合コンで元彼の五条悟と再会
*
*
*
*
*
彼は私のこと、そんなに好きじゃなかったと思う。
誰かに元彼の話をする度に、私はその言葉を決まり文句のように吐き出していた。
事実、きっと彼は私のことを好きではなかったと思うし、それでもいいと思っていた。だから別れの言葉を告げられた時は「あぁ、うん。わかった」なんて素っ気ない一言で、それこそ呆気なく終わったものだった。
五条悟はそういう男だ。私はそう自分に言い聞かせた。
あれ以来、彼氏を作っていない私を哀れに思った友達から、合コンの誘いが来たのはつい最近の出来事だ。どうするか悩んだが、私の事を心配してくれての事だろうと、私は数年ぶりに重たい腰を上げたのだった。
別に恋が億劫なわけでも、元彼である五条悟のことを引きずっているわけではない。ただ、仕事が忙しいのだ。
呪術師という仕事は昼夜問わず、いつだって仕事場へと駆り出される。そんな職場での出会いなんて無きに等しく、もし仮に一般人と恋をして、一体どれだけの人がこの呪術師という職業に理解を示してくれるのだろうか。
私は高専の女子トイレで、この日のために新しく買ったリップを薄く唇に伸ばした。いつもより三センチも高いヒールは、少しだけ世界を変えたようだった。
「こんなもんか」
朝、昼とこなした任務の報告書を提出し、伊地知くんと少し話をした後に、こうして着替えてメイク直しに勤しんでいるわけだが。リップを塗ったばかりの唇からため息が溢れる。
カツン、と下ろしたてのパンプスを鳴らしながら、私は女子トイレを出る。
グラウンドから聞こえてくる元気な学生たちの声を聞きながら、少しだけ自分の学生時代を思い出す。溢れる笑みが多少苦々しいのがなんとも言えないが、確かに私だって青春をしていたんだろうと、少しだけ思うのだ。
電車に揺られる事おおよそ三十分の場所に、そのお店はあった。カジュアルなイタリアンレストランには、シックなBGMがしとやかに流れていた。スタッフに奥のテーブルへと案内されれば、既に主役たちは集まっていて、軽く雑談を交わしているところだった。
「お疲れ様、待たせてごめんね」
「ううん、みんな揃ったばかりだから大丈夫だよ」
中学時代からの友達の隣に腰を下ろせば、目の前には多分恐らく世間ではイケメンと呼ばれるのであろう男子数名がずらりと並んでいた。先にメールでもらった情報によると、みんな大手企業や証券会社のエリートや商社マンに企業家さんというもんだから、よくもまぁこんなにも優良物件を揃えれたもんだと感心する。
各々注文したグラスを片手に持って乾杯をする。仕事終わりのスパークリングワインが身体に染みるのを感じながら、私は友人たちとイケメンが交わす雑談に耳を傾けた。
「ご職業は何をされてるんですか?」
「あー…えっと…なんでしょう?」
「はは、秘密の職業ですか?余計気になるなぁ」
目の前の起業家の佐藤さんが、白い歯を見せて豪快に笑った。対照的に私は渋い笑顔で誤魔化した後、グラスに残っていたスパークリングワインを一気に飲み干した。
それでも、佐藤さんは私の事がどうやらお気に召したらしく、あれやこれやと次々に質問を投げ掛けてくる。出身校に血液型に誕生日、趣味や好きな芸能人。私は引きつる笑顔で質問に応じていく。コンパってこんなに疲れるものだったかな。どんよりとした気分で運ばれてきたマルゲリータに手を伸ばした時だった。
ザワザワと店内が少しだけ騒ついた気がした。友達が隣で有名人でも来たのかな、と楽しそうにはしゃいでいるのを横目に私は店内を見回した。どうやら、誰かの来店に騒ついたことに間違いはないようだった。
「見て!あそこの人!めっちゃ身長高くない!?」
「え…?どの人…」
友達が示す方向へと視線を向けた。そこには、黒いカジュアルスーツに白髪にサングラス。惜しげもなく長い足で店内を闊歩しているのは、見間違えるはずもない五条悟だった。
なんで、と小さい言葉を零すと同時に、悟がこちらに視線を向けた。そしてズンズンと長いコンパスを動かしてこちらにやってくる。
「お疲れサマンサ〜〜」
そう言って、私の目の前のイケメンを横にずらしながらドシリと椅子に座る悟は、私を見てにこりと笑った。
「え、え!?ウッソ、めっちゃイケメンじゃん!?」
