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「はあ―――。ちゅうもーく。そんではアプローチ練習をはじめまーす」
こんなにあからさまに面倒くさそうに部下を指導する上司なんて、他にいるだろうか。
篠崎と新谷の元、すくすくと素直に育っている金子と細越も苦笑した。
「お忙しいところ申し訳ありません、よろしくお願いします」
「お願いします」
その中で新谷だけが一人、曇りなき笑顔で紫雨を見つめている。
「嬉しいなぁ!アプローチ練習つけてもらうのなんて、初めてじゃないですか?!」
「はあ?お前、天賀谷にいたことあっただろ」
紫雨が展示場の階段の1段目に足をかけながら新谷を睨む。
「はい。でもアプローチ練習はしてもらったことないです」
「……マジ?それヤバくない?」
「はい」
「へえ。1年目のお前にアプローチ練習もしねえなんて、やる気なかったんだなー、俺」
ヘラヘラと笑っている。
(―――っていうか…)
林は入社当初から紫雨のもとにいて、知識や技術は教えてもらったが、一度もアプローチ練習をしてもらったことがない。
入社1年目。
自分がしてもらっていたことと言えば―――。
(セックスだけじゃないか。しかも強姦まがいの……)
その驚愕の事実に思わず口元を抑える。
「はーい。じゃあ、誰から行こうかな。じゃあ無駄にでかいお前」
「――金子です」
さすがに金子が目を細める。
2週間とは言えど同じ展示場で過ごしたのにもう忘れている。
(この人、興味ないことはとことんだからな)
林も小さくため息をついた。
金子は気を取り直すように、
「よろしくお願いします!」
と展示場に響き渡る声で言うと、さっそく玄関にスタンバイした。
紫雨も耳に小指を突っ込みながら階段を降り、框へ移動する。
「ドキドキしますね」
新谷がこちらに囁いてくる。
「……ワクワクしたり、ドキドキしたり、君は少女漫画の主人公みたいに忙しい人ですね」
言うと、「あはは!」彼は屈託なく笑った。
「紫雨さんのアプローチ練習ってスパルタだって本当ですか?」
「さあ。経験ないんで、わからないです」
「えっ」
新谷が目を見開いた。
「一度も?」
「はい」
「――へえ。マジすか」
新谷は、わざわざスリッパから展示場用のサンダルに履き替えている紫雨を遠目で眺めながらつぶやいた。
「誰が言ったんですか?」
林はその横顔に聞いてみた。
「え?」
「だから、スパルタだって誰が言ったんですか?」
「ああ」
新谷はこちらに視線を戻して言った。
「渡辺さんです。同じ展示場にいたことあったから」
「――――」
渡辺が紫雨からいいようにされていたという話は、入社して間もなく自分を呼び出した秋山から聞いていた。
『僕も同じ展示場に在中しているから、そういうことは二度と起こらないように配慮はしているつもりだけど、もし何かあったらすぐに言ってね』
秋山はそう言ってくれたが、結局林は、紫雨が自分に手を出してきたときも秋山に相談することなく、現状維持という名の保身に走り、セックスという快楽に流されてしまった。
渡辺と自分。
境遇的には似ているはずなのに――。
(どうして渡辺さんにはアプローチを教えて、俺には教えなかったんだろう)
「はい!来場!」
紫雨が手を叩く。
胸のつかえを残したまま、アプローチ練習が始まった。
◇◇◇◇◇
「お客様、セゾンの家は初めてでございますか?」
「昔、1回だけ来たことあったかなー」
言いながら紫雨がサンダルを脱ぎ、客用のスリッパを履く。
「そうなんですね。また見に来ていただき、ありがとうございます」
「――――」
紫雨が金子を一瞥する。
「――――?」
金子が貼り付けた笑顔のまま首をかしげると、紫雨はため息をついた。
「んで?見ていーですか?」
「あ、はい。もちろんです!リビングの方からどうぞ」
紫雨はポケットに手を突っ込みながら展示場を見回して、リビングに足を踏み入れた。
「やっぱり、広いですね」
振り返った紫雨に、金子が続く。
「ありがとうございます。こちらの展示場は80坪の二世帯住宅をイメージして設計しております」
「二世帯住宅ねえー」
「はい」
「―――」
紫雨は展示場の天井を仰いだ。
「何センチ?」
「え?」
「天井」
「あ、えっと……260……㎝です」
265㎝だ。
林は目を細めた。
