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皆にとっては不可解な落ち込みからリアムが回復した数日後の週末、土曜日の診察はホーキンスが引き受けるから休みを取れと半ば命じられたリアムだったが、命令という形の心配だと気付き、ありがたく受けることにした。
それを知ったヘンリーがここぞとばかりに飲みにいこうと誘いをかけ、彼にも心配をかけていた事を理解しているためにもちろんと返事をしたリアムは、新しくできた店に飲みに行くのも良いけれど明日が思いもかけない休暇が舞い込んできたのだからシドニー市内のナイトクラブに遊びにいこうと誘われて一瞬躊躇ってしまう。
シドニー市内のナイトクラブなどそれこそ数えきれないほどあるが、今音信不通になっている慶一朗の親友が経営しているアポフィスというそこそこ名前の通ったナイトクラブを想像し、リアムにとっても友人であるルカに今はあまり会いたい気持ちにはなれなかった。
だが、ヘンリーが遊びに行こうと誘うクラブがルカの店とは限らないからと己を納得させてオーケーを出した金曜の夜、シドニー市内に向かう電車に乗り込み、別れを告げられた直前の週末も同じ電車で二人遊びに出かけ、始発電車で帰宅したことを思い出す。
あの時はこんなことになるなんて二人とも考えることも出来なかった。
すべての発端を知っているわけではないリアムだが、慶一朗自身の言葉と態度、彼の双子の兄の総一朗から教えられた事実からある程度の事情を知り、その中で己の恋人-今は気持ち的には元と現が入り混じっている-が極度の怖がりであることも改めて知ることが出来た。
幼い頃の事情から一人でいる事が当然だった慶一朗だが、総一朗によって世界はこんな狭く小さなものではない事を教えられ、外の世界へと連れ出された結果、一人ではない事実を肌で感じ取ったのだろうが、その代償として外の世界へ連れ出した兄への依存と一人きりになる事への恐怖が植え付けられたのだろう。
その恐怖がどれほどのものなのかを理解できる人などいないだろうし、双子の兄の総一朗でさえも深い場所まで理解することは出来ていないのではないだろうか。
ならば知り合ってまだ一年と少しのリアムが理解することも不可能だった。
だが、理解しようとする努力をリアムは惜しまなかったし、また少しずつ理解できていたと思っていたが、今回の別れを告げられた後に胸を締め付けるような顔で、世界は一人だと呟きすべてを拒絶するように笑われてしまい、彼を抱きしめる事も出来なかった。
あの後、一日一度はメッセージを送っていたもののそれに対する返事はなく、さすがのリアムも本当にこのまま別れてしまうのかもしれないと思い始めていた。
先日、慶一朗が何かを喪うことを極度に恐れている事を再確認したものの、二人でそれを乗り越えるための努力をしてほしかったが、リアムの思いとは裏腹に慶一朗はそんな努力をするつもりはないようだった。
今回の別れの本当の理由は本人にしか分からないものだろうが、前回と同じ恐怖が引き金だとすれば、その恐怖を克服するなり忘れるなりしない限りは同じようなことを何度も繰り返すだろう。
それでいいのかと自分自身に問いかけた時、まるで返事をするかのように電車が駅のプラットホームに到着する。
ドアが開く音と乗客が乗り降りする様子をぼんやりと見ていたリアムだったが、今電車が止まった駅名を確かめるように窓の外へと目を向け、初めて見た駅名だと気付く。
この国に移住してもう何年になるか数えてなどいないが、初めて見る駅名や地名が当たり前ながらまだまだ存在していて、知らない世界が広がっているんだという感傷を抱いてしまう。
知らない世界で己が知らない人々が己と同じように泣き笑い、大切な人との別離や再会を果たしているのだろうか。
