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てん様のコンテスト作品です。
🍣🐤♀️部門です!
「君の声、君の音」
私の声は小さい。
昔からそうだった。
保育園の頃も、小学校の頃も、中学校の頃も。
「もっと大きい声で言おうね」
「聞こえないよ」
先生や友達は、悪気なくそう言った。
でもそのたびに、喉がギュッと痛くなって、声を出すのが怖くなった。
言葉を飲み込むたびに、私はどんどん小さくなった。
声を失くさない代わりに、声を出さなくなった。
高校に入って、少しは変わると思ってた。
でも、そう簡単じゃなかった。
新しいクラスでも自己紹介はか細くて、担任の先生に「え?」と聞き返された。
周りの子たちがクスクス笑った気がして、私はすぐに座った。
——私なんか、いない方がいいのかも。
だから、せめてもの反抗だった。
吹奏楽部に入ったのは。
私の声を、音にして届けたかった。
言葉じゃなくて、クラリネットの音色でなら。
私の気持ちは音楽にしかできない。
そんな、意地みたいなものだった。
でも現実は厳しくて、部活でも私は目立たない存在だった。
練習はまじめにした。
けど、ソロパートのオーディションには手を挙げられなかった。
「りうら、ちょっと音小さいな」
先輩に言われると、喉が固まって何も言えなかった。
——そうだよ。私、声が小さいんだ。
音楽室を出た帰り道、私は泣きそうになるのをこらえていた。
誰にも見られたくない。
私なんか、ここにいないみたいになれたらいいのに。
その日も、音楽室で基礎練を終えたあと、鞄を抱えて校舎を出た。
校門へ向かう途中。
体育館の方から、ギターの音が聞こえた。
夏の空気はむっと暑いのに、その音は澄んでいた。
乾いた弦の響きなのに、透明だった。
まるで心を覗かれるような、不思議な音。
ふっと、足が止まった。
——誰が弾いてるんだろう。
気づいたら、音のする方へ歩いてた。
体育館脇の窓は少し開いていて、そこから漏れる音が風に流れてきた。
私は窓にそっと近づいた。
ガラス越しに、誰かの背中が見えた。
白いワイシャツ。
背筋を伸ばして座り、真剣な横顔でギターを抱えていた。
指先が弦を押さえるたびに、小さく鳴る擦れる音まで聴こえた。
その人は楽譜を見ていた。
真剣な眼差しで、一音一音を確かめるように。
息を呑んだ。
すごくきれいだ、と思った。
——誰?
その時、彼が顔を上げた。
そして、私と目が合った。
心臓が跳ねた。
「……何してるの」
鋭い声だった。
でも、それは冷たいというより、驚いたみたいで。
私の足がすくんだ。
声を出さなきゃ、謝らなきゃと思ったのに、喉が固まった。
でも、相手は目を細めて観察するように言った。
「……部外者、立ち入り禁止だよ」
言い方はきつかった。
でも、言葉は正論だった。
私はやっとの思いで声を振り絞った。
「……ごめんなさい」
その声はかすれていて、自分でも嫌になるほど小さかった。
でも彼は眉をひそめたけど、ため息をついた。
「……別に、そんな謝ることじゃないけど」
優しいのか冷たいのか、分からなかった。
私は逃げるように窓から離れた。
心臓がバクバクして、走ってしまいそうだった。
でも、走ったら追いかけられそうで、ゆっくりと歩いた。
……恥ずかしい。
声をかけられるだけで固まる自分が情けない。
泣きそうになって俯いた。
その日、家に帰ってもずっとあのギターの音が頭に残った。
乾いていて、でも透明で。
あの人の声みたいだった。
***
次の日。
私は授業中、ぼんやりしていた。
「りうらさん、ここ、読んで」
国語の先生に指名されて、心臓が止まるかと思った。
急いで教科書を開くけど、声が出ない。
「……」
「大きい声で、ね」
先生は悪気なく微笑む。
でも私にはそれが拷問だった。
か細い声で読み上げると、前の席の子がくすっと笑った。
それを聞くたびに、心が小さく折れる音がした。
休み時間。
ノートを閉じて俯く私の机に、誰かが影を落とした。
「……りうらさん、だよね」
声を上げそうになる。
顔を上げると、昨日の人が立っていた。
優等生然とした整った制服姿。
黒縁のメガネをかけて、前髪を少し整えていた。
昨日とは印象が違う。
鋭いというより、きちんとしている。
何より、クラスの女子たちがざわめいた。
「え、ないこ君?」
「話しかけてる……」
彼の名前をその時知った。
ないこ君。
成績優秀で、委員会もしていて。
厳しいけど面倒見がいいって噂だった。
——でも少し、近寄りがたい人だとも。
私は固まったまま俯いた。
すると彼が小さくため息をついた。
「昨日は、悪かった」
顔を上げた。
「いきなりきつく言った。……ごめん」
え、謝られた?
