※十話目、続き
⚠️今回は、流血等グロテスクな表現、若干の戦争表現を含みます。苦手な方は読まないことをお勧めします。(今回割とガチで注意です)
※少しばかり時間軸が飛んでいますが、前回の続きであることに変わりはありません。
ただ、三人で楽しく話しながら歩いているだけのはずだった。
会話の途中のアメリカの何気ない一言が、膨大な時間と量とで構成されているロシア自身の過去の記憶の波の中に、ロシアを、無情にも突き落とした。
そこから浮上するには、あまりにも身体が重すぎて───
ひび割れた壁。散乱する窓ガラスの破片。切れたままの蛍光灯。粉々になったコンクリートの小さな山々。
その間を埋め尽くす、人、人、人。
足の踏み場もないほどの廊下。
怪我をしていないものは一人もいなかった。
ほとんどが、埃に塗れて破れたぼろぼろの、衣服と呼ぶのがはばかられるような代物を着ていた。
その時、一人が呼ばれてよろよろと立ち上がった。と、今まで彼が座っていたそこの白い床に、赤く、血溜まりができていた。すぐに白っぽい看護服のようなものを着た他の一人が駆けつけ、彼を支えるようにして歩き出す。しかし床のその血が乾かぬうちに、また一人、新しく来た者がそこに座り込んだ。身なりは周りと同様だった。
埃っぽいこの空間には、幾重もの呻き声が、か細く、遠く、響いていた。
およそ病院とは言えない場所。衛生状態など最悪だった。見ればわかる。ひび割れた壁。散乱する窓ガラスの破片。切れたままの蛍光灯。粉々になったコンクリートの小さな山々。病院としてあるまじき光景。ベッドが足りないのは、廊下にまで溢れかえっている怪我人・病人を見れば一目瞭然だった。
しかし、ここが病院なのだ。なんとか外壁を保ち、雀の涙ほどの病床があり、形だけの医療器具が少しばかり残っている。使えるかどうかは別として、だ。であるならば、他のところに立つ病院に行けば良いじゃないかと思う者がいるかもしれない。そう思うなら、この建物を出て、外に出てみればいい。すぐに分かる事実が一つだけある。
外は、灰色の世界だった。家屋はことごとく壊され、その内部の鉄筋を晒している。外壁を保っていたとしても、何箇所も穴が開き、今にも崩れそうだ。そんな、不完全の建物が建ち並ぶこの場所。一面の砂埃と、用を為さないコンクリートの塊、白い道……灰色の世界。空だけが抜けるような青色だった。
もう、分かっただろう。他の場所に立つ医療施設も、同じような状態であるだろうということが。
もちろんこの場所に立つ病院も同じような外見だった。ただ、そこが病院という施設であり、なんとか見た目だけでも保てているから皆が集まってくるだけだ。ほとんど稼働できていないことに変わりはない。
空想世界じゃない、現実。
今この文明の発達した世界に、ここまで荒れ果てた土地があって良いものか。
………さん、……………ア…………シ………さん、…………アさん………
なんだこれ。現実か?
