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お姉ちゃんが私のスマホで音楽を聴き始めたのを確認して、ちゃんとイヤホンが耳に収まっているかまで見届けてから、私はそっと振り返った。
畳の上には、正座して壁に向かい、両手を挙げている美人が一人。
――うん。どう見ても悪いことした人のポーズだ。実際、悪いことをした自覚は当人にまるで無いのだから、余計にたちが悪い。
(ほんと、お姉ちゃんは全っ然分かってない……)
内心で頭を抱えつつ、私は七海さんと小森さん、二人の方へ向き直る。
「まずは……自己紹介でもするっすか?」
最初に口火を切ったのは七海さんだった。いつもの調子で、明るくて、テンポが良い。
「ウチは小島七海っす。あそこで正座してる人の職場の後輩っす!」
親指でお姉ちゃんの背中をくいっと指し示す。
正座したままぴくりと肩が揺れたが、当然ながら音楽で何も聞こえていない。
「知ってると思いますけど、橘沙耶です。あそこで正座をしている、恋愛朴念仁の妹です」
わざとそこだけ強調して言うと、七海さんが「分かるっすわー」と頷いてくれた。
「わっ、私は、小森愛です……」
小森さんは、緊張した様子で胸の前で両手をぎゅっと握りしめながら自己紹介を始めた。
声はか細く、話すうちにどんどん小さくなっていく。
「沙耶さんのお姉さんに助けてもらって……あの、その……やっぱり私なんか迷惑ですよね……」
最後の方は、ほとんど蚊の鳴くような声だった。
俯いたまま眉尻を下げている姿は、見ているだけで守ってあげたくなる。
(……いや、ほんと、冷静に考えて悪いのは小森さんじゃなくて、あそこで正座してる朴念仁の方だからね)
心の中でため息をひとつついてから、私はできるだけ柔らかく口を開く。
「小森さん、まずは……強く当たっちゃってごめんなさい。お姉ちゃんから何も説明されてなくて、急にコンビニで言われたから……ちょっと整理がついてなくって……」
そう言って頭を下げると、小森さんがぱちぱちと瞬きをして、慌てて両手を振った。
「ウチも悪かったっす。よくわかんないけど、沙耶ちゃんの空気に便乗したっす」
隣で七海さんも、頭をぽりぽり掻きながら続けた。
「お二人は、何かあったんすか?」
そこで私は、コンビニで初めて会ったときの顛末を簡単に説明した。
ナンパ男のこと、警察沙汰になったこと、小森さんが怯えていたこと、お礼を言いたいと連絡してきてくれたこと――。
一通り話し終えると、七海さんは腕を組み、じーっと天井を見ながら「ふむふむ」と頷いた。
「あー……なるほど。完全に理解したっす」
そのフレーズ、ネットではだいたい「全然理解してないとき」に使うやつなんだけど……大丈夫だろうか。
「つまりっすよ。小森さん? 小森ちゃん? は被害者っすね。天然人たらし先輩の」
「無自覚無意識でそういうことするからなぁ。もう少し自分の容姿に自覚を持って、周りに接してほしい」
ここぞとばかりに二人して、お姉ちゃんの悪口大会になっていく。
本人に聞こえていないのをいいことに、言いたい放題だ。
小森さんは、きょとんとした顔で私と七海さんを交互に見て、首をかしげた。
「あ、え? 怒ってないんですか……?」
「怒ってなんかないっすよ~」
七海さんは、軽く肩を竦めて笑った。
「先輩のアレは今に始まった事じゃないって事っす。ウチの同期が、その見えない毒牙に何人やられたことか……」
(……職場でも色々やらかしてるのかぁ)
頭の中で、お姉ちゃんが無自覚に人を勘違いさせている光景がいくつも浮かぶ。
細かいところに気は利くのに、自分への好意だけには驚くほど鈍感で――ほんと、困ったものだ。
私は、話を本題へと進めることにした。
「とりあえず、本題です。小森さん……本気でお姉ちゃんを……?」
言いかけて、ちょっとだけ言葉を飲み込む。
正面から聞くのは失礼かな、とも思ったが、ここで確認しないと何も始まらない。
小森さんは、ぱっと顔を赤くして、もじもじと両手の人差し指をつんつんと合わせた。
「……言葉にするのは、恥ずかしいですけど……ひっ、一目惚れと言いますか……何というか……」
耳まで真っ赤になっていて、見ているこちらがむず痒くなるレベルだ。
こういう反応を「純真無垢」と言うのだろう。汚れを知らない感じが眩しすぎる。
「あんな美人にピンチを助けられたら、コロって落ちるのも分かるっす」
七海さんが、やれやれと肩をすくめるように言った。
「ウチもヤバいミスやらかした時に颯爽と助けて貰って、『新人がミスをするのは当たり前。それを助けて、メンタルケアするのが先輩の役目。だから気にしないで』なんて、頭撫でられながら言われて……。もう……胸に矢が刺さったかのような感じだったっす」
「それは落ちるね。断言できちゃうね……」
私の口から、自然とため息混じりの同意が漏れた。
そんなセリフ、家では一度も聞いたことがない。仕事モードのお姉ちゃん、恐るべし。
ふと気づくと、小森さんと七海さんが、じーっと私のことを見ていた。
(え、嘘……? もしかして私も言わないといけない流れ?)
