テラーノベル
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私の世界は、いつも雨が降っているような色をしていた。
生まれた時から『不運』だった。
遠足の日は必ず台風が来たし、楽しみにしていた遊園地は臨時休業になった。歩けば転び、触れば壊れ、近づけば人が離れていく。教室の端の席で息を潜めて本を読んでいても、突然棚から辞書が落ちてきて頭を直撃した。
「カリスちゃんといると、悪いことが起きる」
陰口は、壁越しでも雨音越しでも、どういうわけか鼓膜によく届いた。その度に、私は少しずつ世界の外側へと押しやられていくような感覚がした。
最初は悔しかった。次は悲しかった。やがて、何も感じなくなった。
唯一の例外は、おじいちゃんだった。
「不運も個性だよ」と笑ってくれた、世界でたった一人の味方。
その人が逝った日、私の世界から完全に色が消えた。厚いカーテンを引かれたみたいに、すとん、と。
だから、あの午後のことは今でも鮮明に覚えている。
雨の公園。濡れたベンチ。私は傘も差さず、膝に手を置いて、ただアスファルトを弾く雨粒を見ていた。家に帰れば、冷え切った部屋が待っている。誰かのために温かくしておく必要のない空間。それを『家』と呼ぶのが、ひどく苦しかった。
「……よお。隣、いいか?」
不意に、上から声が降ってきた。
顔を上げると、黒いスーツを着た男性が立っていた。灰色の長い髪を後ろで束ね、帽子を目深に被っている。その顔にはひどい疲労の色が滲んでいたが、口元には人懐っこい笑みが浮かんでいた。もっとも、その笑みは目までは届いていなかったけれど。
「……どうぞ。でも、濡れますよ」
「構わねえよ。どうせ、どこに行っても泥沼だ」
彼は自嘲気味に笑って、私の隣にドサリと腰を下ろした。まるで、長い間立ち歩き続けた人間が、ようやく膝の力を抜いたみたいに。
それから彼は懐を探り、温かい缶コーヒーを二本取り出すと、そのうちの一本を私の冷え切った頬にぐいと押し当てた。
「ほらよ。冷えちまうぞ」
「えっ……?」
「ガキがそんな辛気臭い顔してんじゃねえ。……奢りだ」
有無を言わせず指に握らせられた缶コーヒー。
その熱が、凍えていた指先からじんわりと体の内側へ伝わってくる。誰かに温めてもらうのが、こんなに久しぶりだとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
「Chanceだ。……ま、しがないギャンブラーさ」
「私は、カリスです」
それから、私たちは雨の日にだけ、よく会うようになった。
約束をしたわけでも、示し合わせたわけでもない。私が孤独を紛らわせるためにあの公園へ行くと、彼もまた、何かから逃れるようにそこにいたのだ。
「またマフィアの追っ手を撒いてきたんですか?」
「ああ。今日は三人ほどいたな。……カリスこそ、また何か壊したのか?」
「はい。今日は学校の廊下の窓ガラスを……何もしてないのに」
「『何もしてないのに』が枕詞になってる時点で、だいぶ重症だな」
彼は呆れたように鼻で笑ったが、その瞳は優しかった。
嘲るような笑いじゃない。私にはそれが分かった。私たちは似た者同士だったのだ。方向は真逆でも、『運』という巨大な力に翻弄されているという意味では。
彼は強すぎる幸運を持て余し、私は凄まじい不運を持て余していた。だから、話が合った。あのベンチの上でだけは、世界から見放された二人だけの時間が流れていた。
ある日、Chanceさんは上機嫌だった。
カジノで大勝ちしたらしく、珍しく帽子を少し後ろにずらしている。
「見ろよこれ。ちょっとした富豪から巻き上げた戦利品だ」
彼が革のポケットから取り出したのは、銀色の懐中時計だった。精巧な彫刻が施された蓋が、ヴィンテージ特有の柔らかい光を弾いている。
「わあ……綺麗」
「だろ? 世界に数個しかない特注品らしいぜ。まあ俺は時間より『運』を信じるタイプだから、時計自体には大して興味ないんだがな」
彼は時計を眺めて満足気に笑っていた。
しかし、ふと私を見て、何かを思いついたような顔をすると――その高価な時計を、無造作に放り投げてきた。
「やるよ」
「えっ!?」
反射的に両手でキャッチする。手の中で、カチカチと微かな脈動がした。
「そ、そんな高価なもの! それに、私が持ってたらすぐ壊しちゃいますよ。私、ツイてないんで……」
「だからやるんだよ」
彼はニッと笑って、缶コーヒーのプルタブを開けた。
「俺の『運』をお裾分けってわけだ。……これを持ってりゃ、お前のその筋金入りの不幸も、少しはマシになんだろ」
ただの気まぐれだったのかもしれない。
それでも私には、その言葉が、今まで誰かに言ってもらいたかった言葉のど真ん中に突き刺さった。
私の『不運』を直そうとしない。否定もしない。ただ笑い飛ばして、自分の『幸運』を私の隣に置いてくれる人。
「……ありがとうございます。大切にします」
「落とすなよ。拾ってやる気はねえぞ」
