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あの後――生理痛が酷くて、本当に丸一日、身動きが取れなかった。
ベッドとソファの間を、ただ呻きながら転がるだけの一日。
痛み止めの薬を飲んでも、腹の奥の鈍痛と鉛みたいな倦怠感は消える気配もなく、私は毛布にくるまりながら「うぅ……」と唸る以外にできることがなかった。
その傍らで沙耶はというと、買ってきた服を次から次へと着替え、即席のファッションショーを開催していた。
ワンピース、ブラウス、スカート、セットアップ。
わざわざ鏡の前で一回転してみせて、それをスマホで撮り、ポーズを変えてまた撮り……と、実に楽しそうだった。
――このギャップは何なのだろう。
同じ部屋に居るはずなのに、一方は「死にそう」、もう一方は「文化祭前日」みたいなテンションだ。
痛みに耐えながら、少しだけ羨ましくもあり、少しだけ救われてもいた。
翌日。
嘘のように――とまではいかないが、多少は動ける程度には回復した。立って歩けるし、顔色も昨日よりだいぶマシだ。
予定通り、今日こそは食料や武器の調達に向かうとしよう。
「今日は何を買うの?」
助手席でシートベルトを締めながら、沙耶が首をかしげる。
その表情は、遠足に行く前の小学生そのものだ。
「とりあえず日持ちする食料かな。缶詰とかインスタント食品とか」
「買っといて損はないもんね~。何事も無ければ食べればいいだけだし」
その通り。
何事も無ければ、ただの「ちょっと備えすぎた人」で済む。
何かあった時に備えがないより、よほどいい。
とはいえ、一つの店で棚を空にする勢いで買い占めるのは、さすがに気が引ける。
なので、スーパーを数件はしごする計画を立てた。
食料品を買い込みつつ、ホームセンターではスコップ、包丁、斧、ハンマー、長さの揃った鉄パイプを数本といったラインナップを籠に入れていく。
……我ながら、物騒な買い物だ。
当然のようにレジの店員に怪訝な顔をされ、「えっと……業務用ですか?」と聞かれたので、
「新しくキャンプ場を経営するんです」
と、適当な嘘をねじ込んでおいた。
テントと焚火台とキャンプチェアも、後でちゃんと買う予定だ。全くの嘘というわけでもない。多分。
沙耶は横で、明らかに「そんなの本当に必要?」と言いたげな顔をしている。
「お姉ちゃん、戦争にでも行くの……?」
「うーん……なんて説明したらいいんだろう……」
言いにくい、というより、言ったところで信じてもらえない未来が見える。
そう考えて濁してしまう私を見て、沙耶は肩をすくめて笑った。
「別に言えないことなら無理に言わなくてもいいよー、私はお姉ちゃんを信じてるし」
「ありがとね、沙耶」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
言い逃れの余地もない状況――つまりゲートが開き、モンスターが溢れ出し、世界中が混乱に飲み込まれた時なら、きっと嫌でも理解せざるを得ない。
その時には「母さんの予感が」とか「ちょっと危なそうだから」なんてぼかし方では済まないだろう。
だが、今はまだ前日譚だ。
「ダンジョンが――」「ゲートが――」とネットで叫んでも、陰謀論者の戯言として片付けられるのがオチだ。
私には、世界を変えるほどの影響力も、フォロワー数も、拡散力もない。
だからせめて、自分の手が届く範囲だけは守れればいい――そう割り切ることにした。
数件のスーパーを回り、カート二台分ほどの食料を買い込み終えた後は、キャンプ用品店へ。
そこではテントや火起こしセット、鉈、大きめのリュックなどを購入する。
レジを終えて駐車場に戻る頃には、車の荷室はほぼいっぱいだった。
