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「ん…ん……、まぶし…」
窓ガラスの外から射す太陽の光で目が覚めると、恭介さんの腕の中にいた
靄がかかる意識を覚醒すると、今の状況に繋がる記憶がおずおずと脳内を駆け巡る
恭介さんが用意した高級そうなホテルの部屋でワンピースとヒールに着替えて、ホテルの中華レストランで食事をして、摩天楼みたいな屋上に行って、それからそれから……
ああそうか、私……昨夜とうとう、しちゃったんだ
自身に起こった昨夜の出来事を思い出して、脚の間に鈍い痛みを自覚しながら、恭介さんの綺麗な寝顔を眺める
私の『初めての相手』となる恭介さんは、閉じた瞼をピクピクっと軽く痙攣させながら穏やかな寝息を立てていた
これは、本当に現実なの?
一週間前にふとした出来事、スーツにコーヒーをかけたことで恭介さんと知り合い食事に行き、その日から一週間後にもう一緒に朝を迎えている
全て実際自分の身に起きているのに、全てが信じられなかった
私はすっかりと停止して起動する機能を忘れている思考をなんとか動かすと、恭介さんの腕の中から離れてベッドから這い出た
ベッドサイドに腰掛けて立ち上がろうとした瞬間、私は脚の間に鋭い痛みを感じて、思わず顔をしかめた
っ、痛い……
脚の間から私の中に繋がる部分が、裂けるように痛い
太腿をすり寄せて、痛みがある部分を庇うように中腰の姿勢で身体を引きずるようにして、バスルームに向かった
昨夜はあまり痛みは感じなかったのに、目が覚めたら結構強い痛みがある部分に恐る恐る手を忍ばせると、指に少量の血液が付着した
これは、いつもの生理の血じゃないよね…
シャワーを勢いよく出して、熱い奔流に頭から全身打たれながら流されていく『処女喪失の証し』である血液を、眺めた
やっぱり、現実だ……
どんな人なのか分からない、一週間前に出会ったばかりの大人の恭介さんと所謂、『セックス』をした
もし、一週間前の夜に恭介さんと食事をした時か、昨夜のホテルで恭介さんが用意したワンピースに着替えている時に、『もうすぐ、あなたは森川恭介さんと高級ホテルに一泊して生まれて初めてのキスとセックスを経験して、高級そうなベッドの上で目を覚ましますよ』なんて、誰かに予言されても信じなかっただろう
だけど、誰かに予言されなくてもこうして目の前で、自身の身の上で起きている
私はシャワーを止めて、目の前にある大きな鏡を見る
そこには目を潤わせて頬を血行良く赤く染めている、見るからに健康そのものの顔をした私が映っていた
私は私なのに、なんだか別人みたい……
一夜で昨日までの自分とは違う自分に多少の違和感を感じながら、備え付けの高級そうなシャンプーとリンスとボディソープを使って、頭と身体を洗った
泡とシャワーで刺激されて痛む脚の間を庇いながら、すぐ側にあった触り心地抜群のふわふわなバスタオルでいつもより敏感な肌を拭い、身体に巻き付けた
備品の歯ブラシで歯を磨いてからバスルームから出ると、恭介さんがスーツのパンツを穿いた上半身裸でベッドに腰掛けていた
乱れた髪をかきあげる恭介さんの姿を見た途端、急に恥ずかしなって頬を赤らめながら俯いた
「おはよう、藍璃ちゃん」
恭介さんは優しい声音でそう言いながら、ゆっくりと私に近づく
「身体、大丈夫?」
昨夜の記憶が、ありありと蘇る
表現できないくらいの羞恥に、更に頬が熱くなる
恭介さんは私が脚の間の痛みを堪えていると、全て知っているみたいだった
私は無言のまま、首を縦に振るのが精一杯だった
「それは、大丈夫っていう意味なのかな?」
あまり、そういうのに触れた質問はされたくなかった
恭介さんはその場に立っているだけでも膝から崩れ落ちそうになっている私の顔を、心配そうに覗き込む
「っ、だ、大丈夫…です」
恭介さんの視線から逃れるように、更に深く顔を俯かせながら掠れた声で言った
「そうか。藍璃ちゃんがそう言うなら大丈夫なんだね。じゃあ、浴びてくるよ」
恭介さんは私の頭を軽く撫でてから、バスルームに向かった
ずっと止めていた息を深く吐き出して、呼吸を整えた
本当に私は、恭介さんとしたんだ……
昨夜のは夢では無くて、今も夢じゃない
昨夜の記憶を思い出すたびに身悶えしながら、ベッドの下に落ちているキャミソールとショーツを拾う
ソファーの上に置いてある紙袋から、ワンピースに着替える前に着ていた、ジーンズとトレーナーのカジュアルな服を出して着た
しばらくして、先ほどと同じ格好の恭介さんが、濡れた髪をバスタオルで拭きながら出てきた
「あ、髪が濡れたままだね」
ドライヤーがどこにあるのか分からず、探すという行動を省略していた
「おいで」
手招きする恭介さんに近づくと、ベッドに腰掛けるよう促される
恭介さんはドライヤーをバスルームのどこからか持ってくると、私の髪を乾かし始めた
