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吉本(よしもと)直見(なおみ)にとって、井口勝彦は、いい金づるだった。
三十四歳の誕生日を、勝彦は店を貸し切って派手に祝ってくれた。ブランドバッグも買ってくれ……子どもが二人いると聞いている。羽振りのよさは疑問ではあったが、さりとて、直見が勝彦の好意を受け取らぬ理由にはならなかった。
三十路を過ぎた辺りから、一気に、女としての市場価値が落ちたように思えた。マッチングアプリや結婚相談所のサイトに頼っても、声をかけられる率が格段に落ちたのだ。世間は正直だなあ、と直見は思う。
三十一になると、諦めに入った。そんなときに勝彦に誘われたのだ。
勝彦は、直見の勤める会社に出入りする営業だった。事務を担当する直見は、勝彦と話すことはあった。
自慢ではないが、直見は、自分が美人の類に属することを自負している。ところが三十路を過ぎた辺りから合コンに誘われることもなくなり、鬱屈していた。吐き出す相手が欲しかった。
誘われた晩に、関係を結んだ。指輪をしており、また時々会話もするから、勝彦に家庭がおり、子どもがいることも知っていたが、だからなんだと言うのだ、と直見は思った。
ベッドでの勝彦は相変わらず独善的で自己中心的であったが、久しぶりに男に貫かれ、不平不満よりも、満たされた快感のほうが勝った。抱いてくれるのなら別に誰でもよかった。
『失楽園』が直見の愛読書だと知ると、勝彦は直見の住むアパートの近くにマンションの部屋を借りた。そんなことしなくても、と直見は思ったのだが、そこで同棲ごっこをするのが、なによりも勝彦は楽しみなようであった。
冷えた部屋をあたためておき、勝彦の帰りを待つ。滞在時間は二時間程度。最初はラブホテルで愛し合うことも多かったが、費用の面を考えるとせっかくなのだからその賃貸マンションで過ごすほうが効率的に思えた。
直見は妊娠したくはなかったので、必ず勝彦にコンドームを着用させた。
勝彦と結ばれて以来、明らかに肌の調子がよくなった。『最近つやつやしてるけどどうした?』と職場の人間に言われることもあった。その場面に勝彦が居合わせても、彼は、他人事のように、「そうだね吉本さん綺麗だね!」と言ってのけた。
とはいえ、勝彦とて二児の父である。月額いくらまでと決めているのか、月末になると出し渋りをするようになった。月初ならなんでもホイホイ買ってくれるのに。その落差が、直見には面白かった。
勝彦との不倫関係が三年を経過した、四月の中旬を迎えたある日。ベッドのうえに陳列した、勝彦から貰ったブランドバッグたちを見ながらコンビニで買ったおでんを食べていると、玄関戸が叩かれた。
「なおちん。なおちゃーん! 開けてくれぇええーー!」
激しくドアを叩かれ、直見は困惑した。「なぁに?」
直見にとってこのアパートは聖域だ。勝彦であれど汚す権利はない。ここは、勝彦の不倫相手でもなんでもなく、ただの吉本直見でいられる、大切な場所なのだ。
実を言うと、貸しマンションの件で、直見は勝彦を疎ましく感じ始めていた。ただでさえ、自分と自分の住まいのメンテナンスで大変だというのに。家事の一切を出来ない勝彦は、勝彦が借りた部屋の掃除を直見がしていてもなにもせず、スマホをいじるだけで――結婚に対する憧れがいまだ残る直見にとって、疑似結婚ごっこはそれなりに楽しくはあれど、そろそろ迷惑に感じ始めていたのは事実だった。
仕方がなく、直見は玄関に向かう。彼の喜びそうな上ずった声を作り、「どしたのー。かっちゃんなんかあったぁー?」
ドアを開いた勝彦は、つい先ほど会ったばかりだというのに、別人のような醜い男に生まれ変わっていた。眉間に皺が刻まれ、頬はたるみ、――セックスだけをするならば大して顔など見やしなかったが。改めて明かりの下で勝彦という男を見てみると、年相応に老けた、中年の親父だった。こんな男のどこがよかったのよと、過去の自分をどやしてやりたい気分だった。
「大変なことに……なった。妻が、妻が……」勝彦の顔には茶色い液体の跳ね返りがとんでおり、ソースかなにかのようだった。よく見ればスーツもところどころ汚れている。「妻が――出て行ったんだ! 娘と息子を連れて……!」
――ああそう。
ひどく、直見は、呆れた。だからといって、なにしにここに。
ここに来れば、不倫相手である直見が助けてくれるでも思っているのか。
馬鹿にしやがって。他人がいつでもどんなときも自分の味方をすると思い込んでいる、おめでたい思考の持ち主が!
