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人の話を聞いているとなんとなくだが、その人がどの位置に立っているか分かるようになる。
位置とはどれだけ崖っぷちにいるかということ。つまりは自ら命を断つ危険があるかということ。
私の所感でしかないが、命を断つ人の多くは悩んでいるはずなのに妙に明るいことが多い。
全力で落ち込んでいる人は動く気力すらない。故に死という選択も選べないが、僅かに光明が見え、体が軽くなり動けるときこそ危ないと私は思っている。
家族と別居の道を選び、養育費を払うことで責務を全うする代わりに、こちらの人生に関わらない。そんな約束で始まった新たな生活に希望を感じている、悠真さんの動向は見守らなければならないだろう。
人の悩みを聞き、触れてきて私も救われることがある反面、悲しい結果を知り落ち込むこともある。
だからなのかは分からないが、死に取り付かれている人のことは何となく分かってしまう。
夏の夕暮れに川沿いの遊歩道を散歩していた私は、複数の人の気配を感じ道沿いの公園に目をやる。
3人の男と2人の女が木に隠れこそこそしているのが見えた。
楽しくて堪らない、そんな笑みを浮かべる5人の視線の先には、夕日に照らされたベンチにどこか浮かれた感じの男性が1人座っていた。
地面を見つめ喜びを噛みしめつつも、喜びの笑みを見せまいと堪える男性と、それを見て可笑しくて噴き出してしまう声を必死で押し殺す男女。
その対比を見て両者の関係を何となく悟った私は公園への階段を降りて行く。
お節介なのは分かっている。私自身が自分の生き方を模索し悩んでいるのに、そんな自分が他人を救う立場でないのも理解している。
自己満足かもしれない、或いは人の傷に寄り添い自分の傷を隠そうとしているだけなのかもしれない。もしくはその先にある触れ合いに生の実感を得ているだけなのかもしれない。
だけども、たとえ傷だらけの手だとしても、それでもそのことで人が救われその心に私が刻んでもらえるなら、それが私の生き方なら手を伸ばそうと思う。
自己満足や偽善、なんでもいい。他人がなんと言おうとおおかみちゃんである私の生き方を貫いていこう。
迷いなく真っ直ぐに男性へ向かう私に、すれ違い様に困惑の色を浮かべる男女の視線を無視して通り過ぎると、男性を照らす夕日を塞ぐ。
──今、暗い闇を知ることも、目映い光を当てることもまだ早い。ゆっくりと光を見せ、慣れさせて、少しずつ歩かせないと。
心にある葛藤など忘れて私は声を掛ける。
「隣に座っても良いですか?」