そこで暮らす人の数だけ悩みがあり、その一つ一つの軽重などリアムには知る由もなかったが、今の己も悩みを抱えている一人だった。
悩みを抱えている時、得てして己は一人だと、誰にも悩みを相談できないと思い込んでしまうが、ドアが閉まって電車がゆっくりとスピードを上げて走っていく様を、窓の外流れる景色から気付いたリアムは、世界が流れていくなかで唐突に自分は一人ではないという感覚に目を見張ってしまう。
今、駅で待ち合わせをしているヘンリーを筆頭に、明日の休暇をくれたホーキンスや先日悩みを聞いてくれたホワイトもそうだが、何かあれば相談できる人たちが周囲にいる。
これまでの人生の中、いくつもの困難や辛い出来事があったが、どの問題においても己には両親やこの国でどれほど不満を覚えていてもそれでも学生の間は世話をしてくれた遠縁の男性や学生時代の友人たちが側にいて、問題が起きれば励ましたり慰めたり相談に乗ってくれていたのだ。
人と人との関係で助けられているリアムだったが、どうしても助力を得られない時は一人で趣味のキャンプに出掛け、世界の雄大さの一端に触れて心の傷を癒したり問題への解決の取っ掛かりを得たりしていたのだ。
そうしてひとつの問題をクリアする度にリアムの世界は微細ながらも変化をしてきたのだ。
世界はいつ何時、どの出来事からかは分からないが、緩やかだったり急激だったり人それぞれのタイミングで変化をするのだ。
変化のない世界などありえなかった。
己の経験則からふと気づいてしまったリアムは、己の知らなかった駅から乗り込んできた子供連れの家族らしき姿を無意識に目で追いかけ、進行方向斜め前に座ったのを見届けると、窓枠に肘をついて電車の動きに合わせた速さで流れ始めた景色へと顔を向ける。
動き出した電車に乗っている今、つい何秒か前に留まっていた世界に戻ることは出来なかった。
世界はいつも動いている。その中にいる人も、変わっていないようで何かが変わっているのだ。
この世で生きとし生けるもの全ては、時間を巻き戻す事などできなかった。
世界は幼い頃から何も変わっていない、ただひとりだと思い込んでいる恋人に、そうではない、世界は己が望めばいくらでも変えることが出来るのだと気付いてほしかった。
いつまでもひとりきりの世界に留まって欲しくなかった。
勇気をもって一歩足を踏み出し、その手を伸ばした先には予想も出来ない、きっと己が持てるだけの感情で向き合わなければならない出来事が待っているだろう。
だが、それを恐れないで欲しかった。
何があるのか分からない恐怖から最悪の出来事だけを想像し、耐えられないからと別れを選ぶのではなく、一緒にいればもしかすると乗り越えられるかもしれないと思って欲しかった。
先日の様子からは、その恐怖に負けてしまって背を向けたようにリアムには感じられていたが、だからといって恐怖から別れを告げた彼をリアムは非難するつもりも嘲笑するつもりもなかった。
恐怖を克服するなど、口で言う程簡単にできる事ではないだろう。
どうしても克服できない恐怖があるのなら、ひとりで抱え込まずに相談してほしかった。
電車の動きに体が揺れる中、思考の連鎖反応に己の事ながら驚いていたリアムだったが、ホワイトが告げたように己のこの考え方は彼にとっては眩しすぎて直視できない、劇薬のようなものかも知れなかった。
その考え方はお前だからできることであって俺にはできない、そう否定されてもおかしくはないし、その可能性は高かった。
もしかすると本当に告げられた別れが現実のものになるのかも知れなかった。
そう考えた途端、今己が乗っている電車の行き先がシドニー市内ではなく地獄ではないのかという恐ろしい考えが脳裏を過り、何を馬鹿なことをと小さく口にすると、斜め前に座った子供特有の大きな目で見つめられている事に気付く。