私の心臓が跳ねた。
でも声が出ない。
慌てて、何とか言葉を探す。
「……い、いえ」
それしか出せなかった。
でも、ないこ君は微かに目を細めた。
「声、小さいんだな」
胸がきゅっと痛んだ。
言わないで、って思ったけど、それは無理だった。
でも彼は意地悪そうには笑わなかった。
むしろ真剣な顔だった。
「……あの音楽室、俺の練習場所なんだ」
「……」
「もし、聴きたいなら、来てもいい」
私の目が大きく開いた。
「え」
「ただし、ちゃんと声かけろ。……小さくてもいいから」
そう言って、ないこ君は振り返って行ってしまった。
教室がしんと静まり返った気がした。
周りの女子たちがひそひそ声を立てる。
でも私には何も届かなかった。
ただ、胸の奥で小さな灯がともったような気がした。
私の声を、聴いてもいいって言った人がいた。
放課後。
気づいたら、私はまた体育館の方へ歩いていた。
心臓がドクドク鳴ってた。
逃げたいような、でも会いたいような。
窓から覗くと、彼はギターを抱えていた。
昨日よりも柔らかい顔で、楽譜を見ていた。
私は勇気を出した。
「……ないこ君」
か細い声。
でも聞こえたみたいで、彼が顔を上げた。
そして、ふっと笑った。
「来たな」
私は頷いた。
喉が詰まって、声が出なかった。
でも、彼はそれでいいって顔をした。
「弾くから、聴いてろ」
短くそう言って、ギターをかき鳴らした。
昨日の曲だった。
でも今日は、私のために弾いてくれている気がした。
その音はやっぱり綺麗で、でも不器用で。
私の心を溶かすみたいだった。
涙が出そうになって、慌てて拭った。
ないこ君は、それを見ていた。
でも何も言わなかった。
ただ、弾き続けてくれた。
私の声は小さい。
でも、彼の音は大きかった。
私に届くくらい、大きかった。
その日から、私たちの音楽が始まった。
【第二話】練習と秘密
ないこ君と話すようになったのは、あの日からだった。
と言っても、会話らしい会話なんてできなかった。
私は相変わらず声が小さいし、言葉を探している間に喉が詰まる。
でも、彼はそれを急かさなかった。
放課後になると、私はいつの間にか足を向けていた。
体育館の隅。
日が傾いて、窓から射す光が薄くオレンジに染まる。
埃が舞って、古い木の床がきしむ音がする。
そこが、私たちの場所になった。
私がクラリネットを取り出すと、ないこ君は少しだけ目を細めて言った。
「……吹くのか」
私はコクリと頷いた。
「お前、練習熱心だな」
言葉はぶっきらぼうだけど、どこか優しかった。
でも私の声は小さくて。
「……ないこ君も、だよね」
彼は小さく鼻を鳴らした。
「俺は別に、音楽科でもないし、趣味だし」
そう言いながら、ギターを抱える姿は真剣だった。
私はそっとクラリネットを構えた。
指を添えて、息を吹き込む。
リードが震える音がして、音色が広がる。
最初は私だけで吹いた。
ないこ君は黙って聴いていた。
視線が痛いくらい真っすぐだった。
終わると、小さく「ふー」と息をついた。
「……やっぱり、上手いな」
私は慌てて首を振った。
音楽室では「音が小さい」って言われている。
自信なんか全然ない。
「そんな、こと……ない」
声がかすれる。
目を伏せた私に、ないこ君は少しだけ眉を寄せた。
「お前、声も小さいけど……音も小さいのな」
胸がチクンと痛んだ。
でも、彼はすぐに続けた。
「……でも、嫌いじゃない。むしろ良い」
顔を上げてしまった。
ないこ君は目をそらして、ギターの弦を軽く弾いた。
「俺、うるさい音よりこういう方が好きなんだよ」
私の心臓がドクンと鳴った。
顔が熱くなるのを感じた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
でも、ちゃんと届いたみたいだった。
ないこ君は、目を伏せて頷いた。
***
別の日。
放課後になると、私たちは自然に集まった。
私はクラリネットを、彼はギターを。
楽譜はバラバラ。
でも音を合わせようと頑張った。
「……そのコード、どうやって弾くの?」
初めて私から聞いた質問だった。
ないこ君は、少しだけ驚いた顔をした。
「これか? ……Cメジャー」
ゆっくり指を見せてくれた。
器用な指だった。
ギターを弾く人の指先は、少し硬い。
でも、その指が弦を押さえると優しい音が鳴る。
「すごい……」
