コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
話を要約するとこういうことだ。
11月には異例の大雪が降った日、市内でハッテン場としては唯一だったoceanは、閉店直前ということもあり、その最期を惜しむ男性客で思いの外混んでいた。
林はいつものようにカウンターに佇みながら、1月にオープンか決まっていた会員制カラオケボックス、BIG WAVE の最終調整の書類に目を通していた。
そんなとき重い正面入口の戸がゆっくり開かれ、粉雪と共に男が入ってきた。
キャラメルコートは冬にしては薄手で、少々寒そうだが、手足の長い男のスタイルには良く似合っていた。
首に軽く一周されたクリーム色の絹マフラーも上等なものであるのが一目でわかる。
履いているジーンズはややカジュアルで、所々にダメージが施されている。
足元にはRED WINGのクラシックモックが光っている。
こんなハッテン場にいるより、イルミネーションの下で相応な女性に腕を組まれている方がよほど自然に見えるような男。
ただ、彼には絶対的な違和感があった。
キャラメルコートも、絹マフラーも、ダメージジーンズもRED WINGの靴も、全てといっていいほど、ボロボロによれ曲がり、破れ、ところどころに自身のものと思われる血痕が付着している。
足元もおぼつかず、右へ左へ依れては戻り、入口からカウンターまでやっとのことでたどり着いた。
「こんばんは」
カウンターに寄りかかると、男のつけているコロンか、それとも高い柔軟剤でも使っているのか、フローラルな香りと若い男の体臭が混ざったような妖艶な香りがした。
「お客さん、大丈夫ですか」
林は言葉とは裏腹に胡散臭い顔をした。
こんなにあからさまなハッテン場なのに、松が岬署の捜査二課からなんのおとがめもなく運営できたのは、ある意味奇跡だった。
敏腕と言われた二階堂とその右腕の成瀬が抜けたのが大きいが、流れてきた噂では、東北でも三本の指にはいる大きな組織、岡崎組にとうとうメスを入れるってので忙しいらしい。
カラオケ屋に改装することである程度ガサが入っても誤魔化せるレベルに修正して、軌道に乗せるまでのまとまった時間と労力が使えるのは今しかない。
林もいつになく慎重になっていた。
「こういう業界ですので、トラブルはごめんです。帰ってください。
うちでは救急車や警察なんかも呼べないのでね」
言うと男はやっと顔をあげた。
「大丈夫。医者は必要ない。どこも折れちゃいないし、小さな切り傷ばかりだ」
その顔と、丁寧な話し方には覚えがあった。
「あんた、春にーーー」
言おうとすると男は遮るように続けた。
「医者は要らないが、一夜だけの相手がほしい。言い値で払うから」
コートの胸ポケットからどんと札束を置いた。
「トラブルは犯さない。誰でもどんなプレイでもいい気分なんだ」
顔を寄せてくる。
「……君が相手をしてくれてもいい」
林はカウンターに両手をついて項を垂れた。
たちの悪いやつに関わってしまった。
それくらい彼は、ストレートな林が見ても妖艶で、しなやかで、魅力的だった。
この商売を始めたとき、誰かが言っていた。
『誰もが生まれつきのゲイなわけじゃねぇ。あるんだよ、男に“堕ちる”瞬間が』
これがそうなのかもしれない。
だからと言って、もちろんカウンターを離れるわけにはいかない。
男との経験もないし、今後も関係を持つ気はない。
だからこそこの商売がやってこれたのだ。そして、これからも。
林はため息をつきながら、その札束から、十枚抜き取った。
「これでいいす。コートとマフラーはここに置いていってください。目立つんで」
言うと彼は弱く微笑んだ。
その顔はまるで泣き出しそうだった。
「その後はどうなったかはっきり言ってわかんないす。
どこの男とどんなプレイをして、何時まで何回やったのか。
それなりに忙しかったんで、いつ帰ったかも定かじゃないすけど、トラブル的なものはなかったはずです」
それだけすよ、と呟いて拗ねたように唇をとんがらせる。
壱道が受け取った記録簿を見ながらなにかを考えていたが、小さく頷くと林の肩を叩いた。
「なるほどな。繋がった。礼を言う」
「お役に立てたならもういいすかね。そろそろマジで客来るんで」
時計を見るともう5時過ぎだった。
「これ、借りていくぞ。じゃあな」
壱道が歩き出す。
繋がったとは何と何がだろう。
琴子はわからないまま、小走りで後を追う。
そのとき背後から、
「成瀬さん。あんたの部屋は105号室すか」
林が発した言葉に、二人は振り返った。
「俺、お察しの通りホモじゃないすけど、不思議とあんたのことは嫌いじゃないから、忠告しておいてやるすよ。
どこの誰だか知らないけど、あんたのことを調べてる輩がいる。
“世話になった”奴もたくさんいるから、情報漏らしている人もいるよ。
末端の俺でさえあんたのアパートを知ってる。
この事実を重く考えたほうがいい」
壱道は黙って林を見る。
「あー。こんなこと言うから警察サイドだって変な噂立つんすよね。
今の発言忘れて下さい。
名簿返すときはあんたじゃなく他やつ寄越すか、郵送にしてくださいね。はい、帰った帰った」
「林」
「何すか」
「いい加減、足洗えよ。岡崎組だって、今や恐れるに足らんだろ。お前は器用だからつぶしはいくらでも利く。他の生き方考えろ」
ふっと笑って林が答える。
「捕まってない幹部連中がやばいんですって。
ピリピリしてっから、足洗おうか迷った瞬間消されるっすよ。
俺が松が岬からいなくなったら、成瀬さん、寂しいでしょ」
それに対して何も返さず、壱道は扉を開けた。