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ヒョンに彼女ができたらしい。
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思考が追いつくまでに、たぶん三秒くらいかかった。
廊下の端っこ、ロッカーの前で、女子たちが笑いながら話してた。
「え、ほんと?あのマネージャーと?」
「あんな優しかったらそりゃそうなるでしょ」って、今さっき。
しかもそれが嘘かほんとか、確認もできないまま、その話題はあっけなく流れていった。
なのに、頭のどこかがずっとその一言をリピートしてる。
「彼女ができたらしい」
「できたらしい」
らしいって何。誰から。いつ。誰と。どこで。
知りたくもないのに、知りたいのが悔しい。
なんでそんなの、今、聞かなきゃいけないんだ。
「……最悪」
吐き捨てるように呟いて、教室に戻る。
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マクヒョンのことが好きだ。
好きっていうのは、友達とかじゃなくて、それよりもうちょっと困る方のやつ。
たぶん叶わないし、言ったらきっと笑われる。だから誰にも言わない。
あの場所だけでいい、って思ってた。
会って、話して、同じ机で、隣で問題を解く。それだけで、十分なはずだった。
ヒョンが好きだって、言わないままでいたのは、こんなふうに傷つかないためだったはずなのに。
・
図書室の窓際。今日はいつもより少し遅れてヒョンが来た。
ブレザーをきちんと着てて、髪の毛も綺麗に整えてある。
なんとなく違和感があったけど、理由は訊けなかった。
「今日って古典のプリント出てた?授業、ほぼ寝てて」
「出てたけど別に配ってないよ。先生が黒板に書いただけ」
「写真とかある?」
「あるけど」
はい、と手渡されたマクヒョンのノートを受け取って、黒板の文字をノートに写してる間、ヒョンはあくび混じりにペンケースをいじってた。
プリントをぱらぱらめくるヒョンの指先を見てしまう。長くて、節があって、綺麗で、ボールペンをくるくる回す癖がある。
ヒョンの横顔はかっこよくて、真面目そうに見えるけど、ちょっとしたことで笑うのが子どもみたいで。
その笑顔を一番近くで見てるのは自分だって思ってた。
いや、今もまだ、そうだって思いたい。
ヒョンが眉間に皺寄せて、英文をじっと読んでる横顔を盗み見る。
好きだな、って思う。何回思っても、飽きることなんてない。
自分の気持ちはずっと変わらないのに。
マクヒョンは違う誰かを好きなんだ、と他人事のように思う。
笑い方も、声のトーンも、仕草も、何にも変わらないのに、あの噂を聞いてから何か嘘みたいに思えてしまう。
写し終わったノートをヒョンに返しながら、気づけば口が勝手に動いてた。
「……ヒョン、彼女できたんでしょ」
書きかけのペンの先が、空中で止まる。
ヒョンが一瞬だけ、黙った。
視線も、こっちを見てなかった。
「……うん。まあ、そんな感じ」
その声はいつも通り静かで、でも少しだけ硬かった。
どうせなら笑ってほしかった。
でも、曖昧に笑わないでほしかった。
「そっか」
自分のノートを閉じる。
ヒョンの手が止まってるのがわかった。
「いつから?」
「先週……くらい?」
「ふーん」
カバンを持って立ち上がった。
ヒョンは「え、どうした?」って言ったけど、背中を向けたまま「ごめん、やっぱ今日眠いから帰る」って言った。
歩きながら、心臓の音がうるさかった。
喉の奥がつまって、何も飲み込めないみたいだった。
・
僕が出ていったあとヒョンは動かなかった。たぶん、まだ座ってる。
でも、そんなことどうでもよかった。
さっきのヒョンの顔が頭から離れなかった。
早く忘れたくて、思い出したくなくて必死だった。
下駄箱までの廊下を早歩きで抜けたころ、背後で名前を呼ばれた。
「ドンヒョガ!」
うそだ、と思った。
信じられなくて反射的に立ち止まったら、マクヒョンが走ってきた。
息を少し切らして、少し怒ったようにこっちを見る。
「帰るだけで、なんでそんな走ってんの」
「……別に」
「眠いなら図書室で寝ればいいじゃん」
「………は?」
「それか俺の家来たら?静かだし、ベッドあるし」
本当に意味がわからなかった。なんでそうなるのか、わからなかった。
でも、ヒョンは真顔で言ってた。じっと僕の顔を見て、そう言った。
「……ほんと、ヒョンって分かってない」
「何が?」
「ぜんぶ。全部分かってないよ」
言いながら自分が情けなくなる。
でもヒョンはそんな自分の顔を見て、また真っ直ぐこう言う。
「じゃあ、教えて」
「……やだ」
「…とりあえず来いよ。なんか甘いもんあるから。チョコ好きだろ」
「…別に、そうでもない」
「嘘つけ。この前家寄ったときめっちゃ食ってたじゃん」
「覚えてないでよ、そういうとこだけ」
「そりゃ覚えてるよ。ドンヒョクの好きなもんとか、全部」
ああ、この人にはもうお手上げだ。
ヒョンの家に向かって歩きながら、何も言えなかった。
さっきよりずっと心臓がうるさくて、息がしづらくて。
たぶん、あの時点でもうわかってた。
ヒョンが誰かの彼氏になったって話を聞いて、泣きたくなったことよりも。
