―キュー、バンッ!……ドサッ!ザザーッ。 意外と普通の音だと思った。まさか自分の体で知るとは思わなかったけれど。痛みも特に無かった。ただ太陽が眩しいから、目をつぶろうとしただけなのに、脇腹くらいから今にも泣きそうな声が聞こえる。
「―!―!」
それが彼女の声だってわかる。わかるのにその意味まではわからない。多分流れてる血を感じて、やっぱり太陽が眩しいから目をつぶった―。
―ッ!体が跳ねるのと一緒に目が覚める。意識がはっきりしてきて初めて、今さっきまで自分が泣いていたことに気付いた。目尻から溢れた涙は、そのまま流れ落ちて布団に入り込む。この手の悪夢を見続ける日常に情趣を感じる間もなく、慌てて飛び起きる。そういえば、と思い出して、少し埃がかった冬服を引っ張り出す。親は既に家を出たらしい。これであとはいつもと同じ時間に…。ピンポーン。どこか懐かしいような静けさに浸る間もなくインターホンが鳴る。モニターには見慣れた少女が見慣れた笑顔で居た。
ガチャリ。玄関のドアがここ最近軽くなったような気がして、自分の成長を実感する。
「おはよ!学校遅れるよ!」
いつも通りの明るさはいつも通り眩しい。冬服も相まって余分に光る微笑みが眠い身体を突き刺してくる。近付きすぎたら燃えそうで、かといって遠すぎても凍えそうで。以前、クラスでは天使も女神も超えて太陽神なんて呼ばれていると話していた。その時見せたような困り顔もきっとそれを助長しているのだろう。
「―とか言うの、ヤバくない?」
ヤバい。容姿の暴力には慣れたが、まだその距離感は攻略中だ。「てんくうのたて」があっても貫かれる。
「確かにね。けっこーヤバいかも。」
「だよね〜!話分かるじゃん!」
無造作に撫でられた髪と同じくらい心も乱れる。
「それでさ〜イヌイットじゃね?ってなって―。」
さっき乱れた心はいつの間にか体温を上げて、もはや話は半分程しか入ってこない。あと多分イヌイットじゃない。
「―ヤバ!予鈴鳴った!急ご!」
慌てる彼女は階段を2段飛ばしで駆け上がる。それに何とかついて行って、別れ際、腹筋に少し力を入れた。
「夏希!お昼、屋上ね!」
「だから名前やめて、苗字にして!」
嫌がるポイントがよく分からない。昨日までは特に嫌がってなかったのだが。というかそれ以前に、あの容姿にあの性格があって、毎日僕と昼食を食べるのはどういうことなんだろうか……。結局その場では、「女子は怖い。」と結論付けた。
―キーンコーンカーンコーン。漫画でもアニメでもお馴染みのあのチャイムが鳴る。屋上はこの時期、北風を理由に不人気だ。寒い。風が少し強くて気持ち良いが、気温が凄く低くて気持ち悪い。それでも人の目が苦手な僕に合わせて、彼女はここで食べる。食べてくれる。
「―だからね?それイヌイットじゃなかったんだよ!」
しょうもない会話を青春と呼ぶ大人はあまり好きでは無いが、実際に第三者視点で聞いていると青春しているように聞こえるのが不思議だ。昨日からその話題1つで持たせる奴も、それを同じ熱量で第三者に語れる彼女も、青年期特有の青春ベクトルの使い手だろう。
「―なつ……日向はさ、なんで毎日僕とご飯食べてくれるの?」
「え?何となく一番楽だからだけど。かーやんの話面白いし。」
「そっか……待ってかーやんって何?」
「あだ名よあだ名。私も名前で呼ばれたくないし。『かやぶき』だからかーやん。ぶっきーでもいいよ?」
僕としては名前呼びじゃない方が距離を感じるが、彼女の言葉はスーッと身体に染み渡って、最後はどうでも良くなる。
「なんでそんなイカれたあだ名つけんの。」
「イカれてないと思うけどな〜。うちのクラスの方がイカれてるよ。女子につけるあだ名で太陽神って何!?もっと名前っぽいやつ欲しいのに。マリナとかさ。」
「それイヌイットじゃん。イヌイットの太陽神マリナじゃん。」
前言撤回だ。こんなしょうもなくて傍から見たらつまらない会話が青春というのは正しいかもしれない。大人への好感度が少し上がった。彼女の笑顔にはそれくらいの価値があった。
その後も会話は絶えない。むしろ勢いを増していた。
「私霊感あるっぽくて―。」「江戸時代の春画ってさ―。」「こないだ渋谷でね―。」