私を除いた女子三人が、一斉に声を上げた。私は、いまだにこの状況が理解出来ず、開いた口が塞がらない。どうして、と言葉が出る前に悟が楽しげに口を開いた。
「七海の知り合いが誘ってくれて、ね」
意味ありげにそう言った悟は、運ばれてきたばかりのコーラを一口飲んで笑う。もしかして、と私は思い出したように、一番奥に座る証券会社に勤めていると言っていたエリート男を見た。
私は誰にもバレないように深いため息をついた。新しく頼んだ赤ワインを口にして、にこりと私をお気に召してくれていた佐藤さんに微笑みかけた。
「佐藤さんってどんな人がタイプなんですか?」
急に話題を向けられた佐藤さんは一瞬驚いた顔をしていたが、五条悟の登場により霞みかけていた自分の存在を見つけてくれた事により一層好意を抱いたのだろう、また白い歯を見せて笑いながら私の質問に答えてくれた。
「そうだなぁ、慎ましやかで料理上手な人がいいですね」
「そうなんですね!私、実は…」
「キレたら窓ガラス破るわ、料理は黒炭になるわのお前じゃ無理だね」
「…は?」
私の言葉を遮るように発言したのは、紛れもなく目の前の男、五条悟だった。私と佐藤さんの間に沈黙が走る。私は慌てて笑顔を繕って見せた。そして、思いっきり悟の長い足をパンプスの爪先で蹴り飛ばした。
「イッテ!?」
「あら、ふふふ…ごめんなさいね。…ところで佐藤さんご趣味は?」
「えっと、僕はゴルフが好きなんですよ。月に二回は行っちゃうんですよね」
「ゴルフ!私、ゴルフには以前から興味があって…」
「そういえば、金属バットなら振り回すの得意だったっけ?」
「金属バット…?」
「ちょっ、悟!いい加減にしてよ!」
私は思わず悟に向かって声を張り上げた。さっきから人の邪魔ばかりして、なんのつもりなんだ。
私が大声を上げて椅子から立ち上がったせいか、今まで楽しく喋っていたはずのメンバーも、驚いたように口を閉じてしまった。きまづい雰囲気が辺り一面に広がった。
やってしまった。私は頬に熱が集中するのを感じて、そのままずるずると椅子へと座り込む。ぐしゃりと、視界が涙で歪んでくる。友人が気を使って声をかけてくれるけれど、ただただ申し訳ない気持ちと恥ずかしさが込み上げてくるだけだった。
私は友人に一言告げて先に帰ろうと、顔をあげようとした時だった。
「この子、具合悪そうだし連れて帰るね」
「さ、とる…!?」
ぐい、と悟に腕を引かれて私は強制的に店を後にした。私のピンヒールなんてお構いなく、ズンズンと人混みを歩く悟にようやくストップをかけられたのは、店を出て五分歩いた先のところだった。
悟に触れられた腕が熱い。心臓の鼓動が早いのは慣れない靴で早歩きしたせいだ。私はそう自分に言い聞かせて、悟から距離を取るように二歩後ろに下がった。
久しぶりに見た悟は少しだけ大人びていた。同じ呪術師でも悟は特級で私は準一級で、術式の相性もそんなに良くない私たちは同じ任務に就くこともなく、気がつけば卒業してからもう何年も顔を合わせていなかった。
足のかかとが靴ずれを起こしてジンジンと痛かったけれど、それ以上にまるで昔の古傷だとでもいうように心がジンジンと痛んだ。
「…で?なんの用?からかいにきたわけ?特級ってそんな暇だっけ?」
「君は僕の隣にいたあの胡散臭そうな男がいいわけ?趣味わっる!」
「悟には関係ないでしょ。別に私が誰と付き合って、結婚しようと」
「あるでしょ」
「ないでしょ」
「いーや、あるね」
「ちょっと、悟なんなの!?」
サングラス越しでも悟の視線が、確かに私の方へ向いているのがわかった。一体、今更なんの私になんの用事があるというのだ。私は悟の視線から逃げたくて、くるりと背中を向けた。少しだけ期待してまた終わるのは、もうコリゴリなんだ。
私たちの青春はもう十年も前に終わってるのよ。
秋の夜風は少しだけ肌寒い。私は震える唇を噛み締めて、悟から去ろうと一歩足を踏み出した時だった。
「好きだよ」
ざわめいた街中で聞こえる掠れた声は、確かに悟のものだった。私は一瞬息を呑んだけれど、足を動かすことをやめなかった。カツン、カツン、カツン。ヒールの音だけに集中して、悟の声を、言葉を、掻き消した。お願いだからこれ以上、私の心を乱さないで。