八尾首展示場は2×6の壁工法で出来ている「スマートハウス」は250㎝だが、天賀谷展示場の仕様は「欧風ハウス、カントリー」。軸組み工法で出来ているため、天井は他の仕様よりも高い。
「へえ。2階は?」
紫雨が表情を変えないまま言った。
「2階――も、同じでございます」
林がまた目を細める。
2階は屋根梁と耐久性の都合上、255cmだ。
(商品知識もついてないのを展示場に出すなんて。篠崎さんはもとい新谷君も何を考えてるんだか……)
思いながら新谷を睨む。
彼は胸の前で両手を握りながら後輩を応援している。
「セゾンさんって高いイメージしかなくて」
紫雨が挑発するように金子を見上げた。
「高いんだからいいのは当たり前じゃないすか。俺たち、そこまで求めてないんだよなー。なぁ?」
隣に立っていた新谷の肩に、紫雨が急に腕を回す。
「そ、そうよね。ちょっと身の丈に合わないっていうかー」
新谷が瞬時に奥様役に徹する。
「高い、と言いますと、お客様はセゾンの家の坪単価はどれくらいだと考えていらっしゃいますか?」
金子が二人に視線を配りながら言う。
「えー、80万円はするでしょー、どうみても」
紫雨が必要以上に新谷に顔を寄せながら言う。
「そんくらい金かければ、どんなメーカーで作っても素晴らしいもんが出来上がるよな?」
「あなた、失礼よ。―――すみませんね、この人ったら」
新谷が無駄に迫真の演技を見せる。
「それでは一般的なメーカーで、この展示場と同じ仕様にした場合、どれくらいの金額がかかるかご説明しますね」
金子の目が光った。
「まず当社で標準採用しているこの樹脂サッシ三重硝子ですが、他社で標準採用している二重サッシの複合サッシに比べて、市場価格で2倍の値段がします。家一棟分と相当のお金がプラスしてかかります」
「はあ」
「さらに当社で建物全部に採用している床暖房ですが、8畳一部屋約100万円~120万円かかります」
「あ、でもそんなもんですか。もっと高いと思ったー」
紫雨が尚も挑発する。
「しかしながら寒い廊下やトイレ、脱衣所に設置することはできません」
「…………」
紫雨が新谷を見下ろす。
その反応に新谷が嬉しそうに口元をほころばせる。
「しかも奥様が立つシンクの前には設置できません。冬場の朝など寒く冷たい足元のまま料理や洗い物をさせるのは忍びないですよね」
「寒いの嫌だわ、あなたーん」
新谷が紫雨に軽く凭れる。
「それと耐久性、耐震性について、ですが。柱の太さは、建築基準法では105㎜以上とされており、他社で採用しているのは120㎜角のものが多いと思われます。しかしセゾンの家はすべて150㎜角の天然無垢材を使用しております。耐震性能を同じレベルに高めるとなると、こちらに合わせていただく必要があります」
「天井の高さはわかんねぇのに、柱の太さはわかるわけね」
紫雨の口から嫌味が溢れるが、
「ご主人様がお仕事で出ている際、予期せぬ地震や災害から奥様を守るのは、ご主人様ではなく、家、ですからね」
構わず金子が続けると、新谷がますます紫雨に凭れた。
「怖いわーん、あなたぁ」
「……はっ」
思わず吹き出した紫雨が、金子を見上げる。
「言いたいことはわかりました。つまり他社でこのレベルで家を建てると、坪単価はいくらになるの?」
金子は待ってましたとばかりに微笑んだ。
「95万円を優に超えてきます。その点、セゾンはいいものを自社で大量生産しているため、この質の高い標準仕様の家が、一律、坪単価78万円でご提供できます」
「――――」
紫雨は目を細めた。
「これでもまだ、高い、でしょうか?」
金子が微笑んだところで、紫雨は腕に絡みついてくる新谷を引きはがし、
「はい、終了!」
両手を叩いた。
紫雨が頭を掻く。
「はい、メモとってー」
金子は慌ててスラックスから携帯電話を取り出し、録音ボタンを押した。
「ケッ。楽しやがって。この平成生まれが!」
「――紫雨さんもですよね」
新谷がすかさず突っ込むが、紫雨はその膝裏を蹴り上げた。
「すみません。一言一句聞き逃したくないので!」
金子のまっすぐな視線に、紫雨がため息をつきながら話し出した。
「まず。2回目の来場だって言ってんのに、それについての質問がない。いつ頃来たのか、誰と来たのか、その時はなぜきたのか、今回はなぜ来たのか、聞き取れよ」
「――あ、はい!」
「……いいか?2回目の来場ってのはアツいんだよ。1回目は冷やかしでも、2回目は本気なことが多い。