頭のなかで勝彦を罵倒し、現実では努めて冷静に、切り返す。
「それで、……かっちゃんは、どうしてここに?」
「飯が、ねえんだよ……それから着替えも! な! 頼むなおちん! うちに来て――うちに来て、おれと一緒に暮らさねえか! なおちんにとっても悪い話じゃないだろ? んなきたねえとこでひとりで寂しく暮らすより、おれと一緒のほうが絶対楽しいだろ! うちの分譲マンション、すっげえ綺麗だから! なおちん絶対喜ぶよ!」
――この男は、気が触れたのか。
勝彦のなかを巣くう、徹底的な自己中心主義に吐き気をもよおす。――嘘だろこいつ。てめえの浮気が原因で妻子に逃げられておいて、挙句、その住まいに浮気相手を呼び込もうとしているとは。呆れて、声が、出ない。
もう、直見には分かっていた。勝彦が欲しいのは直見という存在ではない。自分の身の回りの世話をする家政婦、それから、性的な欲求を満たしてくれる娼婦――なのだ。
改めて直見は勝彦の普段の姿を思い返す。ワイシャツの襟が常に綺麗で、黄ばんでいるのを見たことがない。直見も仕事でワイシャツを着用するから、あれのメンテナンスがどれだけ大変なのかを知っている。――洗面所でワイシャツの襟をたわしで擦るときに、ふと、顔も見たことのない勝彦の妻のことが思いだされる。そのときだけ、直見のなかに罪悪感が沸いた。
そもそも、誘ってきたのは勝彦のほうなのだ。自分はなにも悪いことはしていない。いまこそ――不倫野郎に天誅を。
腕組みをほどかず、かつ、部屋に勝彦を招き入れることもなく、直見は笑った。「ねえかっちゃん……。そんな都合のいい女、いまどきいると思う……?
バレたのよ。奥さん、かっちゃんの不倫を、知っちゃったのね。だから思い切って出て行った……それは英断だと思うわ。あたしは」
事件を起こした張本人なのに、名探偵を気取る自分が滑稽だった。
「諦めなさい。かっちゃん。かっちゃんが欲しいのは、ワイシャツも家のなかもいつも綺麗にぴかぴかにしてくれるひと、なんでしょう? あたしという存在ではない。かっちゃんは、なおのことなんか愛していない――」
「う、そだろ。なおちん。なおちん! ぼくちんのこと、なおちんは好きじゃないのぉ? ぼくちん、なおちんに捨てられたらいったいどうやって生きていけばいいんだよー!」
年甲斐もなくおいおいと泣き出す。この手に釣られてはならない、と冷静なほうの直見が勝彦を突き放す。
「知らないわ。自分で考えなさい」床にうずくまる勝彦を直見は足蹴にし、「さよなら。かっちゃん。今後一切あなたと関わるつもりはないわ。自分の問題は自分で片づけなさい。
二度と、ここには、来ないで。来たら警察を呼ぶから。――消えろ。クソじじい!」
思い切り蹴り飛ばし、玄関から追い出してドアを閉めるとおいおいと勝彦が泣いた。――なおちん! なおちーん! ぼくちんはなおちんを愛しているんだよぉーう!