私が言うと、彼は鼻を鳴らした。
「大したことない」
「すごい、よ。……私、コード、分からないし」
ないこ君は少し黙って、ギターを置いた。
そして、私のクラリネットをじっと見た。
「……俺も、楽譜は読めない」
その声はいつもより小さかった。
意外だった。
「……え?」
「耳で覚えた。だから、クラシックとかは無理」
真顔だった。
でも、どこか悔しそうで。
「お前みたいに、ちゃんと習ったわけじゃねえし」
私の胸がぎゅっとなった。
ないこ君も、自分を卑下してる。
それが分かってしまった。
私は震える声で言った。
「……でも、すごい」
「何がだよ」
「耳で、覚えたなんて……すごい」
ないこ君は一瞬だけ、目を丸くした。
そして目を逸らした。
「……バカみたいだろ」
「バカじゃない」
私の声は震えていたけど、精一杯だった。
ないこ君はギターを持ち直した。
「……じゃあ合わせるぞ」
「うん」
私たちはもう一度音を合わせた。
彼がコードを鳴らすと、私がメロディを吹いた。
音楽室では合わせられなかったテンポが、自然に合った。
ないこ君がギターを鳴らすたびに、私の息が楽になった。
終わったあと、私たちは黙って座っていた。
汗を拭くふりをしながら、息を整えた。
ないこ君が小さく笑った。
「……お前、もうちょっと声出してみろよ」
私は固まった。
「無理……」
喉がすぐに閉じる。
怖い。
また「聞こえない」って言われるのが怖い。
でもないこ君は真剣だった。
「お前の音、好きだし。声も、聴きたい」
心臓が止まるかと思った。
でも、嬉しかった。
胸が熱くなった。
「……無理、だけど」
震える声でそれだけ言ったら、ないこ君は少し考えるようにギターをいじった。
「……じゃあ、声出す練習もしてみろ」
私が目を見開いた。
「え」
「音を出すのと同じだろ。息吐くんだから」
私は震えた。
でも、彼の言うことは間違ってなかった。
声を出すのは、クラリネットと同じ。
息を吐くこと。
分かってるけど、怖い。
「……無理」
小さな声で言ったら、ないこ君は苦笑した。
「じゃあさ、音だけでもでかくしろ」
私が顔を上げる。
「クラリネットの音。もっと大きく」
私は息を呑んだ。
「できない……」
「できる」
彼は断言した。
そして、真剣に私を見た。
「俺は聴きたい。お前の声も、音も」
私の喉が詰まった。
涙が溜まった。
でも、泣きたくなかった。
だから必死に飲み込んだ。
「……やって、みる」
声は小さいままだったけど、ないこ君は微かに笑った。
「それでいい」
私たちはまた音を出した。
彼のギターがリードして、私のクラリネットがそれを追いかけた。
体育館に響いた音は、夕日に溶けて、私の心を少しだけ溶かした。
***
帰り道。
私たちは並んで歩いた。
無言だったけど、怖くなかった。
風が少し冷たくて、夏が終わる気配がした。
「……明日も来るのか」
ないこ君がぼそっと言った。
私は慌てて頷いた。
「うん」
声はやっぱり小さい。
でも、ないこ君は目を細めて「そうか」と言った。
「俺も来る」
それだけ言って、前を向いた。
私も前を向いた。
少しだけ、足取りが軽くなった。
私の声を、聴いてくれる人がいる。
私の音を、必要だって言ってくれる人がいる。
——だから、私も音を出そう。
怖くても、出してみよう。
空は群青に変わっていた。
校舎の窓が光っていた。
私の胸の奥にも、小さな灯が灯っていた。
そしてまた、明日も。
私たちは音を重ねるんだ。
【第三話】ソロ
秋が近づくと、風が少しずつ冷たくなった。
日が落ちるのが早くなって、体育館もすぐに暗くなる。
でも私たちは相変わらずそこにいた。
放課後。
部活が終わったあと、鞄を抱えて体育館に向かう。
その道は最初は怖かったけど、今は少し嬉しい道になった。
ドアを開けると、先に来ていたないこ君がギターを抱えていた。
譜面を睨む顔は真剣で、思わず立ち止まってしまう。
ギターの弦を弾く指先は、不器用なくらい丁寧だ。
私が「こんばんは」と言うと、彼は「おう」とだけ返す。
声は低いけど、どこか安心する音だった。
「今日はどこまでやる?」
「んー……あの部分、合わせたい」
私が楽譜を示すと、ないこ君は顎を引いた。
「分かった。コードは押さえる。お前はメロディな」
私は頷く。
指が少し震えるけど、深呼吸してからクラリネットを構える。
ないこ君が軽くコードを鳴らした。