じっと興味深そうに見つめてきたかと思うと、隣に座っている父親らしい男の頬に小さな手を当てて合図を送り、それに気付いた父親と子供が二人同時にリアムへと視線を向ける。
相手が子供だとついつい構ってしまいたくなるリアムが手を広げたり閉じたりを繰り返すと、驚いたように目を丸くする父親の横で子供が小さな声を上げて笑い出す。
子供が退屈しないで済むように相手をしていたリアムだったが、待ち合わせの駅に間も無く到着することに気付き、ゆっくりと立ち上がる。
今までずっと己の子供の相手をしてくれていたことに父親らしき男が目礼し、リアムも笑顔で頷いた後、子供に向けて大きな手を振り、シドニー市内へのアクセスの主要な場所となっている駅のプラットホームに降り立つが、そのときには電車の中でつらつらと考え込んでいた別れへの思いは薄らいでいて、己の気持ちながら振り子のように左右に大きく揺れていると一つ肩を竦め、改札に向けて階段を降りていくのだった。
リアムの予想通り、目的の店はアポフィスだった。
駅で待ち合わせたヘンリーが様子を伺いながら大丈夫かと何度も問いかけてきたが、ここまできて無理だから店を変えようとは言い出せず、大丈夫だと強く頷いたリアムは、セキュリティスタッフのアンディがこちらに気付いて一瞬だけ目が大きくなったのを見逃さずに彼の前に立つと、ヘンリーがハローと声を掛ける。
「入っても?」
「もちろん」
などという返事はなく、ただアンディの厳つい顔が上下するだけだった為、ヘンリーがドアを開けて中に入る。
その後に続こうとしたリアムだったが、アンディにチラリと目を向けた後、ポケットから50セント硬貨を取り出し、いつもとは違って店に入る前に彼のポケットにそっと落とす。
「・・・久しぶりにルカに会ってくるかな」
「・・・・・・いますよ」
いつも返事などしないアンディがドアに手をかけて店内に入る寸前のリアムの背中に小さく呟き、思わずドアを手で押さえたリアムだったが、肩越しに振り返って目を細め、健闘を祈ってくれと笑って店の中に入っていく。
その背中を見送ったアンディは、己のスーツのポケットに入っている2枚の50セント硬貨を取り出して一頻り眺めた後、セキュリティスタッフの務めだと言わんばかりに表情を消し、リアムの後にもやってくる男女が入店するのに相応しい客かどうかを見極める作業に戻るのだった。
初めて店内に入ったヘンリーが興味深げに周囲を見回し、カウンターの中にいる、浅黒い肌にダークシャツを着ているが、顎の下あたりで綺麗に髪を切り揃え、派手な色合いではないものの目尻にだけグリーンのアイメイクとパールが入っているらしいリップを塗った、性別不明のスタッフに思わず目が釘付けになってしまう。
「どうした、ヘンリー?」
少し遅れてやってきたリアムが誰に注目しているんだとヘンリーに問いかけると、カウンターの中にいる、男か女かわからないスタッフとボソリと返され、ああと思わず素直に口に出してしまう。
「知っているのか?」
「ああ。この店のオーナーのルカだ」
「オーナー?」
「そう。店に出るのが好きでいつでもこうしてカウンターの中にいる」
一段下がっているフロアへの短い階段を降り、初めての店に興味とほんの僅かに委縮しているらしいヘンリーの背中を軽く押してカウンターの前に向かったリアムは、いらっしゃいといつもと同じようで少し違う声で出迎えられ、一つ肩を竦めて同僚のヘンリーだと紹介する。
「いつもリアムから聞いていたから一度来たかったんだ」
「そうなんですか? 嬉しいな」
リアムありがとうと、ヘンリーの言葉に営業スマイルに少し毛が生えた程度の笑顔で頷いたルカは、二人がビールを注文した為に頷いてグラスとよく冷えたボトルを二人の前にセットする。