近所迷惑なので警察を呼んだ。鉄は熱いうちに打て。参考人として直見も事情は聞かれはしたが、警察の人間は、直見に同情的だった。無論、勝彦との関係など、警察には言うはずがない。妻子がいるにも関わらず、ストーカー行為に及んだ犯罪者、というレッテルが勝彦には貼られた。
直見が部外者でいられたのはこの日が最後である。
休日はゆっくり起きると決めているのに、直見は知人からの電話で起こされた。
「なおちゃん、ちょっと大変なことになってるから! URL送る!」
知人から送られたメッセで確認したURLには、――ホテルに入る勝彦と、自分の画像が投稿されていた。
その画像はしっかりとらえている。勝彦が笑みを送り、それから直見の腰に手を回す姿を。
一方で見つめ返す直見の目にも熱っぽいものが宿っており、それが、合意の元での行動だというのが、たった一様の写真からも読み取れる。
更に悪いことに、写真にはコメントがついていた。
『井口勝彦(43)
吉本直見(34)
井口勝彦は二児の父で、吉本直見は既婚者を食い物にする悪女!
不倫カップルに天誅を!』
その掲示板には1000件を超えるコメントがついていた。
『不倫女は死ね!』
『あれ、こいつ知ってる』
『うちのコンビニによく来るやつだ』
『うっそこのふたりよく来るよ! うちの店』
『なにそれどこ』
『K県Y市H区……』
『住所特定! 表札があるんだけど!』
壁に、『不倫野郎は死ね』とスプレーで落書きをされたのを撮影した画像が貼り付けられているのを見て、直見は戦慄した。「……嘘でしょう!?」
パジャマ姿のまま反射的に部屋を出た。仕事の速いやつらだ。既に、直見の住む部屋のドアには外から落書きがされており、罵詈雑言がスプレーで吹きつけられているの以外に、生卵が投げつけられていたり、新聞受けには使用済みの避妊具まで詰め込まれている。使用済みのそれを見て直見は吐きそうになった。――こんな。
「んな、アホな……」
試しに下まで降りて郵便受けを見てみるとごみでいっぱいだ。濡れたディルドには『オナニー頑張って! 直見ビッチ!』とまで書かれていた。
携帯の着信も通知も恐ろしいことになっていた。試しに、とSNSで自分の名前を検索すると恐ろしいほどの画像そして情報がヒットした。――自分の、居住地。勝彦との関係。出身地。中学、高校……大量の個人情報が吐き出されていた。
「あああああ!」
直見は、喚いた。もう、この日本中どこにも、平和な場所などどこにも残っちゃいない……。
その日のうちに、内容証明が届いた。手紙には、勝彦の妻が、直見に慰謝料を要求する趣旨の陳述がされていた。
翌週、直見が出社すると、会社は大変なことになっていた。電話が鳴り響いて、止まらない。
『おたくの会社は、不倫女を雇う会社なんですか! がっかりです!』
『いますぐ吉本直見を出せ! 話をさせろ!』
直見に対するクレームが大多数だった。職場の人間は全員迷惑そうな顔をしていた。直見のせいで、通常業務が進まないのだ。直見は全員の前で頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
その日のうちに、直見は自主退職した。
昼前に退社した、帰り道。実家の母に電話をした。
「お母さん、あたしぃい……」
「なっちゃん。やぁーっと繋がった。困ったわね自宅の電話が鳴りやまないの。どうしたらいいのかしら。不倫なんてあなた――本気なの?」
直見の脳内に、勝彦に投げかけた言葉が響いた。
――自分の問題は自分で片づけなさい。
直見は、涙を拭った。自分を救ってくれるはずの実家でさえも、居場所はない。あのとき大泣きした勝彦の気持ちが初めて直見には分かった。
分かったところで、この世界のどこにも自分の居場所はない。
水面下で、彼女の情報は流れ続ける。執念深くサーチを重ねる人間がいるのだ。それこそ直見が顔や名前を変えない限り、一生直見は、ネットという、脈々と流れる鉱脈のなかで、加害者として晒され続けるのだろう。
どこにも、行き場所が、ない。
自宅アパートに、帰ろう。けどもあそこはもうネットの民にバレている。どんな危害を与えられるか分かったものではない。それに、――慰謝料。
勝彦の妻は、直見に、慰謝料を要求するつもりなのだ。
その前に、ご飯。
それよりも、仕事。住居は……。
とりあえず引っ越しするしかない。一旦帰宅すると、直見は、ブランドバッグを手に、質屋に向かい、その足で不動産屋に行くことに決めた。
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