それ以上、悟は言葉も発しなければ、追いかけてもこなかった。これでいいのだ。私は安堵のため息を吐きながら帰路についた。
ピピピ、とスマホのアラームで目が覚める。私はまだ覚醒しきらない脳でアラームを止めた。あのコンパの日から三日が経った。
私は重たい身体を起こして、カーテンを開ける。少しだけ雲の多い空が目の前に広がった。
あの日は、靴ずれした足を引きずって家に帰ると同時に、ポケットの中のスマホがブルリと震えた。恐る恐るスマホの画面を確認すると、今日コンパに誘ってくれた友達からのメッセージを受信しているようだった。
私はコンパを開いてくれたことへの感謝と同時に、台無しにしてしまったことを謝罪した。
あれから、悟とは会っていない。元々、何年も会っていないのだから、なんの不思議もないはずなのに。あの日の夜の、悟の言葉が頭から離れない。
「ほんと、すぐに人のこと振り回すんだから」
私は窓のすぐそばにあるチェストに飾られた写真立てを手に取った。そこには学生服に身を包んだ、悟と傑と硝子と私の四人が笑っていた。指で悟の顔をなぞる。どうして今更、なんだろうか。彼は、私のことを好きではなかったはずだ。
写真立てをチェストに戻して、身支度を整える。今日は朝から任務が一件入っていた。おそらく、もう少しでマンションの近くに黒塗りの高級車が止まるはずだ。
私は八時三十五分を示す時計を見ながら、洗面所へと駆け込んだ。
おそらく、これは誰もが予想していなかった事だと思う。私は自分に与えられた任務の情報を、頭の中で今一度思い出す。
二級呪霊が三体、廃墟となった工場に巣食っていると確かにそう書いてあった。それを祓うのが今日の私の仕事のはずだったのだ。しかし蓋を開けてみれば、現実はそうではなかった。
一級呪霊が二体、二級呪霊が二体と誤情報にも程がある、と私はため息をついた。二級呪霊は既に祓い終わったが、問題は残りの一級呪霊二体だった。高い場所でゲラゲラと私を見て笑う呪霊に、私はどうしたものかと思考を巡らす。
どうやら私の人生はここまでのようだ。一級呪霊とは何度対峙したことはあるが、同時に二体は私の力量では恐らく待ち受けているのは死だ。残りの呪力量を考えても、一体祓うのが限界だろう。
「あーあ、なんで最後まで頭に浮かぶのがアイツの顔なんだろう…」
こんな状況の中でも、頭に浮かぶのは悟の顔とあの日の言葉だった。
一級呪霊が大きな声を上げて襲い掛かってくる。私は残りの力を振り絞って術式を発動しようとするが、いつの間にか後ろに回り込んでいたもう一体の呪霊にバランスを崩される。しまった、と思う時にはもう遅く、目の前の呪霊に腹部を引き裂かれた。
「ぐ、ぁ…ッ」
視界が赤に染まる。
痛い、怖い、痛い、悟、嫌だ、死にたくない。
ぶわりと全身から汗が噴き出すようだった。冷たいコンクリートに身体を打ち付けても、もう痛みは感じなかった。あぁ、そうか。死ぬのか。死を直感した瞬間、悟へのどうしようもないぐらいの愛が溢れてきた。
「さと、る…」
視界がどんどんと滲んでくる。ねぇ、悟、私も好きだよ。ごめんね、答えてあげられなくて。どんどんと意識が薄れていく。
「勝手に死ぬなんて、僕は許さないよ」
悟の声が、聞こえた気がした。
付き合って、とまだセミも鳴かない初夏の日だった。二人きりの教室でそう言ったのは、悟の方だった。私はプリント用紙に走らせていたシャーペンを止めた。ポキン、と小さな音を立てて折れたシャーペンの芯が、プリント用紙に転がった。私はなるべく無関心を装いながら、隣で長い足を机に収めきれずに投げ出してだらりと天井を見上げる悟の方を見た。
「え、なに?買い物?」
「ちげーよ」
彼はベェと舌を出しながら苦い顔をした。そして、眉間にシワを寄せながら、私に向かって確かに「俺ら、付き合おうぜ」と言ったのだった。
「え、悟と?私が?なんの冗談?傑となんのゲームしたのさ」
「……は?お前、俺と付き合うの嫌なわけ?」
「嫌というか…突拍子もないから困ってる」
「じゃあいいじゃん。ハイ決定〜〜!」