毎日毎日、新しい話題を出してくる彼女の顔は話に熱中している一方で、何かを誤魔化そうと必死なようにも見える。気の所為かもしれないが。
キーンコーンカーンコーン。漫画でもアニメでもお馴染みのあのチャイムはやっぱり鳴って、昼休みが終わることを僕らに伝える。
「今日はカエサル達と帰るから!」
彼女は1週間、あるいは2週間分の帰り道をローテーションで回している。あだ名のせいで誰なのかは全くもって分からない。でも、それの一端に自分が入ってることが誇らしい。
―キーンコーンカーンコーン。何度目かも分からないお馴染みのあのチャイムは、僕の孤独感を優しく撫でる。それがあることを逐一教えてくれる。それがあるから、僕は勘違いせずに夏希と友達でいられるのだ。
ファイ、オー、ファイ、オー……。今日も何部か分からない声出しが空に溶ける。それを聞きながら僕は正門を抜ける。と、進行方向に夏希らしき後ろ姿が見えた。確か今日はカエサルだかと一緒に帰ると言っていたと思うが。
夏希は自分の感情がそのまま表情どころか身体にも出るタイプだということを抑えておけば、夏希が何らかの理由で約束が果たされなかったことを悲しんでいないことは明白だった。通常過ぎる。こんなことが有り得るのは、そもそも約束自体が無かったと考えるべきか。じゃあなんでそんな嘘を―。
嫌な思考がまとわりつく。ぐるぐるぐるぐると、脳の周りを何周も、何周も。回転木馬のように。まわる、回る、廻る。
―知ってる天井だ。いつもの悪夢は見ていない。その理由を考えるには要素も時間も足りなくて、幼少期に揃えられないまま投げ出しっぱなしのルービックキューブを思い出す。この朝もいつかは風化してしまうのだろうか。考えるだけでゾワッとした。
概ねいつも通りの朝、いつも通りの時間にインターホンは鳴らなかった。10分待っても鳴らない。仕方なく、僕は一人で登校した。昨日までは色の付いていた道が今日はモノクロで、何百色かあるらしい白黒を見分けることはできなかった。
夏希の心配がまとわりつく重い身体を引きずって教室に入ると、夏希の友達のグループが話しているのが聞こえてくる。
「―夏希最近ヤバいよね。」
「それ。やっぱアレじゃね?思い出した的な。」
「いや怖。あ、今日休むって。珍し。」
「お見舞い行ったるかー。」
クラスの雑音が気にならないほど明瞭に聞こえた話は、僕が帰るのに充分な理由となった。
―夏希の家は特筆することもない普通の一軒家だ。駅から徒歩10分、コンビニから徒歩5分の優良物件。普通の家族が普通に生活する、普通の家だ。
そんな普通の家の2階、自分の部屋に夏希は居た。道中、夏希のことで頭がいっぱいで、どうやってこの部屋に来たかも覚えていない。随分とあっさり会えたことに驚きつつ、いつもの明るさの上から絶望を着込んだような表情で壁に寄りかかって座る夏希の目は虚ろで、一瞬人形のように思えた。
「―、日向。大丈夫…じゃなさそうだね。」
きっと、万人が持つ美しさの共通解とはこれなのだろう。瞬きをしたら消えてしまいそうで、それでも何とか現世に留まっている感情の輪郭がそこにはあった。
「かーやん。大丈夫だよ、大丈夫。大丈夫。」
自分に言い聞かせる言葉に説得力などない。
「嘘だよね。何があったのかくらい教えてくれてもいいじゃん。そんなに頼りないかな。」
納得を全てに優先して、こんな時にメンヘラっぽくなる自分に嫌気がさす。
「そんなことないよ。大丈夫だから。もう帰って。」
短く区切られた言葉は、拒絶よりも膨張に近くて、もう少しで破裂することの前兆だった。だから僕は針を刺す。
「そうやっていつまでも一人で抱え込むくらいならさ、今ここで、全部僕に吐き出しちゃえよ。」
優しさを研ぎ続ける。真円が楕円になり、やがては線分となるように。
「なんでそんなに悲しそうなんだよ。昨日まで楽しそうだっただろ?どうしちゃったんだよ。」
決して怒りと見紛わないために、心配の念を言葉に着せて。
「…………。昨日もこうだったよ。最近ずうっとこう。かーやんに伝わらないように明るく振舞ってただけ。……太陽神だなんて皮肉な話よね。明るい私はとうの昔に死んでるのに。でももう疲れちゃった……。疲れちゃったよ…。」