「これは、僕から」
嫌いじゃなかったら食べてくれと、ナッツとチーズが盛られた皿を二人の間に差し出し、今日はイベントがあるから人が多い、気になる人がいたら踊って楽しんでほしいと笑い、ヘンリーの感謝の言葉に頷いて背中を見せたかと思うと、二人が乾杯をしてひとまず喉の渇きを潤した頃に二人の前に戻ってくるが、ヘンリーが背後のフロアやビリヤードやダーツボードで遊んでいる人たちを見る為に半ば体ごと振り返っている隙にリアムの前にコースターを差し出してくる。
それはルカがよく使う個人的なメッセージの伝達方法だった為、ヘンリーに気づかれないようにコースターに走り書きされた文字を読み、それをジーンズの尻ポケットにしまう。
「・・・怖がりの皇帝陛下は元気かな」
「うん、手の傷はもう完全に治ったよ」
後は心の傷だけど、それは、うん、僕の手には負えないから誰かさんに任せようかなと、日常会話を装った重要な話を伝えたルカにリアムが軽く目を伏せるが、背後から肩を叩かれて軽く驚きつつ体全体で振り返ると、無精髭を生やした同じく浅黒い肌にこちらは清潔感のある白いシャツを着たラシードが小さく笑みを浮かべて立っていた。
「久しぶり、ラシード」
「・・・・・・」
ラシードが声を出す事など数えるほどしか見たことのないリアムは、久しぶりと笑顔で手を差し出してラシードが握り返してくれたことに笑みを浮かべ、驚いたように見つめてくるヘンリーにここのもう一人のオーナーだと紹介し、ラシードには同僚のヘンリーだと紹介する。
「今日は今売り出し中のDJを呼んだんだ」
良かったら踊ってきたらどうだとヘンリーにルカが笑いかけ、それも良いけれどとリアムを振り返ったヘンリーだったが、俺のことは気にしなくて良いから行ってこいと笑ってリアムに背中を押されて躊躇いながらもDJがスタンバイをして盛り上がり始めたフロアの奥とカウンターを交互に見る。
「ここで飲んでいるし、もし気になる人がいれば先に帰っても良いからな」
「・・・本当は今日お前の話を聞いてパーっと盛り上げるつもりだったんだけどなぁ」
これじゃあ俺だけが楽しんでいるみたいだと申し訳なさそうな顔になるヘンリーの腕を拳で軽く叩いたリアムは、ここに連れてきてもらっただけで十分だ、後はそれぞれ楽しもうと笑って広げた手をひらひらと振ってヘンリーをフロアへと半ば強引に追いやってしまう。
盛り上がり始めた人の中に紛れ込むヘンリーの背中を見送ったリアムだったが、完全に見えなくなったと同時にカウンターに肘をついて深い溜息をこぼした後、項垂れるように頭を落とす。
「・・・リアム」
ヘンリーの前では空元気を見せていたことを見抜いたルカがビールのボトルが空になっていることに気付くと、ショットグラスによく冷えたジンを注いでリアムの顔の前にそっと置く。
「僕の奢り」
「・・・いつも奢ってもらってる気がするなぁ」
「そう? もしそうだったとしても良いんだ」
きみは本当に素敵な人だからと笑う友人に情けない顔で、でもありがとうと告げたリアムは、よく冷えたジンを一息で飲み干し、長い息を吐く。
その隣ではラシードが同じようにカウンターに肘をついて己専用のグラスでビールを飲んでいるが、リアムの腕を軽く突いて合図を送った後、何事だと見つめてくる情けなさに彩られた愛嬌のある顔に向けて顎でカウンターの奥のドアーそれは目立ちにくいようになっていたーを指し示し、ラシードが言わんとすることを理解したリアムがそっと頷く。
「・・・陛下に謁見しても大丈夫かな」
「今日は人が多いから寝てるって言ってたよ」
