イベントは営業30名で、100台を超える大盛況のうちに終わった。
有志を募って、イベント会場近くのホテルのビアガーデンで打ち上げをした。
総務の人間に囲まれながら、ビアジョッキを持ち上げた陽子は、ホテルの屋上に視線を走らせ、彼を探した。
(いない…)
少しだけ落胆しながら、隣に座る課長に顔を寄せる。
「黒田支店の宮内主任、参加してないんですかね」
言った途端、浮世絵に描かれた町娘のような、課長の顔が歪む。
「どうして?」
「あ、いえ」
慌てて顔の前で手を振る。
「ちょっと、昨日、助けていただいたので、お礼をと思って」
「はぁ?助けてもらっただあ?」
もうだいぶお酒が入り、ほんのり頬を染めた課長の目がさらに細くなる。
「それが手なんだから。感謝したり、近づこうとしたりなんかして、ダメよ。あのこの思う壺よ?」
その言葉が少しだけ気に障る。
「確かにモテそうではありますけど。実際にそうやって騙されたり泣かされたりした子がいるんですか?」
「いるから言ってるんでしょう?」
課長の目から炎が見えたような気がした。
「いい?北港市の受付の子なんて、新入社員歓迎会で彼と同じテーブルについただけで、翌週は何をするにも上の空。
さらにその次の週には彼に美味しく召し上がられて、さらに一週間後、ボロ布のように捨てられたのよ」
俄かには信じられない話に、陽子は顔を歪めた。
「疑うなら、本部の榎本さん、いるでしょう?彼女も彼にひどい目に合ってるから聞いて見なさい?」
言いながら経理部の榎本を指さす。
彼女も確か30手前で、宮内とは同世代であるはずだ。
「いや、私はそんなことが知りたいんじゃなくて、純粋にお礼を…」
「純粋に~?」
「ほら、課長、酔っ払いすぎですよ」
絡む課長を、先輩スタッフである男性スタッフが諫める。
「ほら、ちょっとソフトにしましょう。グレープフルーツジュースでも取りに行きましょう。生ジュースですってよ、やりましたね!
」
言いながら陽子に対して優しくシッシと手をふった。逃げろと言うことらしい。
お言葉に甘えて席から離れる。
「黒田支店、黒田支店、は…」
テーブルを探すが、毎日会っているはずなのに、たくさんの背広とワイシャツに紛れ、見慣れた黒田支店の人間を探すのは容易ではなかった。
だいたい全部のテーブルを回ったが、黒田支店の人間も、宮内の姿はなかった。
(もしかしたら、本当にいないのかもしれないな)
落胆しながら、ホテルの屋上に張り巡らされた高いフェンスに背中をつく。
この2日間、礼を言う機会を伺ってちょこちょこ見ていたが、彼は誰かとつるむとか、談笑するというシーンもなかったし、馬鹿みたいに成績を上げるたび、黒田支店の人間だけではなく、他の営業からも妬むような視線を浴びていた。
(こんなところにきても、きっと楽しくないよね)
そう思い、フェンスに寄りかかる。
宮内弘晃。
どんな男なんだろう。
この間も、今回も、そっけないけど、男らしくて、言葉尻も優しくはないけど、言っていることは正しくて。
上司にも客にも媚びたりしないくせにバシッと受注を決める。
「もっと、話してみたかったなあ」
思わず本音が飛び出し、陽子は口を押えた。
疲れもたまり、いつも以上に酒の周りが早いらしい。
軽く見回す。
ビアガーデンは始まったばかりで、まだまだ終わりそうもない。
気分が悪いなどと適当なことを言って、早いところ抜けだそう。
そう決めてフェンスから身体を浮かしたところで―――。
「お茶出しは上手になったみたいだな」
驚いて振り返ると、そこには陽子と同じようにフェンスにもたれながら、緑色のグラスを傾けている宮内がいた。
「あ、昨日はありがとうございました」
宮内はその得体のしれない緑色の液体を口に含むと、陽子を見つめた。
「客は茶を飲んでくれるようになったか?」
「はい、おかげさまで。あの後はスムーズにお茶出しが出来ました」
言いながらも疑問だったことをぶつけてみる。
「あの、どうしてお客様は丁寧に応対したお時は断って、ほぼ黙ったままお茶出しをした方が飲んでくれたんでしょう」
陽子が首を傾げると、宮内は言うのも馬鹿馬鹿しいというよう口を開いた。
「それは明確だ。人間というのは、選択肢が多ければ多いほど、楽で消極的な方に逃げようとするからだ」
意味が分からず首を傾げると、宮内は続けた。
「いいか。車を勧められる。そこには“買う”という選択肢と“要らない“という選択肢が存在する。しかし客が本当に選びたいのはこの2つではなく、“来週までじっくり考える”という選択肢だ」