「はい……!」
私は時計を胸ポケットにしまった。
カチ、カチ、カチ……。
心臓の音に重なる秒針のリズムが、「お前はここにいていい」と言ってくれているみたいで、胸の奥がじんわりと温かかった。
そして、あの日が来た。
おじいちゃんの四十九日の法要があった日。
私は黒い喪服を着て、雨の降る街を一人で歩いていた。法要が終わり、親戚たちは足早に帰っていった。私に声をかけてくれる人はいなかった。
静かな街。アスファルトに落ちる雨粒の音だけが、等間隔に続いている。
胸ポケットの時計が、いつもより重く感じた。
ふと、路地裏の方から見覚えのある後ろ姿を見つけた。
Chanceさんだ。
黒いスーツに、灰色の髪。でも、いつもと何かが違う。肩の角度か、足の運び方か――どこか、ひどく弾んでいる。追い詰められた人間の動きではない。
「……ああ、分かった。iTrapped、お前だけが頼りだ」
電話をしているようだった。声が断片的に聞こえてくる。
「……ハッ、持つべきものは親友だな」
以前、何度か話に出てきた名前。マフィアとの手打ちを手助けしてくれるという、都合の良すぎる『古い友人』。
私はその話を聞くたびに、胸の奥に小さな棘が刺さるような違和感を覚えていた。
(……嫌な予感がする)
私の直観が、警鐘を鳴らしていた。
物が壊れる前、人が去る前、世界が私に牙を剥く前。いつも、こういう嫌な胸騒ぎがするのだ。
彼は電話を切り、路地裏のさらに奥へと入っていく。
その先は、再開発中の工事現場だ。人気はない。明かりもない。
「……Chanceさん」
私は迷わず、後を追った。
もし予感が外れていたら、後で笑い話にすればいい。
でも、もし当たっていたら。もし当たっていたら、私がいなければ、誰が彼に危険を知らせるというのか。
予感は、最悪の形で的中した。
工事現場の奥。行き止まりのコンクリート壁の前。
Chanceさんは、黄色い肌の男――iTrappedと向かい合っていた。
そして、その男の手には、真っ黒な銃が握られていた。
「……てめぇ、俺を売ったのか!?」
Chanceさんの声は、怒りよりも先に、深く傷ついているように聞こえた。心から信じていた人間に裏切られた、絶望の声。
「悪く思うな。これもビジネスだ」
銃口が、Chanceさんに向く。
引き金に、指がかかる。
その瞬間、私の体は、思考よりも先に動いていた。
「Chanceさん!」
物陰から飛び出し、二人の間に割って入る。
両手を広げる。こんなことで銃弾が防げるなんて思っていなかった。それでも、体が勝手に動いたのだ。
「カリス!? 馬鹿野郎、なんでついてきた!」
彼の目が見開かれる。
次の瞬間、強い力が私の肩を激しく突いた。
「どいてろ! 死ぬぞ!」
彼が私を横へ突き飛ばした。
私は濡れたコンクリートに尻餅をつき、膝を擦りむいた。
同時に、銃声が轟いた。
バンッ!
Chanceさんは濡れた鉄板の上を滑るように身を翻し、神がかった動きで弾丸を躱した。
彼を逸れた弾丸は、背後のコンクリート壁に当たって跳弾し――あり得ない軌道を描いて、頭上の巨大な鉄骨を支えていたワイヤーの留め具を直撃した。
ブチリ。
その音は、雨音よりも小さかった。
なのに、世界の全ての音を止めてしまったみたいに、くっきりと鼓膜に響いた。
スローモーションで、それが見えた。
数トンはある鉄骨とコンクリートの塊が、留め具を失い、頭上から角度を変えながら落ちてくる。
「カリス――!!」
Chanceさんが、絶望に満ちた顔で私の方へ手を伸ばした。
でも、足が滑っていた。届かない。
私は、彼に突き飛ばされた場所に座り込んでいた。
崩落の、まさに真下に。
(ああ、そっか)
死ぬんだ、私。
でも、不思議と怖くなかった。
むしろ、ひどく頭が冷えていた。
Chanceさんは、あの場所にいない。
私を突き飛ばした時、彼は横へ逃げた。だから、あの鉄骨の下には、いない。
良かった、と思った。
心の底から、本当に、そう思った。
私は胸ポケットに手を当てた。
指先に、時計の硬くて冷たい感触が伝わる。
彼がくれた、幸運のお守り。
不思議なことがあるものだ。
世界で一番不運な私が、人生の最後だけ、少し幸運だったみたいだ。
だって、彼が無事だったのだから。
ガシャアアアアアンッ!!!
轟音。
全身を貫く激痛。
それから――完全な静寂。
胸ポケットの中で、砕け散った時計の針が止まった。
23時59分。
あと一秒で日付が変わる、その境界線で。
私の時間は、そこで完全に止まった。
……はずだった。
次に目を覚ます時。
私はどこかの荒廃した街の、泥の上に倒れている。
遠くから、地響きのような怪物の足音が近づいてくるのを聞きながら。
そして再び、あの灰色の髪のギャンブラーと出会うことになる。
終わらないゲームの世界で。
今度は、二人で並んで走りながら。
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