「はぇー……いっぱい買ったね……」
「そうだね……軽自動車だったら絶対に入りきってない量だね」
「ファミリーカーだもんね。この車」
そう、私が今乗っているのは七人乗りのファミリーカーだ。
住んでいる場所は東京とはいえ、23区内ではない。車がないと何かと不便なエリアで、営業職ということもあってこのサイズの車を選んだ。
荷室を閉めながら、今日買ったものの量に改めて戦慄する。
食料、日用品、アウトドア用品、工具、武器になりうるもの一式――並べたらちょっとした防災展示コーナーのようだ。
「今日買った物は車の中で良いや……」
「明日はどうするの?」
「うーん……母さんの顔を見に一回帰ろうかな」
実家には、母さんが一人で暮らしている。
父さんは私が幼い頃に事故で亡くなり、それからずっと母子家庭だ。
母さんは、人当たりが良くて明るくて、とにかくよく喋る。
昨日、沙耶に「昼間、何してるの?」と聞いたところ、
「動画配信サイトで配信してるよ」
と、当然のように答えてきた。
そこまでインターネットを使いこなせているのなら、いい加減携帯電話くらい持って欲しい……と何度も言っているのだが、「手紙の方が味がある」と言い張って、頑なに持とうとしない。
それはもう、趣味や美学の域を通り越して、一種の「拘り」に昇華している気さえする。
私が「明日、家に帰る」と言った瞬間、沙耶がハッとした顔をした。
「ほんと!? 夏休みの宿題忘れちゃったから取りに帰りたかったんだよねー!」
完全に居座る前提で話が進んでいる。
今の口ぶりからすると、宿題の存在自体、さっき思い出したのではないか……?
無言で視線を細めて圧をかけると、沙耶は目を逸らして、吹けない口笛を吹くフリを始めた。
分かりやすいにも程がある。
その日の夜。
家に戻った後は、昨日一昨日と同じように、二人で風呂に入り、湯上がりに髪を乾かしていた。
「アイス食べたい」
唐突に、沙耶がぽつりと呟く。
「……確かに」
冷凍庫を開くまでもなく、アイスが無いことは分かっていた。
中は、昼弁当用の冷凍食品たちが所狭しと詰め込まれているだけだ。
言われなければ、今このタイミングでアイスを欲することはなかったはずなのに、一度口に出されてしまうと、途端に「アイスの口」になるから不思議だ。
「――コンビニ行ってくる」
「流石お姉ちゃん! 私はスイカのやつね~」
「はーい」
先日買った運動用のウェアに着替え、財布をポケットに突っ込み、玄関を出る。
ちょうどいい機会だ。
この身体がどこまで動けるのか、軽く確かめておこう。
まずは柔軟性から――玄関先で軽く身体をほぐし、ゆっくりと脚を開いていく。
180度の開脚は問題なくこなせた。
続けて片足を真っ直ぐ上げて、I字バランス。これも難なくキープできる。
肩回りの柔らかさも確認するために、後ろ手に腕を回し、両手首を掴む。こちらも余裕だ。
「もしかして違うのは筋力だけ、か?」
『回答します。再構築の際に女体のフレームが歪まない程度に筋肉も継承しています』
「ふむ、それは助かる」
何故そこまでしてくれるのに、男のまま回帰させてくれなかったのか――と、喉まで出かけた疑問は飲み込む。
どうせ聞いたところで、「生殖行動が不要と判断しました」と同じ回答が返ってくるだけだ。
不毛な問答は、今は不要だ。
体の確認に意識を戻す。
コンビニまでは、家からおよそ一キロ。
距離的にも、ちょっとした全力走にはちょうどいい。
「ふっっ」
軽く地面を蹴り、勢いよく走り出す。
信号も少なく、ほぼ一直線の道なので、車さえ注意していれば全力で走れる。
夜風が頬を打ち、景色が後ろへ流れていく。
速度は、回帰前の全盛期と比べて、おおよそ一割程度。
能力値の数値通り、と言えばそうなる。
