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車はファストフード店のドライブスルー入り、二人分のセットを買ったあと、また走り出した。
「大丈夫なんですか?」
琴子が受け取ったポテトを頬張りながら聞く。
「さっき林が言ってたこと」
右手でハンドルを握ったまま、左手と口を器用に使いハンバーガーの包みを開けながら、壱道が答える。
「ああいう下っ端を使ってわざと間接的に脅しをかけてくるのは、組の奴等の常套手段だ。珍しいことではない」
「でも部屋番号、合ってましたよね」
ハンバーガーを頬張る。
「あいつらが俺の家を知っているのは、今に始まったことじゃない。
これまでも数回窓ガラスを割られている。
ただ表だった襲撃はしてこない。
それこそ警察に組織ごと根絶やしにされるのを知っているからな。ただし」
「ただし?」
「それでも襲ってくるときは、殺すこと前提で、一切証拠を残さずに拐うだろうがな」
背筋が寒くなり思わず身震いする。
壱道や自分はそんな世界に身を置いているのか。
松が岬署に着くころには、二人とも全て平らげていた。
車を停車させた壱道は、携帯電話を見ながら何か考え込んでいる。
「どうかしました?」
琴子に手渡しながら、
「署に入った先程の電話を浜田が文章化したんだが、どう思う」
若い男性の声
「すみません、自殺事件の担当の刑事さんいらっしゃいますか?昨日話聞かれたんですけど、いい忘れたことがあって」
ーーー成瀬ですか。今日あいにく非番なんですよ。まあ仕事してるみたいだから、また署に帰ってくるかもしれませんが。
「あ、おやすみですか?」
ーーー連絡とって折り返し連絡させますか?
「大丈夫です。大したことじゃないし、またかけるので」
ーーーじゃあ、電話のあったことを伝えておきます。お名前を。
ここで切れる。
琴子は首を傾げた。
「昨日会ったということは、ガラスプロムナードの誰かでしょうか」
「オーナーの永井、生徒の滝沢、青山には携帯番号を教えてある。
他には話は聞いてない。
それにあいつらが事件のことを『自殺事件』と呼ぶのは不自然だ」
確かに。もう一度文面を見る。
「マンションの管理人は?」
「すでに携帯で何度もやりとりをしている」
「本間のいる中学校の関係者とか」
「あいつらには櫻井の事件だと一言も言っていない。わかっているのは本間くらいだが、殴られ脅されて、こちらに連絡をとろうとするとは考えにくい」
「じゃあ、林の言う通り、壱道さんを調べてるってやつじゃ」
「そっちのやつらが俺たちの追っている事件まで把握しているとは考えにくい。
まあ、林がペラペラ漏らしてたら別だがな」
いずれにせよ、と言って壱道はため息をついた。
「こんなに短い電話じゃ、何のためにかけてきたかわからん」
「相手はそんな短い電話で何を知りたかったんでしょうね」
数秒考えてから壱道が携帯電話をもぎ取るように奪った。
「何かわかりました?」
「ああ。電話をかけた目的と合致しているかは知らんが、この内容で相手が知り得たことは、俺の名前と、俺が非番ということだ」
名前と居場所?
「つまり、この電話の主は、俺たちが『自殺事件』を追っていることを知りつつも、俺の名前も知らない人物ということだ」
「まだ接触できていない櫻井の関係者ということですか。もしかして犯人とか」
「可能性はなくはないが、これ以上は調べようがないな」
言いながらジャケットの胸ポケットからヘアワックスを取り出し、手に馴染ませると車内は爽やかなグリーンアップルの香りに包まれた。
長い前髪を軽くサイドに手櫛で流している。
それを見ながら、ふと壱道の顔を撫でていた林の手を思い出す 。
「事件とは関係ないんですけど」
琴子はおそるおそる聞いた。
「林がストレートだったから良かったものの、もし本気だったら、さっきの、どうするつもりだったんですか」
「愚問だな」道は軽くため息をついた。
「滝沢に言った通り、俺は同性愛に対して偏見もなければ、抵抗もない。
もしあいつが本当に咥えたら、そのまま気の済むようにさせていた」
「ソウデシタカ」
つい棒読みになる。
「というのは冗談で」
目を反らした琴子の反応を楽しむように、エンジンを切ったその手でハンドルに肘をつく。
「あいつがゲイじゃないと確信があった」
「どうして」
「お前に一つ、教えてやる。
ストレートな男なら、パンツスーツの女を前にしたときの、視線の行き場は、大体決まっている」
琴子はその意味を反芻して、赤面した。
「ちなみにいつもお前のケツは丸くないな。ポケットには何が入っている」
「セクハラです!」
「くだらん質問に答えてやったまでだ。ほら降りるぞ」