悟が大きな音を立てて、椅子から立ち上がった。そして机と椅子を蹴散らしながら、私の方へ歩いてくる。そして、その大きなその身体を目一杯折り曲げて、ついさっき塗り直したばかりのメンソールリップの上にキスを落としてきた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。私は逃げるように椅子から立ち上がって悟の身体を追い越した。全速力でトイレに駆け込み、個室のドアを勢いよく閉める。
キスされた唇がジンジンと熱を持ったようだった。熱い。甘い。頬に集中する熱を逃そうと、私はふぅとため息をついた。
それから三日後の任務の帰り道、私と悟は手を繋いだ。たくさんの人が集まる原宿で、クレープを食べた。傑と硝子に隠れるように、二人でこっそりと深夜に悟の部屋で桃鉄しながらケーキを食べた。
付き合って三ヶ月後に、初めてのセックスをした。気持ちいいなんて、嘘だ。ただただ痛かったけれど、悟が頑張って優しくしてくれた、と思う。
この恋が楽しかったかと問われれば、楽しかったと私は間違いなくそう答えるだろう。だけど、心の奥底ではいつだって不安だった。いつか、きっと終わりがくると信じて止まなかった。
悟が付き合おうと言ったのは、いつもの気まぐれだと思っていた。所詮、恋人ごっこだと思っていたのだ。だから、私は悟からいつも一歩距離を置いていた。別れを告げられた時の、傷が少しでも浅く済むようにと。
そして、その時は訪れた。
「別れよーぜ、俺たち」
その日も教室には私と悟の二人きり。まだ、残暑が残る蒸し暑い教室で、悟は確かにそう言った。私はプリント用紙に走らせていたシャーペンを止めることもなく、そして悟の方に振り向くわけでもなく、ただ一言「あぁ、うん。分かった」とそう告げたのだった。
懐かしい夢を見た。夢を見るということは、私は生きているということだ。私は重たい目蓋をゆっくりと開けると、見飽きた白い天井がすぐに飛び込んでくる。
「起きた?」
「…ねぇ。なんであの時さ、付き合おうって言ったの?」
聞き間違えるはずのない、悟の声に私は夢の続きを探すように質問した。
「僕が君のことずっと好きだったからに決まってるでしょうが」
「悟って私のこと、好きだったの?」
「え…え?今更?マジ?」
「割と本気でマジかなぁ」
「……今でも好きって思う程には、好きだよ」
悟の声のトーンが少しだけ低くなった。悟が本当に真剣な時にだけ出す、特別な声だ。そうか、悟は私のことが、好きだったのか。何も答えない私の様子を探るように、悟の大きな手が、私の手を握りしめた。懐かしい悟の手は、相変わらず私の手を優しく包み込むのだ。
「君は、僕のこと好きじゃなかったよね」
「うん、好きじゃなかった」
「はっきり言われると、さすがの僕でも傷つくんだけど…」
「嘘だよ。…好きだったけど、自信がなかった、の…」
悟が私を好きだという自信がなかった。一度も悟から聞いたことのない「好き」という言葉に縛られていた私は、きっと悟を傷つけていたのだろう。ごめん、と掠れた声で謝ると、私の手を握っていた悟の手の力がより一層強くなった。
「今でも好きなんだけど。僕たちやり直せたりするんじゃない?」
「その自信、どこから来るの?」
「五条悟だからね」
何それ、と笑うと治りきっていないお腹がジクリと痛んだ。
「ねぇ、悟」
「んー?何?」
「好きって、言って」
死際に聞こえた、悟の言葉をもう一度聞きたかった。ベッドサイドの椅子から悟が立ち上がる音が聞こえる。あの日を再現するかのように、悟が大きな身体を目一杯折り曲げて、私のカサついた唇にキスをする。
「好き。ずっと好きだった。今も好き」
コツン、と悟の額が私の額にくっついた。悟の綺麗な瞳がゆるりと揺らぐのが見えた。私の様子を伺っているようだった。
「私も好きって言ったら、どうする?」
「僕のめちゃくちゃ喜ぶ顔が見れるよ」
「笑わせないでよ、傷に、響くんだから、さぁ…!」
「君も好きって言ってよ。僕だけってズルイでしょ」
「……好き。ずっと、好きだったんだよ」
そう言って、まだあまり力の入らない腕を思い切り持ち上げ、悟の襟を掴んだ。そしてグッと引き寄せて、悟の薄い唇に触れるだけのキスをする。そっと唇を離せば、悟は一瞬驚いた顔をした後、ぶわりと頬を朱に染めた。
「ね、悟。私たち、付き合おっか」
十年前の恋が、リスタートする。