2分ほど走り続けると、コンビニの看板が視界に入った。
「はぁっ、はぁっ……持久力が無いな……」
心臓がバクバクと早鐘を打ち、肺が熱い。
心肺機能までは継承されていないようだ。ずっと剣を振り続けていた頃が、いかに異常だったか、改めて思い知らされる。
だが――久しぶりに味わう、運動後の苦しさは、嫌なだけの感覚ではなかった。
あぁ、この「辛さ」は、ただの苦痛じゃない。
息が切れ、胸が苦しくても、その奥には達成感のようなものが確かにある。
心地いい、とさえ思える。
息を整えてから自動ドアをくぐり、冷房の冷たい風を肩に受けながら店内へ入る。
「沙耶はスイカ……私は何にしよう」
アイスのコーナーの前でしゃがみ込み、ガラス越しに中身を眺める。
カップ、バー、モナカ、シャーベット、ソフトクリーム型……選択肢が多すぎるのも考えものだ。
2、3分悩んだ末、結局バニラ味のカップアイスに落ち着いた。
シンプル イズ ベスト。迷ったときは原点に帰るのが一番だ。
そのままレジに向かえばいいものを、夜のコンビニ特有の罠が私を待っている。
――そう、スナック菓子コーナーだ。
必要なものだけを買うつもりで来ているのに、つい棚に手が伸びてしまう。
いつの間にか腕の中には買い物かごがあり、その中にはポテチやチョコ、グミがちらほらと混ざり始めていた。
そして、追い打ちのように、デザートコーナーが視界に入る。
「エクレア……買ってこ……」
甘いものへの欲望に、あっさりと膝を折らされる。
観念してエクレアを二つかごに入れ、レジへ向かった――のだが。
何やら、レジ周りが妙に騒がしい。
「ねぇ、お姉さん可愛いね~、電話番号教えてよ」
「勤務中ですので……」
若いナンパ男が、レジに立つ小柄な女性店員にしつこく絡んでいた。
黒髪で、私より一回り小さい背丈。どこか小動物めいた雰囲気を漂わせている。
この時間帯はワンオペなのだろう。
店員の彼女は、明らかに困った顔をしつつも、レジから離れられない様子だった。
「じゃあお仕事終わるまで待とうかなぁ」
「そういうのは困ります……」
ナンパ男がレジ前を占拠しているせいで、私の会計の順番が回ってこない。
このままでは、アイスが無駄に溶けてしまう――それはそれで一大事だ。
「店員さん、コレ、客?」
我慢の限界が来た私は、買い物かごを提げたまま、ナンパ男を指さして店員に問う。
「あぁ!? 何だ、テメェ!?」
「いえ……何も買われてないです」
ナンパ男は私の一言に逆上し、店員はきちんと事実を教えてくれた。
つまり――会計中でも客でもない。ただの邪魔者だ。
「邪魔なんだけど。会計したいから退いてくれる?」
「へぇ、よく見ればいい女じゃねぇか」
「日本語、通じてない? 退けって言ってるんだけど」
「気の強い女はなぁ……分からせてやらねぇとなァ!」
ナンパ男が私の肩を突き飛ばすように押した。
体重の軽さもあって、少しだけよろめいたが、一歩下がってバランスを取り直す。
私とナンパ男の身長差は、頭ひとつ分ほど。
彼は指をポキポキ鳴らしながら、私の目の前に立ちはだかった。
「――押したね?」
「だから何だってんだ!? 女に何ができるってンだ!?」
「カメラの角度的に……写ってるね。よし、正当防衛だ」
「何をブツブツと言って――」
ナンパ男の胸倉を、ぐ、と掴み上げる。
敵意を明確に認識し、【攻撃】として力を乗せる――剣を抜く代わりに、腕に力を込める感覚。
軽々と持ち上げ、そのまま出入口まで運んだ。
自動ドアが開いたのを横目で確認し、躊躇なく外へ放り投げる。
受け身が取れないよう、腹から叩きつけるように落としたせいで、ナンパ男は駐車場の地面の上で悶絶していた。
「……よかった。力加減ができて」