壱道がドアを開ける。
空は薄暗く、ぬるい雨の気配が漂っていた。
一時間後、壱道と琴子はバーの丸テーブルで向かい合っていた。
カウンター席は、足元の壁一面に、砂浜のような凹凸があり、ライトブルーの照明が揺らめき、まるで海面のようだ。
市内にこんな洒落た場所があるなんて知らなかった。
キョロキョロ見回していると、ビールが2つ運ばれてきた。
「コップじゃなくてグラスで飲むビール初めてです」
コースターの上に置かれるグラスを見ながら高揚している琴子に壱道が優しく教える。
「ヴァイツェングラスといって、酵母や小麦の香りを楽しめる形状なんだ。
大抵は500mLのビールを注ぐと、液体と泡のバランスが一番いいところでピッタリ収まる。
ビアグラスの中ではクラシカルな部類に入るかな」
トレイを脇に収めたマスターと思しき男が、静かに微笑む。
「お客様、お詳しいんですね。当店は初めてですか」
壱道も微笑を返す。
「ああ。ずっと気になってはいたんですけど」
「ありがとうございます。どうぞごゆっくり」
丁寧だが、決してでしゃばらない。
目線も合っているようでわざと顎当たりにずらしている。
レベルの高い説遇を持ち合わせている。
「取り敢えず、乾杯するか。琴子」
思わず吹き出しそうになるのを堪えて、グラスを持つ。
カチン。ガラスの向こう側に、余裕の笑みを讃える大人の男性がいる。
数十分前、念のため捜査車両から乗り換えた琴子の車は、飲み屋街専用の駐車場に入った。
エンジンを切ると壱道はすぐ何かの紙の束を取り出した。
「これは櫻井の携帯電話の通話記録だ。
過去2年まで遡って手にいれたが、特定の相手との集中したやりとりはない。
唯一多かったのが、昨年の6月から12月までで、合計50回かけていた、なるしま代行。
問い合わせたところ、櫻井の名前での利用が確認され、そのうちの数回、あの店まで直接迎えに行っている」
指差した先には、『bar bouquet』の看板があった。
「なんて読むんですか」
「ブーケだそうだ。だが11月21日を最後に一度も利用していない。
林が言っていた、血だらけの櫻井が来たのが11月23日。時期的に一致している」
なるほど。先程壱道が『繋がった』と言ったのはこのことか。つまりその日、あの店でなにかトラブルがあった・・・?
「マスターは江崎昌嗣、36歳。妻と二人で切り盛りしているらしい。
夫婦仲は円満で、自他ともに認める鴛鴦夫婦。
店員は若いボーイが一人。一年ほど前から勤めているらしいが、詳細は不明。
常連の客が何組かいるらしいが、櫻井との関係は不明」
言い終わるとファイルを後ろの席に投げ、バックミラーで髪の毛を再度整える。
「飲み屋に入ったら、怪しまれないように酒と会話を楽しむふりをしながら、客の動向を見る。
こういう店は、常連客で八割型占めているから何らかの事情を知っているやつも現れるかもしれない。
できるだけ客として長くて、頻繁に通っていそうなやつにターゲットを絞り、話しかける」
どこから出てきたのか、ほんの少し青く色がついた眼鏡まで装着している。
「そこまでいくと変装ですね」
「隈隠しだ。だがここから先はいよいよ刑事と気づかれたくない。
俺とお前は広告会社の先輩と後輩。
言い換えれば、狙っている男と今夜にも食われたい女」
「ーーー異議あり」
「保険会社の方がいいか?」
「そこではなくて!狙っている男と食われたい女のとこです」
「それは変えない」きっぱり言い切る。
「逆に聞くが、それ以外の理由で、バーに男女でくることってあるのか」
もはや何も言うまい。
「それと、私、お酒すこぶる弱いので、アルコールは飲まなくてもいいですか」
「潰れるのか?」
「潰れませんが、ひどく酔っ払います」
「乱れる分には問題ない。刑事に見えないからかえって都合が良い」
「…醜態晒しますよ」
「とくと晒せ。行くぞ」
そして現在に至る。
ビールを一口飲むと、寝不足なこともあり、すごい勢いでアルコールが廻るのがわかる。
仕事だ。酔っぱらうな自分。
目を血走らせた琴子を見て壱道が呆れる。
「構えるな。そんな顔して酒を飲むやつがあるか」
「すみません」
首を回しながら店内を軽く見回す。
カウンター席が横に12席。
テーブル席が四つ。
その中の二人は手前から二番目のテーブル席に腰を下ろしている。
カウンターからテーブルまで適度に距離があるため、ビールを置いた店員が定位置に戻った今は、小さな声で話せば、こちらの声は聞こえないだろう。
カウンター席に五十代の男が一人。
ワイシャツにネクタイ姿で、若いボーイに向かって何やら熱弁をふるっている。
「今は客もあいつしかいないし、リラックスしてまずグラスを開けろ」
