸せだ」
そう、僕は幸せだ。
無意味なことを考えるのは時間の無駄だ。風呂を済ませ早く睡眠に着こうと身体を動かす。
翌日の朝、極力目立たないように道の端を俯いて歩く。僕は今日珍しく寝坊をしてしまった。普段は他人が少ない早い時間帯に登校しているというのにこれでは大勢の視線を気にしながら歩くことになってしまう。朝から最悪の気分だ。どうか誰にも気付かれませんように。
「あの、落としましたよ」
どうやら運の神は僕を有り得ない程嫌っているようだ。どうしていつもこうなってしまうのだろうか…
仕方なく声のした方を振り返る。すると、身長は高く肌も赤子のように綺麗な、まるでアイドルのような男が立っていた。その手には僕の物と思われる紺色のハンカチを持ち、こちらに差し出している。他人に気を取られスラックスのポケットから抜け落ちたのを気が付けなかったらしい。
「あ、すみません」
恐る恐るハンカチを受け取る。後ろを歩いていたのが親切なこの人で良かったと密かに思った。
この場を立ち去ろうとした時、男の後ろからもう一人顔を出した。
「あれ?君昨日の…」
その言葉に記憶を遡る。見覚えのある少し垂れた目尻、気だるげに着崩した制服にワイン色のネクタイ、リュックのように背負うスクールバッグ。昨日の記憶と重なる。廊下で肩をぶつけた先輩だ。よく見るとハンカチを拾ってくれた男も同じ制服にワイン色のネクタイを身につけている。
「え、知り合い?」
「いや、昨日またまた…あ!そういえば肩大丈夫?」
砕けた口調で言葉を交わす二人。どうやら友人のようだ。
急に声を掛けられ戸惑う。昨日の今日でとても話しずらいがやはり僕の苦手なタイプかも知れない。
「困ってるじゃないか。辞めたれよ」
「えー?」
「お前の悪い癖だぞ。相手のことも考えろ」
「いてーっ!ごめんって…」
昨日の先輩にデコピンをお見舞いするアイドル先輩。親しそうな二人に憧れを抱く。僕は人と深い関わりを持たないようにしている。僕のせいで周りの人に危害を加えない為に。
十ヶ月前、当時仲の良かった友人は僕が川西から暴力を振るわれている現場を目撃し阻止に入ったが僕の目の前で川西に返り討ちにされた。その光景で植え付けられたトラウマをもう二度と繰り返さぬよう当時の関係を全て切り払った。それにより今の僕は見ての通りだが、今でも後悔は無い。また友人が犠牲になるくらいなら造作もない。
「では、僕はこれで「え、一緒に行こうよ」
「…い、一緒に?」
「おん!センセーのおもろい話とかいくらでも聞くぜー?」
「おい、大晴!」
先輩がこちらに近付く。肩を組まれそうになった瞬間、反射的に先輩を避けてしまった。
嗚呼、やってしまった。また人を不快にさせてしまった。川西のように殴られるのかと勝手に想像し避けてしまった。もう抗うことは諦めた筈なのに。
「あ、すみませ、失礼します…」
僕は我武者羅に走った。無我夢中に全力で。
「…おい」
「…俺やっちゃったね?」
「あの子見るからに怯えてただろ。目も合わせず。どーすんの?」
「やっばいよね〜…」
なんとか学校には辿り着いたものの、全力で走ってしまった為、咳や呼吸困難などの喘息の発作が起きてしまった。咳も酷く、上手く息を吸うこともできない。動けない程苦しく玄関で倒れそうになる。今にも意識を手放してしまいそうだが、力が入らない足を無理矢理動かし保健室の方向へと進む。しかし、当然自力で歩くことなどできず、全身の力が抜け倒れそうになった時、誰かに支えられたような気がした。頭の中は真っ白になり意識が遠のく。