見えるものが信じられなくて、呆然と立ち尽くした。
目の前には、怪我をした血まみれの人たち。廊下には足の踏み場もない。密集して座り込んだ人たち、ガラス片、散乱した壁材、その上にさえ座り込んでいる人。
血の匂いが鼻をついた。
彼らの発する呻き声が、常に耳の中に反響している。まるで脳みそにこびりつくような、苦痛をそのまま固めたような声。
目の前に座っている男が、血でべったりと赤く染まった布を右目に押し当てていた。が、すぐにその布が使い物にならなくなったのを知ったのか、新しく白いタオルを取り出して再び目を覆った。それを見て、思わず息を呑んだ。そのタオルは、男の目に押し当てられた途端、すぐに血を吸い始めて赤く染まったのだ。
(一体……一体、どんな怪我をすればあんなに大量の血が………‼︎)
その時、少し遠くから赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。そちらに目をやると、ボロボロの黒い布に身を包んだ若い女がおり、その腕の中に小さな赤ん坊が抱かれていた。
あんなに小さい子が、と思った次の瞬間だった。その赤子が、突然、吐いた。グ、グと喉を鳴らしながら赤茶色かがった液体を大量に吐き戻す。赤子を抱いた女は、少しばかり声を上げ、慌ててその液体を拭き取り始めた。すぐに看護服を着た二人組が人混みを踏み分けるようにやって来て、彼女らのところに座り込んで赤子を診はじめた。
現実とは思えない。こんな酷いことが。文明の発達したこの時代に。戦争は、親父が話していた地獄は、もう、ずっと昔に終わったはずじゃ。
……さん、ロ………アさん、………さん……‼︎
……さっきから、なにも聞こえない。なにも。だって目の前の人たちが、あんなに苦しそうに呻き声をあげてて、それしか聞こえなくて、もう耳は慣れてしまっているはずなのに、ずっと、脳に響いてて、音が絡まってしまった感じで、他の音なんか聞こえなくて、もう、ずっと、ずっと…………
「……………ロシアさん‼︎‼︎‼︎」
ビク、と肩が震えた。恐る恐る声のした方を振り返る。
薄汚れた看護服を着た女が一人、立っていた。手には大量の医療道具を抱えている。包帯がほとんどだった。彼女はロシアを見ると、声を震わせた。
「あ……あの、えと……ロシアさん、ですよね……?お呼びしても、なかなか気づいていただけなかったもので………」
「…………ロシアは、俺です………」
その言葉を聞いた女の顔に、少しばかりの安堵が浮かんだ。
「良かった……」
突然、女は抱えた包帯の山をロシアに押し付けてきた。彼が面食らったのは言うまでもない。
「え、これ………」
「三階。この廊下は通れないので、カウンター脇まで戻ってからそこの階段をご利用ください。廊下を奥まで行った、突き当たりの一室です。部屋の番号は三一◯。六人部屋です。急いで」
「え、ちょ、待ってく……」
「彼から話は聞いています。院長の許可もとってあります。三一◯で彼は待っています。急いでください‼︎」
女看護師はロシアに被せるようにそう言うと、彼に無理矢理その包帯の山を持たせた。そのままロシアを後方に押し戻す。ロシアがなにか言う間もなく、彼女は忙しそうに、手元に残した少量の医療器具と共に目の前の患者の山に突っ込んでいった。
ロシアだけが、その場に取り残された。
しかしこのままここに突っ立っていても埒があかない。ロシアは腹を括り、カウンターまで戻ることにした。………幾重もの呻き声を、背後に聞きながら。
カウンター脇の階段はすぐに見つかった。階段、壁、手すり、その所々に亀裂が走っている。上るのを躊躇しそうになったが、堪えて一段目に足をかけた。その時、一つのロール状に巻かれた包帯が転がり落ちそうになり、ロシアは慌てて抱え直した。
一段上がるごとにギシギシと軋む階段を、なんとか上り終える。なんだか自分が夢遊病者にでもなったような感覚だった。ロシアは、未だ先ほどの光景を信じられずにいた。確かにあの患者らが発する呻き声はもう聞こえていないはずなのに、まだ頭の中にこびりついて離れない。あの目元を怪我した男性は、あの小さな赤子は、どうなったのだろうか、これからどうなってしまうのだろうか。
───これが、本当に今の世界で起きていることなのか。俺が生きる、この世界で。
夢だと思いたい。酷い夢、悪夢をほんのちょっと見ただけであると。しかしあれは……まごうことなき、現実なのだ。
いつしか三階に着いていた。一階とは打って変わって、静寂が満ちている。スタッフも一人もいなかった。ただ、窓ガラスが散乱し、壁も崩れかけていることだけが同じだった。そのただの穴となった壁の窓から、恐ろしく澄んだ青い空がのぞいている。
廊下の奥に向かって歩みを進めると、なにやら腐臭のようなものが鼻をついた。
一瞬であったが、吐き気を催すようなおぞましい臭いだった。顔が歪んでいくのが自分にも分かる。
夢だと思いたい。こんなのを現実だと認めたくない。
でも。
「───夢じゃ、無い、よな…………」
乾いた声が口をついて出た。
ロシアはそう呟くと、目の前の三一◯号室のドアに手をかけた。
……この病室の中にいる、一人の、大切な友人に会うために。
コメント
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相変わらず情景描写が細かい…素敵です ふわふわとした絶望感が伝わってきます