私はそれに合わせて息を吹き込む。
震えないように、逃げないように。
最初はうまくいかない。
テンポがずれる。
音がかすれる。
「もう一回」
ないこ君が静かに言う。
イライラしてる声じゃない。
ただ真剣だった。
何度も何度も合わせた。
私が泣きそうになりながらも吹くと、ないこ君はそのたびにコードを鳴らした。
私の音を聴いて、呼吸を合わせてくれた。
ようやく通せたとき。
私の肩から力が抜けた。
「……できた」
小さな声で呟くと、ないこ君は短く笑った。
「だろ」
その声は少しだけ得意げだった。
私も笑ってしまった。
***
その日の帰り道。
風が冷たくて、私たちは制服の袖を引っ張った。
街灯がぼんやりと照らす道を、二人で歩いた。
「……部活、もうすぐ本番だろ」
ないこ君がポツリと言った。
私は少し俯いた。
「……うん」
吹奏楽部では、秋の演奏会が近づいていた。
曲目も決まって、ソロパートも決まっていた。
でも私は、手を挙げなかった。
「お前、ソロやれ」
唐突に言われて、思わず立ち止まった。
「……無理だよ」
喉が詰まった。
あの日、先輩に「りうら、お願いできる?」って言われた。
でも声が出なくて、「私、無理です」って言った。
その時の先輩の「そっか……」って顔が、今でも突き刺さる。
期待してくれてたのに、応えられなかった。
「……無理。できない」
私はか細い声で言った。
ないこ君は黙った。
歩道の縁石を軽く蹴りながら、暗い顔をした。
「……なんでだよ」
低い声。
でも、怒ってるというより悲しそうだった。
「怖いのか」
私は俯いた。
声が出なかった。
「怖いの、か」
私は小さく頷いた。
涙が出そうだった。
でも、泣きたくなくて必死に耐えた。
ないこ君はしばらく黙っていた。
風が吹いて、落ち葉が転がった。
その音だけがやけに大きく聞こえた。
「……だったら、練習しろ」
私は顔を上げた。
ないこ君は真っすぐ私を見ていた。
「怖いなら、できるまでやれ。できるようになるまで」
その目は真剣だった。
強引で、不器用で、でも優しかった。
「……俺、付き合うから」
喉が詰まった。
涙が一気に滲んだ。
俯いて、ごしごしと腕で拭った。
ないこ君は何も言わなかった。
ただ、隣で歩き出した。
私は慌てて追いかけた。
いつもの帰り道が、少しだけ温かかった。
***
次の日から、私たちは「声を出す練習」を始めた。
体育館の隅で。
窓の外のグラウンドはもう暗くて、部活も終わって静かだった。
「ほら、声出せ」
「……無理」
「じゃあ音を出せ」
クラリネットを構える。
息を思い切り吸い込んで、音を鳴らす。
でもすぐにかすれる。
音が小さくなる。
「……もう一回」
ないこ君が低く言う。
私が泣きそうになっても、彼は妥協しなかった。
「怖いなら怖いって言え」
「……怖い」
声が震えた。
でも言えた。
「じゃあ、もっと怖くなれ。逃げんな」
言葉はきつかった。
でも私はその言葉にしがみついた。
声を出すたびに喉が痛くなった。
でもないこ君はその都度ギターを鳴らした。
私の音に合わせてコードを変えた。
私のテンポに合わせた。
泣きそうになって、息が止まりそうになったとき、彼が小さく言った。
「お前の音は、いい音だ」
涙が零れた。
でも、止めなかった。
クラリネットを抱えて、何度も息を吹いた。
「いい音だって言ってんだろ」
声が掠れても、音が震えても。
ないこ君はずっとギターを弾いていた。
合わせてくれた。
音楽室では聞けなかった自分の音が、少しずつ体育館に広がった。
それが嬉しかった。
泣きながら笑った。
***
ある日、私たちはいつもより遅くまで練習してしまった。
体育館を出たとき、もう真っ暗だった。
空気が冷たくて、秋の匂いがした。
「……帰るか」
ないこ君が言った。
私は「うん」と頷いた。
帰り道を歩き出す。
ないこ君がギターを背負いながら、ぽつりと呟いた。
「……なんで声、小さいんだ?」
私は少し驚いた。
でも、彼の声は責める声じゃなかった。
知りたがっている声だった。
「……小さい頃から」
自分でもびっくりするくらい小さな声が出た。
でも、続けた。
「話すと、……『聞こえない』って言われて。……怖くなって」
ないこ君は黙っていた。
私の声を最後まで聴いてくれた。
「だから、音楽なら……伝えられると思った」
喉が震えた。
泣きそうになった。