叫んでいるわけじゃない。ただ、溢れんばかりの悲嘆が聞こえてくる。言葉が全て本心だと分かるのは、俗に不運と呼ばれるそれに違いなかった。
「―何があったかなんてどうせ分かってくれないよ。吐き出してどうなるの。こんな三文芝居の動機なんてさ。」
淡々と、冷静に堕ちていく夏希を前に、昇ってきては揮発する煙を真似て言葉を失う。
「ほら、理解してないんだよねきっと。理解できないんだよきっと。だからもういいんだよ。」
なおも言葉は続き、夏希の諦めは音速に達しようとしていた。一言ずつ希望を切り離し、最後には音だけが残る。
「……ぁ、ぅ。」
そんなことはないと、自分に全部任せておけと、そう言いきれたら夏希は救われただろうか。
「―日向、いやもう名前で呼ぶな?確かに僕は夏希のこと、ちょっとしか理解できてないんだと思う。でも、理解したいとも思うよ。それに、理由は知らなくても僕は夏希が悩んでることを知ってる。それじゃダメかな。」
しばらくして出てきたのは、ただの本音だった。飾り気も混じり気も無い。どうにか捏ねて希望に偽装しようとした先程の自分を裏切って、無責任な理想を積み重ねる。悩んでるから助けたいなんて夢物語にも程がある。
「―僕にできることは何でもするよ。一緒に悩ませて。」
さらに追い討ちをかける。勝手に抱え込んで、悩ませてはやらない。
「だからさ、ほら、話してみてよ。」
決まった。我ながら完璧だ。これなら夏希も話してくれる。
「………………やっぱり無理だよ。」
ここで初めて、夏希は僕を拒絶した。話すことも、助けを求めることも。僕にはそれが信じられなくて、もう一度言葉を失った。しかし今度は煙とは違って、昇ることもないままに呆然が完成したのだった。
「―だってかーやんは……太陽はもう死んでるじゃん。」
名前を呼ばれるのも随分久しぶりな感じがした。相変わらず綺麗な音色で、呼ばれただけで身体が温まる。なんて、音だけを捉えながら、絞り出された言葉の意味を理解するのにどれだけかかっただろうか。僕はこうしてここに居るのに、死んでるとは。言葉の意味が解っても、納得は出来ない。
「……それって、どういう…。」
情けなくてたどたどしい声は疑問を持つも、今の精神状態では何も脳に入らないことは自明だった。それでも訊いたのは、ほとんど思考がそのまま出てきただけで、大して意味もなかった。
「言葉通りだよ。太陽、とっくに死んでるんだよ。そんなの本人に言えないよ。それが理由なんてさ。」
どこか吹っ切れたような夏希の説明は、それでも理解には遠くて、それを夏希も察したのか、一から語り始めた。
「―あのね、太陽は8年前に事故に遭ったの。覚えてるかな。赤信号で飛び出しちゃって。その時すぐに救急車乗ってね、でも間に合わなくて。私は結局見てるしかできなかった。」
覚えていた。いや、思い出したと言うべきか。今の今まで、あの悪夢が本当にあったことを忘れていたのだ。
「でも最近になって幽霊かわかんないけどあなたが私の前に出てきて。最初はびっくりしたよ。私の知る太陽はもう死んで居ないのに、あなたは普通に生活してるんだもん。」
少しずつ笑顔と余裕を取り戻して、夏希はよく喋る。
「だから、やっぱり、ね。かーやん。ごめん。」
プツリと切れる話は、僕に一つだけ現実を突きつけた。
―夏希は、もう僕を『太陽』だと思えていない。
言葉にすればそれだけなのに、どうにか足掻きたい。抗いたい。そんな辛い現実を否定してやりたい。出来ない。
「……そうだよな。こっちこそごめんな。ありがとう。」
僕を否定しないでくれて。名付けてくれて。優しくしてくれて。続きの候補はいくらでもあった。そのどれもが僕には間違った選択肢で、間違いは無かった。
「―もう行くよ。」
間違いを道標に正解を見つける。金輪際、僕は夏希の前に現れない。触れられないし、話せもしない。僕が『太陽』として、『太陽』だったモノとして、彼女に送る最後の気遣いは、思い出させないように、時間経過で彼女の傷が癒えるように、彼女の前から消えることだった。
―最後にもう一度だけと往生際悪く振り返った先に居る彼女は、いつも通り明るくて可憐で、そしてどうしようもなく寂しそうだった。
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