敵意を向けた相手を掴んだのは、【攻撃力】による身体能力の上昇を得ていたからだ。
回帰前と同じように「加減」ができるかどうか不安だったが、今の様子を見る限り、ちゃんと調節は利く。
もし加減が利かなかったら――ナンパ男の身体は、今頃ミンチになっていたかもしれない。
それはそれで後処理が大変だ。
胸倉を掴む時に一時的に床へ下ろしていた買い物かごを拾い上げ、何事もなかったかのようにレジへと戻る。
「やっと静かになったね」
「そうですね……? あ、あの……ありがとうございます」
「気にしないでいいよ、私が勝手にやったことだし」
「いえ……そういうわけには……あっ、アイス溶けちゃってますね! 新しいのにしてきます!」
店員の彼女は慌てた様子でアイスコーナーへと走っていった。
慌てているくせに、なんだか小動物みたいで、妙に愛嬌がある。
戻ってきた時には、溶けかけたカップは新品と交換されており、彼女は「へへへっ」と照れくさそうに笑った。
レジを打ってもらいながら、ちらりと時計を見る。
早く帰らないと、沙耶に「遅い」と文句を言われるだろう。
気が付けば、合計金額は2000円近くになっていた。
大きめのレジ袋にパンパンに詰められたスナックとデザートを受け取り、さあ帰ろう――と出口に向かいかけたところで、呼び止められる。
「あっ、ちょっと待ってください! あのっ、これっ!」
「メモ紙……?」
折りたたまれたメモ用紙を渡される。
開いてみると、中には「ID」のような文字列が書かれていた。
「私、小森って言います! 小森《こもり》 愛《あい》です! 何かあったらご連絡したいのでっ、連絡先を教えてくれませんか!?」
「あぁ、なるほどね……あの男を警察に突き出すときとか私の証言必要だよね」
自動ドア越しにちらりと見ると、さっきのナンパ男がまだ駐車場で丸まっているのが見えた。
渡されたメモとは別に、レシートの裏に仕事用の電話番号と名前を書き、渡す。
「橘さんですね……」
小さく呟いた声が聞こえた。
「呼び止めちゃってすいません……今日はありがとうございました! 連絡待ってます!」
「ん? あぁ、気にしないで。仕事頑張ってね」
「はいっ!」
元気いっぱいの声に見送られて、コンビニを出る。
その瞬間、丸まっていたナンパ男から、微弱ながらもはっきりとした殺気の気配を感じた。
「この、クソアマがぁぁぁ!!」
手に何か金属光沢を帯びたものを握り締め、こちらに突進してくる。
刃渡り的に、おそらく折り畳みナイフだ。
「物騒だなぁ……」
右手は買い物袋を持っているので、空いている左手だけで対応する。
迫ってきた刃を、親指と人差し指で摘まむように受け止め、そのまま捻って奪い取る。
続けて、ナンパ男の足を払うように蹴り、地面に転がす。
奪ったナイフを逆手に持ち替え――そのまま、顔面目掛けて構えて刺しに向かった。
「ひぃっ」
情けない悲鳴が上がる。
ナイフは、ナンパ男の顔には刺さらず、そのすぐ横のアスファルトに、根本まで深々と突き刺さった。
私はナイフの柄から手を離し、今度はナンパ男の首に手のひらをそっと当てる。
「次は無いよ」
静かな声でそう告げ、じわじわと手に力を込めて圧迫する。
数秒ほどで、暴れていた身体から力が抜け、うなだれるように静かになった。
鼻先に指先をかざし、息があることを確認する。
「……うん、生きてるね」
店内からは、既に店員の彼女が警察に通報しているはずだ。
この場に居続ければ、事情聴取やら何やらで面倒なことになるのは目に見えている。
私は袋を持ち直し、駆け足で夜道を引き返した。
――さっさと帰って、アイスを食べて風呂上がりの時間を満喫しよう。
モンスター相手の戦いが始まる前に、こういう小さな日常ぐらいは楽しんでおきたいのだから。