仕事が終わって真っ直ぐにここにやってきたが、夕食もロクに食べずに部屋で寝ているからなんなら寝込みを襲ってこいと笑顔で嗾けられて目を見開いたリアムは、ラシードもルカと同じ顔で頷いた事に気付いて二人揃って嗾けるなと眉尻を下げてしまう。
だが、寝込みを襲うかどうかは別にして、ロクに夕食も食べずに寝ていると聞かされては日頃の心配性がむくむくと頭を擡げてきて、様子を見てくると二人に少しだけ気合いを入れた顔を向けたリアムは、ラシードが案内すると言いたげに先に立って開けてくれたドアの向こうへと姿を消す。
リアムに己のことは気にするなとフロアの奥へと送り出されたが、それでも連れてきた手前やはり気になったのか、慌てた様子で戻ってきたヘンリーは、さっきまでリアムがいた場所に誰もいない事に気付き、さっきと同じ笑顔のままカウンターの中でグラスを傾けているルカに問いかける。
「ラシードがどうしてもリアムと話をしたいって言って連れて行っちゃった」
だからあなたは何も気にせずにフロアで踊ってくれ、そして喉が渇けばドリンクをたくさん用意しているから好きに飲んでと、ヘンリーが逆らうことのできない笑顔でフロアの向こうを示したルカは、良いのかと言いたげながらも、またリアムとは仕事の帰りに飲みに行こうと前向きに約束を破ると、後はリアムのことを忘れたようにフロアで踊っているのだった。
そんなヘンリーの様子に、良くも悪くも単純な同僚だと内心微苦笑したルカは、背後のドアの向こうで繰り広げられる光景を想像し、道に迷ったような二人が正しい道に戻れるようにラシードが手助けをしてくれることを心の底から強く祈るのだった。
ラシードの案内で入った部屋は二人の名前の頭文字だけが書かれたプレートが貼られていたが、そのドアを開けたラシードの後に続いて中に入ったリアムは、二人が寝ても十分広いベッドとソファ、オフィスではないが簡易的な仕事ができるようにとデスクやラップトップが置かれていて、廊下から見えた他の部屋から漂ってくる退廃的な空気が一切ないことに感心していた。
この雰囲気がきっとルカとラシードが本来持っている空気なのだろうと読み取ったリアムだったが、壁際のソファに目を向け、そこできつく眉を寄せながら眠っている慶一朗を発見する。
夢を見ているのかどうなのか、こんなにも苦しそうな顔で眠っている慶一朗をリアムは見たことはなく、きしりと胸を痛めてしまう。
「・・・苦しそうな顔してるなぁ」
悪い夢でも見ているのかと呟き、ソファの前に座り込んだリアムは、いつもに比べれば血色も肌艶も悪く見える頬を指の背で撫で、目を覚まさない事につい掌で髪をそっと撫でる。
久しぶりに感じる慶一朗の髪や肌の感触に元気そうだがそれでも先週まで己が見ていた時と比べれば生気がないように思え、髪を撫でた手で頬を撫でる。
その様子をテーブルに尻を乗せて腕を組んでじっと見つめていたラシードだったが、リアムの手の動きに慶一朗が目を覚ましたらしく、ソファから床に向けて垂らされていた手がのろのろと上がり、己の顔の前にあるリアムの頬を確かめるように撫でた後、今まで目にしたことがない、幸せを具現化したような笑みを浮かべる端正な顔がリアムの体の横からちらりと見えて目を見張ってしまう。
ルカやラシードと慶一朗が出会ったのはもうかなり前の話だが、自分達にも見せたことがない顔を寝ぼけているとはいえリアムに見せたことから、二人きりの時にはこんな顔を見せているのだと気付いたラシードは、いったいいつまで意地を張っているつもりだと瞬間的に慶一朗を怒鳴りつけたい気持ちになってしまう。
それをデスクの端を握りしめることでぐっと堪えたラシードの前、リアムが己の頬に合添えられた手に手を重ね、久しぶりと呟く声に目を伏せて様子を見守る。
