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防空壕の跡 肆
「ーおーい、君、大丈夫?」
俺の気分とは正反対の、涼しげでさわやかな声が降ってきた。
「……?」
のろのろと目を上げる。
視界に入って来たのは、夏の陽射しを背に受けて佇み、俺の顔を覗き込むようにしている人影。
逆光で顔が見れないけれど、声や背格好からすると、若い男の人。でも俺よりはかなり年上の、たぶん大学生くらいだろう。
喉が渇きすぎて、気分が悪すぎて、何も答えられずにいると、その人は俺の前にしゃがみ込んだ。
太陽を遮るものがなくなって、その姿が光に照らされてはっきりと見えるようになる。
ーえ、何この人。
俺は目を剥いた。
彼はひどく変な格好をしていたのだ。
これは、軍服、というやつだろうか。
歴史の教科者に載っているような服だ。
理解に困ってぼんやりと彼の顔を眺めていると、ふいに手が伸びてきた。
すらりとした指の大きな手が、俺の額にふわらと触れる。
「……熱いな」
少し心配そうな声をあげて、彼は自分の腰のあたりから何かを取り出した。
「飲みなさい。水だよ」
目の前に差し出されたのは、カーキ色の布袋に金属のキャップがついた、不思議な代物。
見たこともない。
でも、水、という言葉を聞いて、一瞬にして俺の頭は真っ白になった。
俺は彼と手からひったくるように布袋を奪い取り、キャップを外した。
ちゃぷんッ、と水の音がする。
見たことがない形だけれど、本当に水筒らしい。
俺は飲み口に唇をつけて、一気に中身を喉に流し込んだ。
「……っ、げほっ、げほっ!」
勢いよく飲みすぎて、むせてしまう。
「そんなに慌てなくてもいいよ」
彼はおかしそうに笑いながら、優しく俺の背中をさすってくれた。
「全部、君にあげるからね」
ほとんど全部飲み干して、俺はその人を見た。
「ありがとうございます。助かりました……本当に」
優しげに細められた目が、じっと俺を見つめ返してくる。
「もう具合は大丈夫かい?」
「あ、はい……」
「ここは陽射しが強すぎるから、とりあえずあの木陰に入ろう」
彼が指差したほうには、鮮やかな緑の葉が生い茂る樹が立っていた。その下には濃い影が落ちている。涼しそうだ。
俺はふらりと身を起こした。
すると、
「……あ、」
朝にまったく力が入らなくて、ぐらりと身体が揺らいでしまった。その俺の身体を、彼は「危ないよ」と過敏な動作で抱き止めてくれる。
「す、すいませ……////」
自分よりもはるかに大きな身体に触れられてなんだか不覚にもドキドキしてしまった。
「いや、俺のほうこそすまない、気がきかなかった。そうだよな、さっきまで倒れかけていたのに、急に立てるわけがないよな」
その言葉が聞こえた次の瞬間には、俺の身体は軽々と抱きかかえられていた。
俺は気分の悪さも忘れて、焦りと恥ずかしさでさっきよりも顔が赤らむのを自覚してしまう。
でも、そんな俺の動揺に気づくような様子もなく、彼はすたすたと歩き出した。抱き上げられた身体が上下に大きく揺れて、ぐらぐらする。
「つかまっていてね」
と囁かれて、俺は何も考えられず、言われるがまま、目の前の首に両腕でしがみついた。
樹の根元の日陰にそっと降ろされて、
うるさい心臓を抑えながら、
俺は「ありがとうございました」と小さく頭を下げた。その動作で、また頭がくらくらする。貧血を起こしたときのように、視界に星が散っていた。
「少し落ち着いたら、涼しいところに連れて行ってあげよう。君、どこの学校の子?」
そう言って彼は俺の服装を確認するように視線を走らせた。その途端、驚いたように目を瞠る。彼が見ているのはベストらしい。
正確には、ベストの胸のあたりに刺繍されている俺が通っている学校の名前のアルファベットの文字だ。
「君、なんだ、その西洋の格好は?
というか、よく見てみたら、髪の毛や
耳にも……」
西洋?俺の制服はごく普通の制服だ。
本当に特徴がなんにもない。
だから、驚かれるほどのものではないと思うんだけれど。
「モンペはどうした、盗まれでもしたか?」
ーモンペ?って、なんだっけ?なんか、聞いたことあるような、ないような……。
どう答えればいいか分からずぼんやりと見つめ返していると、何をどう勘違いしたのか、彼は気まずそうに目を伏せた。
「いや、言いたくないならいいんだ。ええと、そうだ、まだ名乗っていなかったね。
俺は翠野すちという者だ」
俺は「みどりの、すち」と聞いた言葉を繰り返す。彼はこくりと頷いた。
「よかったら、君の名前も教えてくれもらえないか?」
「あ……黄瀬みこと、です」
「みこと、か。きれいな名前だな」
翠野さんは、にっこりと笑った。
あんまり屈託がないので、笑顔が得意ではない俺も、つられて笑ってしまった。
「だいぶ良くなくなったかい?」
「はい、楽になりました」
どうしてだろう。ひねくれ者の俺のはずなのに、彼と話していると妙に素直に受け答えをにしてしまう。まるで自分じゃないみたいだ。
「そうか、よかった。じゃあ、少し移動しようか」
翠野さんはほっとしたようにそう言って、地面に座り込んでいる俺にすっと手を差し伸べた。すごく自然な仕草だったから、俺も自然に翠野さんの手をとることができた。
「ゆっくり歩くから、のんびりついておいで」
「はい」
俺は着ていたベストを脱いでそれを風になびかせながら、明るい陽射しのもとで、命の恩人の大きな背中を追いかけた。