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紫が震える指でビニール袋を開き、手紙の束を差し出す。
晶はそっと受け取り、しばらく黙って読み始めた。
便箋は十数枚どころではなく、束は思った以上に分厚い。
赤黒く滲んだインクで、支離滅裂な文章がびっしり書き殴られていた。
読み終える頃には、晶の眉間にはわずかに皺が寄っていた。
「……うん。これは……大変だったね」
不器用に、でも真面目に言葉を探すような声。
紫は思わず胸が締め付けられた。初対面の人にここまで弱さを見せたのは、たぶん初めてだ。
晶は手紙を束ねながら、静かに息を吐く。
差出人の精神状態は明らかに正常ではない。
いつエスカレートしてもおかしくないし、警察が動かない以上、紫はずっと恐怖と隣り合わせだろう。
晶は少しのあいだ黙り込み、それから正面から紫を見つめて言った。
「……えっと、小芝さん。こういう時、いつも言ってることなんだけど……
“探偵”に相談するっていうのはどうかな?」
紫は晶の言葉に目を瞬かせた。
「探偵」その言葉をきっかけに、店内がざわつく。
**
十九世紀。
犯罪が街を支配し、警察組織が腐敗しきっていた時代に“探偵”は生まれた。
個人で事件を解き、犯罪を阻止し、市民を守った――ただの私立調査員ではなく、社会の秩序を引き戻した存在として。
その功績は国際的に認められ、後に“探偵”という肩書きは国家資格となった。
探偵を名乗るには、世界でも最難関と言われる資格試験を突破しなければならない。
合格者はごくわずかで、日本国内でも両手で数えられるほどしかいない。
探偵たちは国際探偵機関に属し、場合によっては警察以上の権限を行使できる。
調査員を抱える大手事務所もあり、一般の依頼にも対応している。
料金は決して安くはないが、法外でもない。
依頼者の事情に合わせた支払いプランまで提示してくれるのが普通だ。
そこには、一つの鉄則がある。
――“助けを求める手を振り払ってはならない”。
それを破れば、探偵としての名誉は失墜し、最悪資格剥奪となる。
つまり“探偵”とは、金儲けではなく 人を救うために存在する制度 なのだ。
**
晶は、そんな背景をすべて分かった上で静かに続けた。
「警察が動かなくても、探偵なら動いてくれることは珍しくないし……
私じゃ、小芝さんの安全を完全には保証できない。だから、その……プロに頼んだ方が、安心なんじゃないかなって」
決して突き放す口調ではなかった。
ただ、無責任に「任せて」と言えるほど軽い話じゃないことを、晶はよく分かっていた。
紫は俯き、手紙の束の端をそっと指でなぞった。
手が小刻みに震えている。
「……「探偵」に依頼する事は考えたんです。一応、売上もあるし……だから、払えない額じゃないかもって思って」
そこまで言って、紫はぎゅっと瞼を閉じ息を吸った。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「でも……払えない理由があるんです」
晶は言葉を挟まず待った。
「香川にいる母が、体を壊して入院していて……治療費がずっと必要なんです。
本当は、夜の仕事をしてるなんて知られたくなくて。だから、母には“別れた父に願いしてお金を出してもらってる”って嘘をついて……私が全部払ってます」
紫は胸の前で手を握りしめる。
「生活費やお客さんへのお返しのプレゼント代とかを引いた、残り全部をお母さんに送ってるんです。
免許合宿だって、何ヶ月も切り詰めてやっと……。だから今は……依頼料を払える状態じゃなくて」
力なく笑った紫の顔が、少しゆがんだ。
その必死さに、晶の胸がじんわりと痛む。
店内は静まり返っていた。
夜の仕事をしている客たちも、皆どこか気まずそうに紫を見守っている。
晶はしばらく紫を見つめて、それから小さく息を吐いた。
「……そっか。事情、分かった」
少しためらって、けれど最後ははっきりした声で続けた。
「じゃあ、この件……私がやるよ」
紫は目を見開いた。
「え……?」
「うん。受ける。ここまで追い詰められてるのに、放っておけない」
そう言った、晶の耳は少し赤くなっていた。不器用な人間が、勇気を出して差し出す手だった。
紫は一瞬言葉を失い──そして、涙がぽつりと落ちた。
「……ありがとうございます……」
その声は震えていたけれど、どこか救われたように聞こえた。