そう言う壱道のグラスは半分以上開いている。
ふうと小さく息を吐きながら、客の話に耳を傾ける。
「それで、そいつが言ったんだよ。なんで男のネクタイを外す動作がセクシーか。わかるか?」
大声で話しているため、こちらにも十分内容が聞こえてくる。
まだ日が沈んで間もない時分だが、ずいぶん下世話な話をしている。
「男は、ホテルで、お上品にヤるとき以外は、言っちゃえばベルト緩めてチャック下ろしてイチモツだせばもうできるのよ。
でも唯一外すのが、ネクタイだ。
正常位、騎乗位、バック、どれでも邪魔になる。だからある程度経験のある男は、女とそういう雰囲気になったら、いち早くネクタイを外すんだよ。
つまりその動作が所謂セックスアピールってやつなんだ」
意外にも感心した。
一理あるかもしれない。
ほんわかと温かくなってきた頭で考えながら、目の前でグラスを傾けている男を見る。
今の話を聞いていただろうか。
「この店、大きくはないが、酒には相当こだわっているみたいだな。
クラフトビールだけで20種類以上ある」
何やら洒落たこと言っているが、頭の中に入ってこない。
そういえば、朝、署でソファから起き上がった彼は。
「ネクタイしてた」
眼鏡で見えにくいが、はっきりと眉間に皺が寄っている。
「朝、ちゃんとネクタイしてましたよね」
酔っぱらった勢いで聞くと、壱道は大きな目をさらに見開いた後、カウンターの男を一瞥し、クククと笑い始めた。
「お前、朝から趣味の悪い冗談を言っているのかと思ったが、本気で疑っていたのか」
眼鏡を直しながら微笑む。
この笑顔も演技の一環なのだろうか。
ドアが開き、慣れ親しんだ様子で男女が入ってきた。
「マスター、結局今日も来ちゃった」
女の方がだいぶ酔っぱらっていて、男になだれかかっている。
マスターと呼ばれたのは、先ほどビールを運んできた男だった。
江崎昌嗣。店主にしては若い。
ラグビーでもやっていたのかと思うほどガタイが良い。
よいしょと声を上げながら、男が女をカウンター席にやっと座らせ、何か注文している。
常連客には間違いなさそうだが、半年前からいたかどうかはわからない。
「話しかけるのは後でいい。今は酒を楽しんでいる男女を演じろ」
「わかりました。何の話をしてましたっけ」
「蒸し返すほどではないが、お前が阿呆な勘違いをしたって話だ」
「あ!そうそう!」
琴子はたちまちほろよい気分に戻り、壱道を指さす。
「だって、二人して同じシャンプーの匂いを漂わせて気だるい表情でいたら、誰だって誤解しますって」
「署のシャワールームにはシャンプーは一種類しかないからな」
面白そうに頬杖をつく。
「朝も言いましたけど、そんなに大変な作業なら、私も加えてくださいよ。使えないやつかもしれませんけど、少しは時間短縮になるかもしれないじゃないですか」
「お前は知らないかもしれないが」
言いながらメガネに手をかける。
「浅倉さんはSEの資格を有するほど、コンピューターに詳しい」
「え、そうなんですか」
「それに、だ」
壱道が少し椅子をずらし、隣に来る。
「一昨日も昨日も、お前を起用しなかったのは、使えないやつだからでは決してない。
この際だから言っておくが、俺はお前を馬鹿にしたこともなければ、見くびったこともない」
「そうでしょうか」
「現にお前は櫻井の明るすぎる部屋に違和感を覚えた。
杉本鞠江への電話が留守番電話でないと気がついた。
今の刑事課の中で、櫻井の事件を解決できるのは、お前をおいて他にいない」
壱道の目に力がこもる。
本当にそこまで期待してくれているのか。
「じゃあどうして帰れだなんて・・・」
「実は昨夜、狭間からお前を夜中まで連れ回すなと連絡があってな。
おおむね小國辺りが点数稼ぎにチクったんだろう。つまない奴等だ」
それに、と前置きして続ける。
「俺はこの通り病み上がりで、体調が芳しくない。
もし倒れでもしたらと考えると、なるたけお前のことは温存しておきたい」
近距離でまっすぐにこちらを見る大きな目に、顔が熱くなってくる。
「だから今日、お前が俺に啖呵を切ったときは、正直驚いた」
「あ、あれは、なんというか、本当に申し訳ありません」
「琴子。謝る必要はない。俺が悪かった。善処する」
なんだ、何なんだ、この男は。
琴子は燃え上がる顔と暴れだす心臓を持て余して、逃げ出したくなった。
「あの、壱道さん」手の甲で自分の頬の熱を吸収する。
「ちょっと・・・名前で呼ぶのやめてもらえません?」
「お互い苗字が割れるよりリスクが少ないだろ」
「それは、そうかもしれないですけど」
「ちなみに俺の記憶では、お前が俺を苗字で呼んだのは数回だが」
壱道は上目遣いでこちらを見ると、優しく笑った。