全てが生まれて初めての経験で、なんとも言えない羞恥に包まれながら、恭介さんに髪を乾かしてもらった
それから、帰る支度を恭介さんとする
恭介さんは昨夜と違うワイシャツにスーツで、ネクタイは締めていなかった
「そろそろ、出ようか」
先程から羞恥で心を占めている私は、恭介さんとあまり会話をしておらず、そう言われてただ無言で頷くだけだった
昨夜の記憶が脳内を何度も何百回以上と数えれないくらいフラッシュバックしていて、恥ずかしさで気まずくなっていた
私は、バッグと恭介さんに『プレゼント』してもらったお洒落なネイビーのワンピースとヒールの靴が入った紙袋を持った
そしてこのホテルの部屋に来た時と同じ様に、火照る頬を俯かせたまま恭介さんの後を追うように、恭介さんと一夜を過ごした豪華な部屋を出る
エレベーターを降りると、朝の柔らかい陽が立派な大理石の床に革張りのソファーが鎮座する豪華なロビーに、射していた
週末の朝のロビーは、人の出入りが多かった
休日なのにスーツを着たビジネスマンらしき人達や、はたまたジーパンにパーカーといったラフな格好をした人達が、行き交っている
私は、恭介さんがフロントでチェックインを済ましている隣で、陽の光を反射して昨夜と変わらずきらきらと輝いているシャンデリアをぼうぜんと見る
昨夜見たシャンデリアと同じなのに、違うものに見えた
「藍璃ちゃん」
喧騒の中、恭介さんの優しい声にそう呼ばれて、気を抜いたら直ぐにどこかに行きそうな意識を取り戻す
身体中が筋肉痛で、熱を持っているみたいでぼーっとする
恭介さんと回転ドアの横にある普通のドアから、外に出る
外の明るさに目眩みを覚えて、冬に近づく冷たい風に寒気を感じた
脚の間がじんじんと痛み、ホテルから目と鼻の先にあるタクシー乗り場に到着するまでが、とても長い距離に思った
恭介さんが止めた一台のタクシーに、私が先に乗り込む
「っ!いっ……」
「どうしたの?」
再び裂けるような痛みを感じて顔を歪める私を、心配そうに恭介さんが覗き込む
“ここ”が痛いなんて、言えない
「大丈夫です。なんでもありません」
痛みを我慢しながら、痙攣らないように笑顔で言った
恭介さんは何も言わずに私の隣に乗り込んで、シートベルトを着用した
運転手に行き先を尋ねられると、先に私をアパートまで送ってから駅に行くと恭介さんに言われたので、私はアパートの住所を言った
タクシーの中は沈黙が流れていて、ふと、窓の外から視線を恭介さんに向ける
すると恭介さんと視線が絡み、優しい微笑を向けられて私は、更に恥ずかしくなって視線を逸らす
恭介さんとはそれから視線を合わさず、会話をも全くしないで帰路についた
そして、あっという間にタクシーはアパートの前に着いた
「あの、先程の代金、私の分払います。宿泊代と食事代いくらですか?」
シートベルトを外してから別れ際に先程宿泊代を払っていないことに気付いた私は、恭介さんに話し掛ける
「藍璃ちゃん、それは気にしなくいい。前回と同じで俺が突然連れて行ったんだから、君が気に病むことはないよ。それに、食事も宿泊も俺はとても楽しかった。俺はね、藍璃ちゃんと食事をして、あの部屋で過ごしたかったから用意したんだよ。だから俺が勝手に誘った側なんだから、気にしないで」
恭介さんは優しい声音で、ゆっくりと穏やかにそう言ってくれる
「……分かりました」
私は出しかけていた財布をしまい、申し訳ない気分になりながらも、ドアを開けて降りた
「藍璃ちゃん、昨夜は君と過ごせて本当に良かった。……じゃあ、元気でね」
恭介さんは眉根を寄せて、少し苦しげに微笑みながら別れの挨拶をする
……あ、そうだ
もうこれで、恭介さんとさよならなんだ
「……はい。恭介さん…こそ、お元気で」
私は苦しいほど切なく痛む胸を押さえながら、震える声で言った
ドアを閉める
窓越しに見える恭介さんは何故か切なそうな表情をしていて、目が離せない
しばらくしてタクシーがゆっくりと発進して、段々と離れていくのをその場に佇みながら見送る
数分後、パーカーのポケットでスマホが震えたので取り出して画面を見ると、一件のメールを受信していた
『藍璃ちゃん、ごめんね。俺のことは早く忘れてくれ』
私は一瞬で頭の中を真っ白にしながら、眺める
なにこれ、なにそれ……?
なんで?
忘れろってどうして?
……無かったことにしろってこと?
さっきまで、私と過ごせて良かったって言ってたのに?
それとも、さよならの言葉なの?
これが?
やがて快晴だった空に鈍色の雲が広がって、急に冷たい秋の雨が降り始めた
初めての恋は、甘苦く酸っぱいもので……
恭介さんがホテルで何度も確認するかのように、『後悔しない?』と言った意味と恭介さんが謝った理由を今頃理解した途端……心の中にいつまでも消えない恋の後味の、甘苦くて酸っぱい酸味が深く濃く残った
そう、甘くて酸っぱくて苦い……まるで不完熟なブラックチェリーみたいな味