視線に逃げ場がない。落ち着かなさをごまかそうと、畳の目を数え始めたあたりで――。
「ウチ的には沙耶ちゃんのが一番気になるっす」
「とても気になります……」
刺さるような二つの視線。
決して逃がさない、と意思表示されたみたいで、なんだか背筋がぞわっとする。
(これは……話すまで他の話題に移せないやつだ)
覚悟を決めて、私は昔話を口にした。
「えっと……私の家って、割と田舎にあって、コンビニ行くよりも近くに林や山があるんです」
記憶を辿りながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「私が小学生のころ、近くの林で遊んでたんですけど……楽しくなっちゃって、結構深いところまで行っちゃって。帰り道が分からなくなって、怖くなって、一人で泣いてたんです」
あのときの夕方の空気、湿った土の匂い、心臓の高鳴り――全部、昨日のことみたいに思い出せる。
「日が暮れ始めた頃、物音がしたって思って振り向いたら、『やっと見つけた。ほら、帰るよ』って」
そのときの、お姉ちゃんの声。
汗で髪が頬に貼り付いてて、制服も泥だらけで――きっとあっちこっち走り回って探してくれたのだと思う。
「汗だくで泥だらけで……あっちもこっちも走り回って探してたはずなのに、一切文句言わずに私の手を引いてくれて……」
あのとき見た、お姉ちゃんの背中。
小さかった私は、その背中だけを頼りに、ぎゅっと手を握って必死に歩いた。
「……あの日のお姉ちゃんの背中は、今でも忘れられないんです。お姉ちゃんからすれば些細な出来事だったのかもしれないけど、私からすれば一生忘れることのない、大きな思い出で」
話し終えたとき、部屋の中には少しだけしんとした空気が流れた。
「そうだったんすねぇ……」
七海さんが、しみじみと呟く。
「長年積もって、色んな意味で成長したんすね……」
「七海さん? 何かすっごい意味深に聞こえるんだけど……」
じとっと睨むと、七海さんは「っす――――」と、変な声を漏らして目をそらした。
「七海さんだって、お姉ちゃんと出会って一年とかなのに随分とご立派に……」
「この話はやめとくっす。危険な領域に踏み込みそうっす」
七海さんが慌てて話題を切り替え、小森さんの方へ向き直る。
「小森ちゃんは先輩とどうなりたいんすか? ウチらの様に欲まみれっすか?」
さらっと私も巻き込まれた。抗議したいけれど、まあ、今それは置いておこう。
小森さんは、さらに顔を赤くして俯き、ぎゅっと拳を握った。
「えっと……手を繋いだり、一緒にご飯食べたり、お買い物したり……」
――純粋か!?