ないこ君が立ち止まった。
私も立ち止まった。
街灯の下で、彼が私を見た。
「……クラリネット、続けろよ」
私は目を見開いた。
「お前の音、好きだから」
涙が溢れた。
止まらなかった。
でも、私も言わなきゃと思った。
「……ないこ君の、ギターも……好き」
喉が詰まった。
でも絞り出した。
「下手でも、……不器用でも、……好き」
ないこ君の目が少し見開かれた。
そして小さく笑った。
「お前、正直だな」
私は泣きながら笑った。
涙を拭いて、前を向いた。
「……明日も、練習しよう」
ないこ君が少しだけ照れくさそうに頷いた。
「おう」
秋の風が吹いて、私の髪を揺らした。
冷たいけど、心は温かかった。
私の声は小さいけど。
ないこ君はちゃんと聴いてくれた。
それが、何より嬉しかった。
そして私は決めた。
——次は、ソロを吹くんだ。
——怖くても、逃げない。
ないこ君と一緒に、私の音を作るんだ。
誰かに「聞こえない」って言われてもいい。
でも、私の音色を届けたい。
そのために、明日も練習しよう。
何度でも、何度でも。
私とないこ君の、音を重ねよう。
【第四話】約束の音
朝夕の風が冷たくなってきた。
街路樹は赤や黄色に染まって、落ち葉が風に舞う。
高校の校舎にも秋の匂いが染み込んでいた。
秋の演奏会が近づくにつれて、吹奏楽部は忙しくなった。
パート練習が増え、セクション練習も長くなった。
先生や先輩の指示も厳しくなった。
「りうら、もっと音量出して」
先輩の声に肩を震わせた。
私のクラリネットは小さい音しか出せない。
頑張っても、喉がすぐに詰まる。
「聞こえない」って言われるのが怖くて、無意識に息を絞ってしまう。
何度も息を吸い込むけど、音はか細い。
周りの音にかき消される。
私は俯いて、先輩の視線から逃げた。
「……ごめんなさい」
先輩はため息をついた。
でも何も言わなかった。
その沈黙が、いちばん痛かった。
***
放課後。
私はクラリネットを抱えて、ゆっくりと体育館へ歩いた。
ないこ君との約束の場所。
でも、今日は足取りが重かった。
体育館のドアを押す手が震えた。
中にはもう、ないこ君がいた。
ギターを抱えて、譜面を眺めていた。
私が入ると、顔を上げた。
「遅かったな」
低い声。
でも、いつもと同じだった。
私は小さく首を振った。
「……ごめん」
ないこ君は私をじっと見た。
その視線が痛いくらい真剣で、胸が苦しくなった。
「部活、どうだった」
私は答えられなかった。
喉が詰まって、声が出なかった。
涙が出そうで、俯いた。
「……言えよ」
ないこ君の声は少し荒かった。
でも、怒ってるというより、必死だった。
「言えよ、りうら」
名前を呼ばれて、ビクッとした。
でも、それが引き金になった。
「……怒られた」
かすれた声が出た。
ないこ君は黙って聴いていた。
「音が……小さいって……」
涙が零れた。
慌てて拭ったけど、止まらなかった。
「……また……できなかった」
声が震えた。
喉が詰まって、息が乱れた。
なのに、止まらなかった。
「……怖いの」
それを言った瞬間、もう声が出なくなった。
ただ、泣く音だけが響いた。
体育館の隅。
夕日が差し込んで、埃が舞っていた。
ないこ君は黙ったままだった。
ギターを抱えたまま、私を見ていた。
しばらくして、ゆっくり立ち上がった。
そして、私の前に来た。
ギターを床に置いた。
私の頭をそっと撫でた。
驚いて顔を上げた。
涙で滲んで、ないこ君の顔が歪んだ。
ないこ君は真顔だった。
でも目が少し赤く見えた。
「……泣くな」
その声は震えていた。
「泣くなって、言ってんだろ」
泣くな、なんて言われても無理だった。
でも、その言葉が優しくて、もっと泣けた。
声を殺して泣いた。
ないこ君は撫で続けた。
優しく、でも不器用に。
***
少し泣いて落ち着いたあと。
私たちは並んで体育館の床に座った。
外はもう真っ暗だった。
窓の外の街灯がぼんやり光っていた。
ないこ君が小さく咳払いした。
「……お前」
私は黙って彼を見た。
「怖いの、当たり前だろ」
意外な言葉だった。
「俺だって、怖いし」
私は目を見開いた。
ないこ君はギターを撫でるように触った。
「弾くの怖いぞ。下手だって思われるし、笑われるし」
その声は低くて、いつもより柔らかかった。
「でも、やるしかねえだろ」
私の喉が詰まった。