己の背後でラシードがそんな気遣いをしてくれていることなど想像もしなかったリアムは、睡魔に覆われて茫洋とする双眸に目を細めておはようと掠れる声で呼びかけるが、次の瞬間、頬と手で挟んでいた傷跡などすっかり分からないきれいな手が勢いよく離れて慶一朗が飛び起きる。
「・・・っ!!」
リアムと距離をとるようにソファの背もたれに体を張り付ける様が悲しかったが、寝惚けていたのかと苦笑交じりに問いかけると、前髪をかき上げながら慶一朗が頭を上下させる。
「・・・夢だと・・・思っていた」
夢だから好きにしてもいい、思うままにしてもいいと思ったからお前に触れたと告白されてリアムとその後ろにいるラシードが呆然と目を見開く。
夢だから思うままにしてもいい、その結果リアムも滅多に見ないただ幸せそうな笑みを浮かべた事実からリアムが得たのは、先週告げられた別れはやはり本心からではなく恐怖心から咄嗟に出た反応だという真実だった。
条件反射的なそれが慶一朗の場合は別れへと直結するのだと改めて知ったリアムは、ソファの座面に額をぶつけて肺の中が空になるような息を吐き、その様子に慶一朗が恐る恐る名前を呼ぶ。
「リアム・・・?」
「・・・うん」
ちょっと何か疲れたなぁと呟いた後、勢い良く顔を上げて己の両頬を豪快な音を立てて叩いたリアムの様子に慶一朗とラシードが驚愕の顔で固まってしまう。
「なあ、ケイ」
「・・・なんだ」
「うん。付き合うときに話をしようって言ったのを覚えているか?」
イースター休暇を目前に控えたあの時、問題が起きてもちゃんと話し合おう、思っていることを口にしようと約束をしたが覚えているかと問いかけられて素直に頷いた慶一朗だったが、うん、だから話をしようと穏やかな顔で見つめられて唇を嚙み締める。
リアムにとっては理不尽としか思えない別れを告げられ、毎日様子を窺っているメッセージを送っても言葉一つも返さない上に、家にすら帰らないでこのままフェードアウトを狙ってるような己にどうしてここまで穏やかな顔を見せられるのだろうか。
その疑問からどうしてと問えば、約束だからと不思議そうな顔で返され、そうじゃないと首を左右に振る。
「・・・俺が・・・今まで無視していたのに・・・どうして」
そんな顔で笑っていられるんだと、己ならば感情のままに怒鳴り散らしているのにと、本人に自覚があるのかないのか分からない情けない顔で問いかける慶一朗を真正面から見つめたリアムだったが、ふっと短く息を吐いた後、破顔一笑。
「うん、やっぱりお前が好きだから、だな」
「・・・!!」
どれだけ手酷く振られても、ロクに食事をしていないと聞かされれば気になるし、あまり顔色も良くない様子を見ると本当に心配だと自虐的に笑うリアムに慶一朗が拳を握り締めて唇を噛む。
その様子が、まるで子供が本当に思っていることを口にできないもどかしさや辛さを訴えている時と同じだと気付き、頬に手を重ねて顔を上げさせると、噛み締められた唇が痛々しくて、制止させるようにキスをする。
「もう腹も立っていないし怒ってもない」
だから親友の家に転がり込むのではなく自分の家に帰らないかと、薄く開く唇を指先で撫でて家に帰ろうと笑顔で手を差し伸べると、慶一朗が一度視線を泳がせた後、いつもに比べれば小さいが両手を広げた為、その腕の中にいつものように体を押し込んだリアムは、久しぶりに抱きしめることのできた慶一朗の温もりに無意識に安堵の息をこぼす。
言葉に出して謝ることを知らない慶一朗なりの謝罪方法だったが、それが幼い子供が己を庇護してくれる大人へ向けた、抱きしめてほしいという本能の要求と同じだと気付いているのだろうか。
子供が眠くなり親に抱き上げてほしい、悲しいから抱きしめてほしい、怖いから誰かの腕の中にいたい、そう強請る時と同じ顔をしていることに気付いているのだろうか。