私と七海さん、二人同時に心の中で総ツッコミを入れた。
もっとこう、直接的で生々しい願望が飛び出すかと思って身構えていたのに、出てきたのは拍子抜けするほど健全な、「恋人になれたらいいな」レベルの願いだった。
七海さんが、あからさまに肩を落とす。
「もっと、もっと肉欲的なのってないんすか……? 例えばキスしたい~とかっす」
「だっ、駄目ですよっ! そんなことしたら子供が……」
その瞬間――。
私と七海さんは、同時に大きく息を吸い込んでいた。
これは、穢してはいけない。
可能であれば、このままずっと真っ白なままでいてほしい。
そんな考えが、一瞬だけ本気で頭をよぎる。
けれど、現実はそう甘くない。
「沙耶ちゃん、ちょっといいっすか?」
「私も相談しようと思ってました」
私たちは顔を見合わせ、小さく頷き合った。
二人でそっと距離を詰め、小森さんに聞こえないくらいの声量まで落として、正真正銘の「秘密会議」を始める。
「これはどうするべきか……現実を教えるのも可哀そうだし……」
「これはこれで面白くないっすか?」
七海さんが、声を潜めたまま、悪い笑みを浮かべた。
「無知な少女を、ウチらで俗に染めるんす」
「……楽しそうではある。でも、あまりにも純粋すぎて罪悪感がすごい」
私も小声で返す。
ほんの少しだけ、胸の奥がチクッと痛む。
「いいっすか、沙耶ちゃん。この世の中、真っ白でいるには汚れ過ぎてるんすよ」
七海さんは、わざとらしく肩をすくめて続けた。
「いずれ汚れるなら、ウチらが“正しく”汚してあげた方がマシっすよ」
「暴論では……?」
口ではそう言いながらも、私は妙に納得してしまっている自分に気づく。
「でも、お姉ちゃんに惚れちゃったら、他の人なんて早々無理だろうし……悪い人に捕まらないためにも、私たちが俗を教える方がいいかぁ」
「そう来なくちゃっす。同盟のグループ作って、そこに招待するっすね」
小さな握手で、私たちの秘密会議は成立した。
七海さんが小森さんのところへ戻り、互いにスマホを取り出す。
少しして、私のスマホにも「グループに招待されました」と通知が届いた。
グループ名は『後宮』。
(……やっぱり名前からしてアウトじゃない?)
気になってネットで意味を調べてみれば、あながち間違いでもないことが分かってしまうあたりが悔しい。
最初は「お姉ちゃんを独占すること」が全てだと思っていた。
けれど、七海さんと話して「分け合う」という選択肢もあるのだと知った。
少し寂しい気もするけれど――それでも、お姉ちゃんなら皆を等しく、大事にしてくれる。
……そうなるように、こっそり陰で仕込みを続けているのは今のところ内緒だ。
「じゃあ、これからよろしくっす。抜け駆けは厳禁っすよ、特に沙耶ちゃん」
「ぎくっ……。前向きに検討させていただきます」
条件反射で返事してしまった。
私が一番危ない位置にいるのは、自覚があるから何も言い返せない。
「えへへっ、こうやってグループに入るの初めてです!」
小森さんは、スマホの画面を見ながら嬉しそうに身体を揺らした。
「小森ちゃん、もう仲間なんだから敬語じゃなくていいっすよ」
「じゃあ、そうするっ! よろしくね、沙耶ちゃん。七海ちゃん」
ぱあっと花が咲いたような笑顔。
さっきまで怯えていた人と同一人物だとは思えないほど、無防備に笑っている。
(なにこの可愛い生き物……これを穢すのかぁ……)
胸の奥が、また少しだけチクリと痛んだ。
「よろしくね、小森さん」
「よろしくっす!」
七海さんも、にかっと笑って拳を突き出す。
小森さんはそれに戸惑いながらも、こつんと拳を合わせていた。
「あ、そういえば小森ちゃんって何歳っすか? 十八歳とかっすか?」
「それは私も気になってました」
小柄であどけなくて、世の中の穢れを全く知らなそうな天真爛漫さ――。
私と七海さんの間くらいかな、と勝手に思っていたのだが。
小森さんは「よく言われるんだけど……」と前置きしてから、財布を取り出す。
そこから、ぺりっと何かを抜き出して、私たちに見せながら言った。
「今年で二十三歳になります……」
差し出されたのは、免許証。
写真に写っているのは、ほんの少しだけ髪型が違う、今と全く変わらない小森愛だった。
和室に、私と七海さんの驚きの声が、見事なハモりで響き渡った。
「「二十三歳!?」」