不在城のパントリーで一枚、皿が割れた。
「あ、すみません」
ジーナが慌てて拾おうとするが制止される。
「珍しいわね、ジーナさんがお皿割るとか」
他のメイドが割れた皿を拾い、片付けていく。
自分で割った皿くらい、自分で片付けたいが、それは禁じられている。
何かを間違えた時、失敗した時、可能な限り本人ではなく別の人間がリカバリーするというのが、ここ不在城の暗黙の了解だった。
いつからあるかもわからない、しきたりのようなものだ。
ジーナには心配事があった。
今朝、令嬢が外出する際、言うべきか迷って、結局言わなかったことがあったのだ。
令嬢はよく弟切草の髪飾りをしている。小さな黄色い花の髪飾りで、妖精のような令嬢に似合っている。
ただ、弟切草の花言葉は「裏切り」だ。
敵国に嫁ぐ令嬢がする髪飾りとしては、不穏すぎる。
今日が市参議会の面々との顔合わせになることを考えれば、外していった方がいいとも思う。
けれど、あの髪飾りは亡き母親の形見でもある。ジーナは結局何も言い出せぬまま、令嬢を見送った。
(やっぱり、お伝えするべきだったかしら……)
結論からすればジーナが割れた皿に触れなかったのは正解だった。
もし、迷いがある今のジーナが手を出していたら怪我をしていただろう。
令嬢とアベルが議事堂へ向かうとすでに市参議会の面々や各ギルドマスターが席についていた。
議事堂の会議室では長テーブルが組み合わされて、ロの字型になっている。
強面の面々は職業ギルドのギルドマスターたちだ。
聖遺物に誓いを立てた昔気質の職人たちは、日々の労働で身体が大きくなっている。鍛冶屋だろうか、利き腕の方が太く、背中が曲がっているものもいた。
反面、商会の人々はほっそりしていた。
変動する物価を読み、時に嘘をつき嘘を暴きながら、金という国家の血液を循環させる者たちは、見た目はほっそりしていても、意外と腹は肥えているかもしれない。
痩せていたりふっくらしていたりするのは教会の司教、修道院長。修道騎士たちだ。
主に信仰と治安維持のために結集した信仰の徒、その穏やかな瞳の奥には確かな意思と苛烈さがあり。道徳に反する行いのすべては彼らの敵である。
(人が多い……!)
ひと目見て令嬢は圧倒された。
圧倒された理由は人数だけではない、それぞれの人間が抱える物語の強度が異常だった。
全員がまったく異なる世界を信じている。
職人の世界と商人の世界と信徒の世界ではまるで違うだろう。
これから何を話すのか令嬢はまだ何も知らなかったが、話がまとまる気がしない。みんな、一体どうするのだろう。
まだ何も始まっていないのに、目に見えない圧力のようなものが、会議室に充満しているように思えた。
礼をして着席すると、議長らしき壮年の男が木槌で合図を出し。会議が始まった。お茶が淹れられ、いくつかの社交辞令の応酬の後、司教が穏やかに告げる。
「アベル王子。このたびは誠におめでとうございます」
アベルと令嬢の白を基調とした服装から察した議会の人々は口々に言祝いだ。
「ご結婚、おめでとうございます」「おめでとうございます」「ご結婚おめでとうございます」「これで停戦条件も満たされ、戦争も止まりますな! いやぁどれだけこの日を待ちわびたことか!」
あれ、まだ結婚してないはずなんだけど、結婚したことになってる?
令嬢は困惑するが、アベルはすまし顔だ。
マネをして黙っていることにした。
令嬢は口をつぐみながら「やっぱりアベルは顔がいいなぁ」と思った。
令嬢の弟切草の髪飾りに気づいた幾人かは、口では言祝ぎながら別のことを考える。「あの裏切りの髪飾りの意味はなんだ?」しかし、考えても真意はわからない。わからないことに思考を費やしている時間はなかった。素早く思考を切り替えていく。
「それでは以前から議題にもありました。減税についてお話を進めたく思いますが、いかがですかな?」
司教がそう言うと、皆が口々にそれがいいと言う。
壮年の議長は本当は別の議題を先にやりたかったようだったが、諦めて「じゃあそれで」とばかりに進行していく。
どうやら議長より司教の方が力が強いらしい。議長は質素ながら小綺麗な服を着ている、おそらく市民から選出されたのだろう、与えられた権利をうまく扱えずにいるように見えた。
議長は議長でところどころ何か言いたいことがあるようだったが、物語はより大きな物語に飲まれ、組み込まれていくばかりだ。
髪を後ろに撫でつけた商会長が小さく目配せをすると、職人ギルドのギルドマスターが目を伏せ、司教が薄く笑う。
「これまで戦時資金調達の名目で何度か増税がありましたが、和平が成立した以上、これはもう必要ないでしょう。兵を解散し、税を元に戻すべきです」
「賛成」「賛成します」「賛成です」「賛成」
きっとこの日のために内々で結託し、口裏をあわせていたのだろう。会議は流れるように進んでいく。
確かに民衆が税金を下げて欲しいと願うのはまっとうなことだ。
なのに、何か喉元に鋭い刃物を突きつけられているような気がする。
……あ。
「反対だ」
アベルが短く切って捨てる。
「兵を下げれば守りが薄くなる」
一気に会議室の空気が淀む、戦後も税を維持することで、アベル王子が私腹を肥やそうとしているように見えるのだろう。
「しかし、もう戦争は終わったはずだ」「なぜ兵を維持する必要があるのですか」
だが、アベルは令嬢がされた仕打ちを知っている。ランバルドが和平に協力的であるとはとても言えないことを知っている。
ではそれをそのまま伝えたらどうなるだろう。
和平はうまくいかなかった。この隣にいる令嬢はランバルドからすればただの捨て石の人質でしかなく、ただアベルが令嬢を大好きだから愛しているだけです。と言って、誰が安心できるだろうか。
死のループを繰り返している令嬢からすれば、事態はより深刻だった。
この議会で減税が可決されれば、辺境城塞都市トロンの守りは薄くなる。その結果、トロンが滅びることは目に見えていた。
令嬢が真実を伝えれば。
ランバルドが攻めて来ると言えば、フリージアの人々は応戦しようとするだろう。戦わなければ殺されるのだ。やられる前に自分たちから攻めようとするかもしれない。
迎え撃つにせよ攻めるにせよ、戦争は再開される。
未来は収束し、トロンは火の海になる。死ぬのはここにいる市民たちだ。
(……どうしたらいいの?)
人質としての立場は危険になる。役立たずの人質に何の意味があるのだろうか、市民の手によって見せしめに殺されるかもしれない。
そもそも、敵国の令嬢である自分の言葉を信じて貰えるかもわからない。
それでも、ここで止めなければ。
大人達に囲まれて、会議室の中で令嬢は息を飲んだ。
やるしかない。
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