目が覚めると消毒と洗剤の匂いが感じられ、ここは保健室だと理解した。どうやらベッドで寝ていたようだ。横には着ていたブレザーと鞄が置かれている。発作は落ち着き呼吸も安定しており、一時はどうなることかと思ったがなんとか無事で胸を撫で下ろした。
右に寝返りを打つと椅子に座り首を揺らしながら転寝をしている先輩の姿があった。驚き思わず上半身を起こす。どうしてここに居るのか理解できず混乱していると、閉まっていたカーテンが音を立てて開かれた。
「起きた?おはよ」
「お、おはようございます…」
カーテンを開き現れたのは先程のアイドル先輩。美形ではあるが少し気難しそうな雰囲気とは裏腹に口元を緩め微笑みかけられる。その後、寝ている先輩に歩み寄り頬を抓り現実世界に引き戻す。唸り声を上げ目を薄く開く先輩。
「いひゃい…」
「ほら、起きたぞ」
「ん?あぁ、おはよぉ…」
自分に向けられた言葉なのかそうでないのか曖昧な口調で話す先輩。目を擦りながら大きな欠伸をしている。
「で、体調どう?」
「えと、もう平気みたいです」
「そ?いかったー。君ね、ゾンビみたいになってたよ?もうふらっふら!」
話し方でここまで運んでくれたのは先輩方だと悟った。しかし、あの垢抜けない姿を晒してしまったことに羞恥心を覚える。それと同時に登校時の無礼を思い出す。
「先程はすみませんでした。避けたり、走り去ってしまって…ごめんなさい」
僕は頭を下げて謝罪をした。掛け布団を握る手には力が入り小刻みに震えている。怖い。怒鳴られるかもしれない。なにか酷いことをされるかもしれない。怖くて震えてしまう。先輩が無言で椅子から立ち上がり動き出す。意を決して目を強く瞑った。
数秒後、頭に手を置かれ優しく撫でられる。戸惑い先輩を見上げる。
「生まれたての小鹿じゃん!そんな怯えなくても取って食ったりしねぇよ」
冗談めかして言う先輩。頭に置かれている掌は温かくすごく心地がいい。幼い頃に父さんが頭を撫でてくれたことを思い出す。
「てか、俺こそごめんな?よく考えたらまともに話したことないやつが突然肩組んできたらきっしょいよな!そりゃそうだ!」
声を上げ豪快に笑う先輩。騒がしいと保健室の先生に叱られてしまった。その後、改めて僕の目を真っ直ぐ見詰め言葉を紡ぐ。
「だから、お前が謝る必要ねぇから。な?」
その言葉が心に響く。”謝る必要は無い”そう言って貰えるとは微塵も思っていなかった。ふと、この人達にすぐ近くに居続けて欲しいと思った。しかし現実はそう甘く無い。もう二ヶ月もすれば三年生は卒業しこの学校を去ってしまう。なんて残酷なことだろう。
ふとした時、今まで無言で様子を伺っていたアイドル先輩が口を開いた。
「俺は謝って欲しいけどな」
「は?何言ってんだよ。成ちゃんは何も「この子じゃなく大晴、お前にだ」
「あ…?」
「俺はお前のいざこざに巻き込まれた被害者だ。そのせいで朝から無駄に走らされて…なぁ?」
「あいや…それはぁ、さぁ?」
「なに?」「……すまん、」
「え声が小さくて聞こえなーい」
「はぁ!?」
この様子に僕は口を閉じて静かに笑った。二人の掛け合いを眺めているとなんだか元気が湧いてくる。もう一度担任や他の教師にも川西のことを相談してみてもいいかも知れない。近々勇気を振り絞り掛け合ってみよう。
「まぁ落ち着けって!ドードー。そんなことより!まだ名前知らないよな?」
「あ、はい」
「俺は飯塚大晴《いいづかたいせい》!ほら、成ちゃんも!」
「…俺は成田玲央《なりたれお》。よろしく」
「僕は間島蓮です…」
”成ちゃん”というのはあだ名か何かだろうか。飯塚先輩は予想通り距離がやや近いのかも知れない。