それよりも、
ヒョンが「僕を連れて帰る」って選んだことのほうが、ずっとずっと怖くて、嬉しかった。
・
放課後の空はオレンジに染まりはじめてて、自分はヒョンの隣を歩いてた。
「久しぶりだな、ドンヒョクが家来んの」って笑った声が、ぼんやりと耳に届く。
マクヒョンの部屋。
玄関の鍵を開けた瞬間、ふっと漂ってきたのは、いつか来たときと変わらないあの香りだった。
なんてことない柔軟剤の匂いと、微かに残る香水の気配。
「適当に座ってて、飲み物取ってくる」
ヒョンは黒いリュックを椅子に投げて、リビングに降りていった。
その間にローテーブルの前に座って教科書を出す。
でも、ページを開いたまま全然頭に入ってこなかった。
「アクエリでいい?」
「うん」
隣に腰を下ろすヒョン。
そのとき、シャツのボタンが二つ外れてるのが見えた。
白いシャツの間から見える、しっかりした鎖骨。
制服のときはきちっとしてるのに
今はネクタイもはずしてて、袖も捲ってて、
「……ドンヒョガ?」
「え…、あ、ごめん」
不思議そうなマクヒョンの表情。
「…シャツ、開けてたの?」
「まあ、暑いから。あと家だし」
さらっと言いながら、ペットボトルの蓋を開けてぐいっと飲む。
喉仏が動いて、光の加減でそれがくっきり見えた。
慌てて視線を教科書に戻したけど、残像が脳裏から離れてくれない。
ページをめくる指先が自分のものじゃないみたいな感覚だった。
・
数学の問題を解いてたはずなのに、マクヒョンの手が止まった。
ちらりと横を見るとヒョンのスマホが音もなく震えていた。
画面に浮かんだのは見慣れない、でも知ってる名前。
「……あ、ごめん、ちょっと出る」
ヒョンはすっと立ち上がって、スマホを耳に当てながら部屋を出ていった。
開いたままの教科書を見てたけど集中なんてできなかった。
奥の廊下の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。
特別優しいわけじゃない。かといって、冷たいわけでもない。
誰かに気を遣ってる声だった。
自分には向けられないような声色。
シャーペンを持つ指に力が入らない。
せっかく教えてもらってた問題も、どこまでやったのかもうわからなくなってた。
何分かしてヒョンが戻ってきた。
片手でドアを閉めながら「ごめん」って。
「悪い、長くなった」
「……ううん、大丈夫」
顔を上げずに言った。
ノートのマス目をなぞって、ページをめくるふりをする。
ヒョンは気づいてるのか、気づいてないのか、いつもの調子で隣に座った。
・
またやってしまった、と思った。
今、ヒョンの部屋の空気が確実におかしくなったのは、たぶん自分がまた余計なことを言ったから。
「……彼女いるのに、なんでここに連れてきたの?」
って、言った瞬間にヒョンが少しだけまばたきを遅らせた。
何でそんなこと言うんだよって怪訝な顔をしてる。
「ドンヒョクに来てほしいって思ったから」
ああ、もう。
その言い方がずるい。
それがいちばんずるい。
「……なにそれ」
「なにって」
「ヒョン、ほんとそういうとこある。人の気持ちわかってないくせに」
「わかってるから言ってんだろ」
「うそだ」
悔しくて、ずるくて、顔を伏せる。
「…ドンヒョガ」
マクヒョンの声。
すぐそばで名前を呼ばれると、どうしても顔を上げられなかった。
「拗ねてる?」
「拗ねてない」
「…でも顔に出てる」
「出てないってば」
つい大声を上げてしまった。
「……嘘下手だな」
「やっぱり、ヒョンってひどい」
そう言った自分の声はひどく掠れて、ヒョンが聞き取れたかどうかも分からなかった。
「……そう」
ヒョンの声が、さっきより少しだけ低くなった。
それがどんな感情から来ているのか、自分には分からなかった。
そっとマクヒョンの横顔を盗み見る。まっすぐ前を見ていてやっぱり掴めない。
でも、その瞳の奥がわずかに揺れてるような気がした。
「じゃあさ、」
ヒョンが静かに言った。
次の瞬間、左手を取られた。
そのままヒョンの方に引かれて、バランスを崩して、床に倒れる。
「こうやってほしかった?」
何が起こったのか、理解できなくて
思わず、息が止まった。
顔がすぐ近くにある。
マクヒョンの瞳の奥に、自分の顔が映ってる。
「…お前が俺に見せてくる顔って何?」
「……」
「お前さ、怒ってないふりして、寂しいって顔して、それで『別に』とか言うから、余計……分かんなくなる」
そう苦しそうに呟いたヒョンの目はあまりにも真剣で、揺れてて、何も言えなかった。
なんで、なんでマクヒョンがそんな顔するの。
もう、視線を逸らす余裕なんてなくて、ただ見つめ返すしかなかった。
呼吸のしかたも分からないくらい、ヒョンの顔が近い。
心臓の音が、やけにうるさく響いた。
「ごめん。彼女のこととか、色々。……今日のドンヒョガ見てたら、無理だった」
「なにが、無理……」
「自分が誰を好きなのか、分かんなくなるのが」
そのまま沈黙が落ちた瞬間
ヒョンの唇が、自分の唇のすぐ手前で止まった。
「……していい?」
「……バカ」
それが許可だって、ヒョンはちゃんと分かってた。
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えむ