言いながらまた宮内が緑色の液体を一口飲み込む。
(なにこれ。ミトコンドリアのような濃い緑色ーー)
「そこにもう一つの選択肢が出てくる。それは、“茶を飲む”という選択肢と、“遠慮する”という選択肢だ。
“遠慮して席を立つ”、それはイコールで、”今日のところは帰って、来週までじっくり考える”という選択肢とつながるため、客は逃げやすくなるんだよ」
わかるような、わからないような。
陽子はあいまいに頷いた。
「つまり結局は、茶を勧めるということは、逃げ道を与えることになるんだ」
それでも頬を膨らませ小さく頷いている陽子を宮内は笑った。
「こういえばわかりやすいか?」
言いながら陽子の脇のフェンスに手をつく。
「こんな退屈な飲み会、抜け出して俺と二人で飲まないか?」
宮内の目が、ビアガーデンの提灯を移してオレンジ色に光る。
(————え)
「これが、一つ目の選択肢。断って帰るというのが二つ目の選択肢」
優しく微笑んだ瞳を、右に左に行ったり来たりしながら、陽子は彼から目を離せないでいた。
「そこでもう一つの選択肢を提示する」
言ってから軽く息を吸い込むと、宮内は言った。
「下に部屋をとってあるから、そこで飲み直すんでもいいけど?」
陽子は少し考えたから、宮内が言わんとしている答えを言った。
「……遠慮しておきます」
言うと宮内はフッと笑った。
「そういうこと」
言いながらまた口に運ぼうとしたそのグラスを横から取りあげる。
驚いた宮内の視線を感じながら、それを一口飲む。
「抹茶?」
言いながらそのグラスを覗き込むと、宮内が笑った。
「照葉樹林って抹茶のカクテル。知らないか?」
「おいしい……」
「だろ?」
宮内はフェンスから背中を離した。
「それ、やるよ。甘いけど強いから。飲みすぎんなよ」
背広を脇に抱え、出口に向けて歩いていく。
「あの!」
思わずその背中を呼び止めていた。
宮内がゆっくりと振り返る。
「さっきの話、最後の選択肢を選んでたら、どうなります?」
「…………」
「部屋で飲み直したいです―――って」
宮内の目が一瞬大きくなった。
それ以上に陽子の瞳は、自分の発した言葉に驚いていた。
(私、今、何て言った?)
ーーカツン カツン カツン カツン。
騒がしいはずの会場で、宮内が近づいてくる革靴の音だけが響いて聞こえる。
(ーーー総務課長に怒られちゃう)
彼は陽子の手から、グラスを取り上げると、まだ6割ほど残っていたカクテルを、一気に喉に流し込んだ。
(でもそんなに言うほど危険な男なら)
唇を濡らしながら陽子を見下ろす。
「じゃあ。行くか」
(危険な目に、合ってみたい……)
ビアガーデンのホテルだったか、場所を移して別のホテルだったかは、記憶にない。
部屋に入った途端に、躊躇も戸惑いも全てかっさらわれるようなキスをされたのは覚えている。
合わせているのは口なのに、体の芯が熱くなって、熱い手で包まれているのは顔と肩なのに、腰が疼いた。
22年間、他人にこんなに触られたことのない体は、宮内の手にびくつき、素直に反応した。
「もしかして―――」
反応がうぶすぎたのだろうか。
服を一枚も脱がないうちから、宮内が陽子の目を覗き込んだ。
「初めてじゃ、ないですよ」
陽子も見つめ返す。
もしここでバカ正直に“初めて”だと言ったら、彼は自分を抱いてくれない気がした。
そしてその理由は、陽子を傷つける理由である気がした。
だから思い切り虚勢を張り、震える身体で陽子は応えた。
宮内はしばらく考えたが、傍らにスーツの上着を置くと、
「シャワー浴びてくる」
といって、洗面室のドアを開けた。
こんなシチュエーションをドラマか映画でしか見たことがなかった陽子は「本当にシャワーって浴びるもんなんだ」と妙に感慨深く頷いた。
「それとも、一緒に浴びるか?」
赤面した顔を笑ってから、ドアが閉まった。
陽子はその灯りが漏れる洗面室を見ながら、ダブルベッドに腰かけた。
これも、きっと彼の言う選択肢の提示だ。
①シャワーが終わるまで待つ。
②シャワーを浴びているうちに帰る。
③一緒にシャワーを浴びる。
―――もう、ここまで来たら。
照葉樹林という酒は、もしかしたら本当に強いのかもしれない。
女子高、女子大で男の「お」の字も知らずに育った陽子は、服を脱ぎ捨てると、洗面室のドアを開けた。
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