あの一件があってから、先輩達とよく絡むようになった。朝も時々一緒になって登校し、昼も二人の会話に混ぜてもらっている。彼らと話していると今までの辛いことも忘れられ心も身体も癒されるような気がする。僕は完全に心を許し、二人には全てをさらけ出している。先日も川西のことを愚痴程度に口にすると真剣に話を聞いてくれ、相談にも乗ってくれた。実際は一つしか歳が変わらないというのに、学校の教師より何倍も遥かに頼れる大人のように感じる。
勿論、僕が先輩と話しているのを好まない奴も一定数存在する。会話に割り込み邪魔をする者、意図的に聞こえるよう僕の悪口を言う者、中には直接先輩達に嫌味を放つ者も。今後どこかで先輩達もかつての友人のように危害を加えられるかもしれないと怯えていた時期もあったが、彼らはそんな弱い人間では無かったとすぐに思い知らされた。邪魔する者をまるでコバエを払うように追い返すなど、僕には到底できないことを難なくやって退けてしまう。今では彼らが僕の憧れの存在になっている。
「ほんと、あいつらもよく飽きないよな」
「お!オコ成ちゃん?」
「それ辞めろ」
「まぁねー、正直うざい」
「僕は別に大丈夫ですけど、」
「え〜?嘘だぁ!」
しかし安心できるのも今のうちだ。彼らがここを去ってしまったら頼れる人物も居なくなってしまう。勇気を出してもう一度相談した件も無様に切り捨てられ無かったことに。その時もうこの学校は駄目だと悟った。
それから数週間後。いつもと変わらず登校し朝のSHRに参加する。ぼんやりと担任の話を聞き流していると一つの言葉が耳に入る。
”川西が退学処分となった”。教室は動揺に満ち溢れどよめくこともなく静まり返っている。僕も素直に喜ぶことができなかった。どうして突然?犯罪でも犯したのかと疑った。
僕の高校生活が変化したのはこの時からだ。SHR後、僕は担任に呼び出され面談をした。その内容はいじめに関することだった。何度助けを求めても相手にされていなかったのに、不自然な程対応の差が激しい。
その数日後、今度は体育館に全校生徒が集められいじめに関する講話が行われた。個人的に一番講話を受けて欲しい人物が不在だったが、そいつは受けても効果が無いとも考えた。この日の昼。三人で昼食を食べている最中、飯塚先輩が成田先輩に問い掛けた。
「なぁー今日の講話ってさぁ、成ちゃんでしょ?」
「何のことだよ」
飯塚先輩の発言の意図が読めなかった。講話に成田先輩が関係している筈が無いのに。どうしてそんなことを聞くのだろうと。
「成ちゃんがおじいちゃんに言ったんでしょ?」
「…さぁね」
「あ、ツンデレ成ちゃん?」
「だからそれ辞めろって」
成田先輩が直接ではなく成田先輩のおじいさんが関係しているのだろうか。果たしておじいさんは何者なのだろう?この疑問を問う暇なく気付けば次の話題に移り変わっていた。
それから二ヶ月後。三年生は無事卒業し僕の代が最高学年に進級。川西が居ないこの学年は穏やかで息がしやすい。退学を命じた校長には頭が上がらない。
進級した今の僕が目指す理想像は固く決まっている。地獄の底に堕ちていた僕を救い上げてくれた飯塚先輩や成田先輩のように、助けを求めている人を一切躊躇わず救うよう行動できる人間。そんな光の方へ導くような人間になりたい。いや、必ずなる。その為には様々なことが必要となるだろう。きっと今からでも遅くは無い筈だ。立派な人間になり母さんにも親孝行をしよう。そう心に深く刻み込み、残り一年間の高校生活を一日一日大切に過ごそうと決めた。
もし、またいつかあの二人と再開した時、あの優しい笑顔と、また頭を撫でて貰えるように。