涙がまた滲んだ。
「だって、弾きてえんだよ。お前も、吹きてえんだろ」
私は小さく頷いた。
声が出なかった。
でも必死に頷いた。
「だったら、やろうぜ」
ないこ君の声は震えなかった。
真っすぐだった。
「怖いのは、やるからだ。やりたいからだ」
私は手で顔を覆った。
泣き声が漏れた。
でも、ないこ君は何も言わなかった。
ただ隣で座ってくれていた。
***
泣き止んだあと、私は小さな声で言った。
「……ありがとう」
ないこ君は鼻を鳴らした。
「礼なんかいらねえ」
私は少し笑った。
まだ涙の跡が頬を濡らしていた。
「……ソロ、やる」
ないこ君がピタリと動きを止めた。
私を見た。
目が驚いていた。
「……本気か」
私は小さく頷いた。
声が震えたけど、絞り出した。
「怖いけど、やる」
ないこ君はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……やっとその気になったか」
私は顔を伏せた。
恥ずかしかった。
でも、嬉しかった。
「練習、付き合えよ」
私が言うと、ないこ君は当然だろと言わんばかりに頷いた。
「当たり前だ」
私は泣きそうになりながら、笑った。
喉が少しだけ軽くなった気がした。
***
次の日から、私たちはソロの練習を始めた。
放課後、部活が終わったあと。
私は体育館に駆け込む。
ないこ君はもう先に来ていた。
「今日はどこからやる」
「この部分が難しい」
「分かった。合わせる」
私が吹いて、ないこ君がコードを鳴らす。
息が乱れるたびに、ないこ君は「もう一回」と言った。
疲れて座り込むと、ペットボトルを投げてよこした。
「水飲め。休め。……でも次もやるぞ」
厳しいけど、優しかった。
私のペースを分かってくれていた。
無理はさせないけど、甘やかさなかった。
泣きそうになったことも何度もあった。
音が出なくて喉が詰まった。
それでも「泣くな」と言ってくれた。
泣いても待ってくれた。
ないこ君のギターは不器用だった。
でも私のテンポに合わせてくれた。
コードを変えるたびに、小さな音が体育館に広がった。
私はその音に支えられた。
怖さが消えたわけじゃない。
でも、声を出すのが少しずつ平気になった。
「もう一回」
「……うん」
小さな声。
でもはっきりとした声で返事した。
ないこ君は少しだけ笑った。
「良い声だな」
私は耳まで赤くなった。
でも、嬉しかった。
***
演奏会の前日。
放課後の体育館。
私たちは最後の練習をしていた。
「……本番、怖いか」
ないこ君がギターを置いて、真剣な顔で聞いた。
私は少し考えてから、小さく頷いた。
「……うん。怖い」
ないこ君は鼻を鳴らした。
「そっか」
私は喉が詰まったけど、でも続けた。
「……でも、やる」
ないこ君が目を細めた。
そして、短く笑った。
「よし。……絶対やれ」
「うん」
私たちは楽器を持ち直した。
体育館に私のクラリネットが響く。
ないこ君のギターがコードを合わせる。
音が重なる。
私たちだけの音楽がそこにあった。
その音は、怖さを少しだけ溶かしてくれた。
明日、本番。
声が出なくても、音が震えても。
私は吹く。
ないこ君と約束したから。
私の音を、届けたい。
私の声を、聴かせたい。
——そして、私はきっと、ちゃんと吹く。
【第五話】君の声、君の音色
当日、空は晴れていた。
秋の青空は高く澄んでいて、風は少し冷たいけれど心地よかった。
学校の体育館の外観はくすんだままだけど、今日は横断幕が張られていて、「定期演奏会」の文字が大きく揺れていた。
早めに来たつもりだったけど、部室はもう人でいっぱいだった。
楽器ケースが所狭しと並んでいて、緊張した顔の後輩たちや、笑い合う先輩たち。
その空気に飲まれそうになって、私は入口で立ち止まった。
「……大丈夫」
喉が詰まった。
深呼吸してみたけれど、胸の奥はざわついたままだった。
指先が冷たくなって、クラリネットケースを握る手に力が入った。
先輩が「りうら、こっち!」と呼んだ。
思わずビクッとなったけれど、小さく返事をした。
「……はい」
声はかすれていた。
でも、出た。
それだけで少しホッとした。
***
ゲネプロ(リハーサル)が始まった。
全体で並んでチューニングを合わせて、指揮の先生の合図を待つ。
「じゃあ、ソロのところ、りうら。入れる?」
先生が穏やかに言った。