そう考えた途端、途轍もない痛みが胸に芽生えたリアムは、細い体を思いっきり抱きしめてしまい、小さな苦しいという声が聞こえるまで力を緩めることが出来なかった。
DJが盛り上げている音など一切届かない静かな部屋で慶一朗をただ抱きしめていたリアムだったが、そっとドアが開いた事に気付いて慌てて慶一朗から離れようとするが、今までならばさっきのように自ら離れたはずの痩躯が逆にしがみつくように身を寄せてきたことに気付いてただ驚いてしまう。
この部屋に入ることが出来るのがルカとラシードだけであることをリアムは知らなかったが、それを教えるように大丈夫と腕の中から小さな声が聞こえてくる。
「ここに入ってくるのはルカとラシードだけだ」
「そうなのか」
今ラシードはデスクに尻を乗せてこちらを見守っているから入ってきたのは当然ながら残りの一人、ルカだけになると気付いて視線だけを向けると、ダークシャツの背中がちらりと見え、ラシードの横に並んだことに気付く。
「・・・ルカ、ラシード」
「何だい、甘えん坊で怖がりの僕の大親友」
リアムの腕の中から上がる小さな声にもルカが笑顔で返すが、そこに皮肉を込めることは忘れていなかったようで、甘えん坊の怖がりと繰り返すと、リアムの肩に顎を乗せた慶一朗が憎たらしそうな顔で舌を出し、己を抱きしめている体の横で中指を突き立てる。
「一週間も世話を焼いていた親友によくそんな態度を取れるな!」
「親友だから取れるんだ」
慶一朗のその態度にルカが目を吊り上げるが、当然ながらどちらも本気ではなくただ言葉遊びのようなものを繰り広げ、ラシードがいい加減にしろと言いたげに咳払いをする。
「白馬の代わりに白いジープに乗っている王子様が迎えに来たみたいだね」
「・・・・・・うん」
「今日は店が騒々しい。ラシードと一緒に裏口から帰れば良いよ」
今回の騒動のお詫びはリアムの手料理とケイのコーヒーで良いかなと笑うルカの横でラシードも同じ顔で頷き、それを見た慶一朗がリアムに合図を送って腕の中から離れると、二人の間に立って二人の親友に向けて両手を広げて肩を抱きしめる。
「ダンケ、ルカ、ラシード」
お前たちがいなければ俺はきっともっと酷いことになっていたと礼を言う親友の背中を二人が左右から抱きしめると、痴話げんかもいいけれど家出をする前にもっと向かい合って話し合えと今後の二人に必要なことをルカが提案する。
「そうする」
「うん。・・・リアム、同僚のヘンリーには上手く言っておくから今日はこのまま帰ったら良いよ」
「あ、ああ、助かる」
この部屋に入った時点ですっかりヘンリーのことを忘れていたリアムが微苦笑し、楽しんでくれと伝えてほしいと告げると、座り込んでいた床から立ち上がり、慶一朗に一緒に帰るかと何かを確かめるように問いかける。
ルカとラシードの前で少しの間をおいて振り返った慶一朗の顔に浮かんでいるはにかんだような笑みを見たリアムは、その顔を背後の二人は見ていないのだと気付くと、さっきと同じ顔で一歩を踏み出して慶一朗の手を取る。
「ダンケ、ルカ、ラシード。来週また来るけど食いたいもののリクエストを考えててくれ」
「うん。考えておくよ」
ルカが笑顔で手を振りラシードがデスクから腰を浮かせると、後は任せろとルカに目配せをする。
リアムは電車でここまで来ていたが、慶一朗が愛車を店の駐車場に停めているため、それで家に帰ろうとリアムにいつもの顔と少しだけ何かが違う顔で告げた慶一朗にリアムも頷き、再びラシードの案内で部屋を出る。
その直前に振り返った部屋でルカが本当に嬉しそうな顔で見送ってくれている事に気付き、二人が本当に自分たちを応援し心配してくれているのだと改めて気付いたリアムと慶一朗は、胸の内で感謝の言葉を伝え、後日改めて言葉だけではなく料理などで二人をもてなそうと決めるのだった。