または過去に家を建てようとしたけど断念した人が、いよいよ今度こそ家を建てる気で来ていることもあるし、リフォームで考えてた人がいろんなメーカーの話を聞くうちに建て替える気になってもう一度メーカー巡りをすることも少なくない。
2回目の来場。もっとここに食いつくことが必要」
「―――はい!」
金子が大きく返事をし、隣で聞いていた細越と新谷もうなずく。
「あとは家族構成かな。何人で住む予定なのか、ここら辺を聞き出す必要がある。失礼のない程度にな」
「なるほど!」
「あとは商品知識だなー。自分の展示場だけ完璧に言えてもダメなんだよ。市場では2×6が人気になっているとは言え、うちで言えば純和風とかこのカントリーなんかは、設計上の自由度も高いし。
じいちゃんばあちゃんと同居する場合なんかはまだまだ需要あるから、ちゃんと覚えておかないと」
「はい、すみません……」
「嘘を教えるなんて言語道断。最悪わかんなかったら、客を着座させて、“カタログで説明しますね”これでいーんだよ」
紫雨はリビングの雑誌ボックスの中からカタログを数冊とると、リビングのローテーブルの上に置いた。
「つーか、最近の若い奴らってなんで客にカタログ開かねぇの?一番利用しやすいツールだろうが。
プロが撮った魅力的な写真。わかりやすい構造図。技術的なこめんどくさい話も全部わかりやすく書いてあんのに。これを読めばいいんだ読めば!」
「確かに」
新谷が呟く。
「客にカタログを渡して読んでもらえるなんて思ってるのはただのバカ。他のメーカーでも嫌というほどカタログもらって帰るんだから、家で開かねえんだよいちいち。客が見るのはネット。口コミ。それだけ。ならカタログは展示場で見せるしかないだろ」
「確かに」
今度は林もうなずく。
いつも上質な紙を使ったカラーのカタログを大量に客に持たせて帰すが、そのうち何パーセントの人間が開いているのかは甚だ疑問だ。
「だめっだめ。展示場もカタログもなんもいかせてない」
紫雨はリビングのソファに座ると手を振った。
「す、すみませんでした」
金子とともに新谷までしゅんと項垂れた。
「――まあ、でも」
紫雨が独り言のように言う。
「坪単価の話は悪くなかったかな」
「―――っ!」
顔を上げた金子と新谷が顔を見合わせる。
「坪95万円ってちゃんと計算したの?」
「はい……!新谷さんと一緒に他メーカーの資料集めまくって……!」
「ならいーんじゃない?根拠のある数字は客の心を動かすから」
ほんの僅かに微笑んだ紫雨に、涙をためた金子を新谷が抱きしめる。
(―――馬鹿らし)
たかがアプローチ練習で、瞳を潤ませる自分よりもずっと大柄な男に心底呆れる。
(――こいつら、頭大丈夫か?)
「できればその根拠が視覚的に分かるものがあればいいけどなー」
紫雨が言いながら可動式の本棚をずらし、ファイルを取り出した。
「これは床暖房の数値なんだけど。俺の客の」
拡げたそれを林も覗き込む。
「電気代の請求書。コピーさせてもらったの。40坪、真冬の1月で月16000円。オール電化だからガス代ゼロ。灯油代ゼロ」
「おおおお」
新谷がひときわ食いつく。
「これが1年間のグラフ」
言いながら次のページを紫雨が開く。
「んでこっちは、太陽光発電の売電記録」
「すご…」細越も呟く。
「既存客なんて頼めば協力してくれるんだから、どんどん根拠のあるツールづくりに利用しろよ」
言いながら他のファイルを開く。
「これは?」
「外観集」
紫雨がにやりと笑う。
「すご……かっこいい家ばっかりですね!」
金子が捲りながら言う。
「当たり前だろ。設計から上がってきたCADがかっこ悪かったら何度でもやり直しさせるから、俺」
紫雨がソファにふんぞり返る。
「俺が建てた家で、他人に誇れないような恥ずかしい家なんて、ただの1棟もない!」
「おお~」
3人から謎の拍手がわき起こる。
林は今まで一度も見たことのない紫雨のツールを見下ろし、誰にも気づかれないようにため息をついた。
「よし。じゃあ、次だ。林」
「え」
林は紫雨を見下ろした。
「え、じゃねえよ。お前もやるんだろ?」
紫雨がこちらを見ながら立ち上がる。
「客は新谷と細越なー」
「林さんのアプローチ見るの、初めてだなあー」
紫雨と新谷が玄関に移動を始めたのに合わせて、他の2人もそれに続いた。
……ドッドッドッドッドッド……。
心臓の音が高鳴る。
(だ……大丈夫だ。)
林は自分をなだめるように大きく深呼吸を繰り返した。
(いつも通りに……)
ぐっと唾液を飲み込むと、林は小走りで玄関に向かった。