その言葉に心臓が跳ねた。
「……はい」
震える声。
でも、言えた。
周りの視線を感じた。
同じクラリネットパートの先輩たちが、不安そうに、でも応援するように見ていた。
楽譜を睨む。
息を吸う。
指が震える。
怖い。
逃げたい。
——でも、思い出す。
『怖いなら、できるまでやれ。できるようになるまで』
『俺、付き合うから』
ないこ君の声が頭の中に響いた。
あの体育館で、何度も泣きながら吹いた自分。
それを黙って待ってくれた彼。
無理やり声を出させようとしてくれた彼。
「お前の音が好きだ」と言ってくれた彼。
私の喉が鳴った。
息を吸った。
——吹く。
リードが震える音がした。
か細くても、確かに音が出た。
メロディが、ホールに広がった。
みんなの音が消えて、自分だけの音になった。
体育館で何度もやった、あの音。
ないこ君と合わせた、あのフレーズ。
終わった。
息を吐く。
少しだけ頭がクラクラした。
シーンと静まり返ったあと、先生が短く頷いた。
「良い。通しのときもそのままな」
それだけで涙が出そうになった。
私は楽器を抱きしめるようにして頷いた。
***
本番前の時間。
私は廊下の隅でケースを開けていた。
手が震えるたびに、膝の上に置いたハンカチを握りしめた。
緊張で胃がきりきり痛む。
そんなとき、スマホが震えた。
メッセージが来ていた。
送り主は「ないこ」。
《吹け。聴いてやる》
たったそれだけ。
でも、指が止まった。
涙が零れそうになった。
震える指で返信を打つ。
《聴いてて。ちゃんと吹く》
送ってから、深呼吸した。
涙を拭って立ち上がった。
「……行こう」
小さい声だったけど、はっきり聞こえた。
誰もいない廊下に、自分の声が響いた。
***
開演のベルが鳴った。
体育館は満員だった。
生徒や保護者、先生たち。
ステージの上は照明が熱かった。
司会が曲目を紹介する声が遠くで響いていた。
指揮の先生が立ち上がって、タクトを構えた。
隣のパートの先輩が小さく「大丈夫?」と囁いた。
私は震えながら頷いた。
「……大丈夫、です」
本当に大丈夫なんて分からなかった。
でも、言葉にしたかった。
先生がタクトを振り下ろした。
全員が一斉に息を吸う。
音楽が始まった。
冒頭は堂々としたマーチ。
ホールに管楽器の音が反響する。
低音が支えて、トランペットが鋭く飛び込む。
打楽器がリズムを刻む。
私は指を震わせながらクラリネットを吹いた。
でも、音は出た。
練習よりも大きく、真っ直ぐに。
そして、ソロの部分が近づいた。
息が詰まった。
喉が絞まる。
指が冷たくなる。
——怖い。
その瞬間、思い出した。
『お前の音、好きだし。声も、聴きたい』
ないこ君の声が頭の中で響いた。
体育館の夕日を思い出した。
埃が舞う中で、何度も音を合わせた。
泣きながら練習した。
——私は、吹ける。
息を吸った。
肺が痛くなるくらい吸った。
喉が鳴った。
吹く。
リードが鳴った。
音が震えた。
でも、消えなかった。
ホールに私の音が広がった。
頭が真っ白になった。
でも指は勝手に動いた。
何度も何度も練習した通りに。
ないこ君のギターのコードを思い出した。
あの音に合わせた自分の音。
耳の奥に、ないこ君が「もう一回」と言う声が聴こえた。
息が尽きるまで吹いた。
最後の音がホールに響いた。
残響が静かに溶けた。
その瞬間、視界が滲んだ。
でも、息を吐いた。
音を出し切った。
私は吹けた。
私の音を、出せた。
***
演奏が終わったあと、控室に戻ると先輩たちが駆け寄ってきた。
「りうら、めっちゃ良かったじゃん!」
「ソロ、めっちゃ響いてたよ!」
声をかけられるたびに胸が詰まった。
どう返事をしていいか分からなくて、泣きそうになった。
「……ありがとう、ございます」
喉が震えた。
でも、声は出た。
先輩たちが笑って、頭を撫でてくれた。
スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、「ないこ」からメッセージが届いていた。
《吹けたな》
それだけ。
それだけなのに、視界が滲んだ。
震える指で返信を打つ。
《聴こえた?》
すぐに返事が来た。
《聴いた。良かった》
声を出して泣きそうになった。
でも必死に堪えた。
《ありがとう》
何度も画面を見つめた。
文字が滲んで見えなくなった。
***
帰り道。
もう日が落ちて、街灯が灯っていた。
風は冷たくて、マフラーが欲しくなるくらいだった。
校門を出たところで、誰かが立っていた。
ギターケースを背負った、長身の影。
ないこ君だった。
私を見つけて、少しだけ眉を上げた。
「……おう」
それだけ。
それなのに、泣きそうになった。
「……来てたの」
声が震えた。
ないこ君は小さく鼻を鳴らした。
「聴くって言っただろ」
それだけ言って、前を向いた。
私も前を向いた。
並んで歩き出した。
風が冷たかった。
でも、心は温かかった。
「……怖かった」
私が絞り出すように言った。
ないこ君は何も言わなかった。
「でも、吹けた」
それを聞いたないこ君は、少しだけ目を細めた。
「……そうか」
声が低くて、優しかった。
私の喉が詰まった。
でも、泣かなかった。
「……ありがとう」
小さな声。
でも、はっきり言った。
ないこ君は前を向いたまま、短く答えた。
「礼なんかいらねえ」
でも、その声もまた優しかった。
私たちは並んで歩いた。
街灯の下を、ゆっくりと歩いた。
風が髪を揺らした。
心臓がドクドク鳴っていた。
喉が震えた。
でも、私は言いたかった。
「……ないこ君」
呼んだ声は小さかったけど、しっかり響いた。
ないこ君が振り向いた。
私は顔を赤くして、でも目を逸らさなかった。
「……私、もっと上手くなる」
ないこ君は少しだけ目を見開いて、それから笑った。
短く、でも確かに笑った。
「当たり前だ」
その声が、私の胸を熱くした。
怖くても、逃げないって決めた。
私の音を出すって決めた。
私の声を、私の音色を。
届けるって決めた。
——聴いていて。
——これからも。
ないこ君と並んで歩く道を、私はまっすぐ前を向いた。
【作者あとがき】
「君の声、君の音色」をここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この物語は、音楽を媒介にして「声を出すこと」「自分を表現すること」の怖さと向き合う女の子と、それを不器用に支える男の子の話として書きました。
りうらは、自分の声が小さいことを気にして、音を出すのを怖がっています。
誰かに「聞こえない」と言われる恐怖、期待されて答えられない罪悪感。
そういうものを抱えた彼女が、優等生だけどぶっきらぼうなないこ君に出会い、音楽を通して少しずつ「声を出す」ことを学んでいきます。
ないこ君は、成績も良くて責任感もある優等生だけれど、人との距離の取り方は下手だし、言葉もぶっきらぼう。
でも誰よりも真剣で、嘘をつかない。
「お前の音が好きだ」と、シンプルだけど真剣に伝えられる強さを持っています。
彼がりうらに「泣くな」「もう一回」と言い続けたのは、甘やかさではなく、彼なりの信頼の形です。
私自身、この物語を書きながら「声を出す」ということをたくさん考えました。
声を出すのは怖い。
自分の考えを言葉にするのは怖い。
でも、誰かがちゃんと聴いてくれるなら、勇気を出してみたい。
そんな気持ちを思い出しながら書きました。
最終話でりうらがソロを吹けたのは、ないこ君がいたから。
でもそれだけじゃなくて、彼に背中を押された自分自身が決めたことだから。
怖さは消えないけど、そのままでいいから吹こう。
声を出そう。
その決意を大事にしたくて、ラストまで書き切りました。
そして最後に、ないこ君がちゃんとりうらの音を聴いて「良かった」と伝えることで、二人の音楽が完成する。
この作品は、二人だけのデュエットのような物語だと考えています。
私はこの二人がとても好きです。
泣き虫で声が小さいけれど芯は強いりうら。
不器用で優等生で、でも本当に優しいないこ君。
彼らがこれからも、それぞれの音を大事にして成長してくれることを願っています。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。
りうらとないこの「声」と「音色」が、少しでもあなたの胸に届いたのなら、作者としてこれ以上の幸せはありません。
コメント
5件
初めまして!!コンテスト参加ありがとうございます🥹💕 めっちゃ好きです😭✨ 🐤チャンが吹けなくて泣いちゃった時や 怖くなった時とかに🍣クンが支えててあげてるの本当に好きです🥲💞 本当に参加ありがとうございました♪結果発表お待ちください‼️
深い...なんというか深い...