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「あっ……しっ、失礼致しました」
絵を見ていたら皇太子妃がいることに気が付かなかった。慌てて平伏するとクスクスと笑っている。
良かった。怒ってらっしゃらない。
「いいのよ。顔を上げてちょうだい」
「はい」
「この絵はわたくしが嫁いできてすぐに、胡中書令から祝いに頂いた絵なの」
「厄除けにとね」と続いた言葉には、苦々しげなニュアンスが籠っている気がした。
「さっきわたくしが話した天女様の絵も、雲嵐によって制作されたものなのよ。見る?」
「宜しいのですか?」
「減るものじゃないもの。絵描きとして気になるのでしょう? 持ってきてちょうだい」
皇太子妃から指示を受けた侍女は、直ぐに天女が描かれた絵を持ってきてくれた。
壁に掛けられた絵を見て、麗霞は「おお」と声を漏らした。
「これはまた……。天神様や虎の絵とは全く異なるタッチですね」
蓮の花と一緒に描かれている1人の天女。口元には笑みをたたえ、慈愛の篭った目でこちら見守っているかのよう。
天神や虎の絵は迫力満点だが、こちらの天女の絵は優しい雰囲気が漂ってきている。
よく見れば所々に雲嵐の癖のようなものが見受けられるので雲嵐が描いたものだと分かるが、それにしても同一人物が描いたとは思えない。見事な描き分けだ。
「雲嵐の絵もいいけれど、わたくしはあなたの絵の方が好きだわ。恋恋」
「お、恐れ入ります」
雲嵐の絵と恋恋の春画を同列にして考えても良いのか疑問だが、気に入ってくれているのなら、これほど嬉しいことはない。
皇太子妃は椅子に座り侍女が入れた茶を受け取ると、その水面に視線を落とした。
「男性が描く絵とは全然違うもの。まるで心の奥底にある女性の願望をすくい上げて、絵に描き起こしてくれたかのようだわ。あなたの絵を見ている間は、心にポッカリと空いた穴が埋められた気分になるの」
そう言って茶を飲む皇太子妃の顔には、今にも崩れてしまいそうな程に儚げな笑みが浮かんでいた。
あ……れ……?
私は見る人にこんな顔をさせる為に、春画を描いているんだったっけ??
度重なる違和感に、麗霞はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……身に余るお褒めの言葉、恐縮でございます」
「これからもあなたの絵で、わたくしを夢の世界へ連れて行ってちょうだい」
「私に出来ることがございましたら、なんなりとお申し付け下さい」
「期待しているわ」
深々と頭を下げて喉の奥に生まれた苦いものを飲み下していると、小さな子供の泣き声が耳に入ってきた。
「あら、春燕が起きたみたいね。ここへ連れて来て」
「はい、ただ今」
「昨年末に生まれた娘よ。あとひと月もすれば1歳になるの」
「先程贈られた雲嵐様の絵は、春燕様を出産された労いを兼ねているとか」
「労い?」
皇太子妃の瞳に怒気が浮かんだ。先程天神の絵を中書令から貰ったという話をしていた時よりも、もっと強い感情が籠っている。
絵を受け取られた時は嬉しそうにしていたのに、どうしたのだろう。
困惑する麗霞に気が付いた皇太子妃は、取り繕うように「ふふっ」と笑いかけてきた。
「ええ、そうよ。いつも子が生まれてしばらくしたタイミングで、労いにとわたくしに誰かしらが贈りものをしてくれるのよ。――あぁ、春燕。こっちへいらっしゃい」
侍女に抱き抱えられて連れてこられた春燕は、今度は皇太子妃の腕の中に収まった。見慣れない人物が居ることに気が付き、母親の胸にギュッとしがみついて顔を隠している。
「ちょうど人見知りをする年頃ですね」
「ええ、そうなの」
皇太子妃の子供は春燕で4人目。流石に慣れた様子であやしている。
人見知りはするが、麗霞のことは気になるようで、春燕が皇太子妃の胸元からこちらをチラリと覗き見てきた。
いやぁぁぁ! かわいいっっ!!
小さな子供は無条件に可愛いと思える何かがある。
笑いながら手を振ると、恥ずかしがってまた顔を隠してしまった。そんな姿ですら愛おしい。
麗霞と娘のやり取りを見ていた皇太子妃が、くすりと笑って尋ねてきた。
「あなた、兄弟はいるの?」
「はい。弟が二人おります」
「そう。ご両親は弟君が生まれた時には、さぞ喜ばれたでしょうね」
「弟二人を産んだのは私の母ではなく、側妻の方でして。……あなたが男だったら良かったのにと、口癖のように言われておりました」
私にそんなことを言われても困るのにと、子供ながらに何度思ったことか。
「私も大きくなるにつれ、何で男ではなかったのかと考えては泣いたものです」
母の言うように男だったなら、描いた絵をコソコソと売らなくても良かったのに。男だったら、春画ですら堂々と売ることが出来るのに。
そう考えたことは一度や二度ではない。
不満を言い出したらキリがないし、現状でやれる範囲でやれるだけの事をして、今は自分との折り合いを上手く付けている。
だからそう辛い話でもなかったのに、皇太子妃は深く受け止めてしまったらしい。頬に涙が伝っている。
「あ……ひ、妃殿下??」
「ちょっとあなた!!」
侍女がまるで麗霞が泣かせたかのように怒り出してしまった。
「およしなさい。わたくしが勝手に泣きだしただけなのだから」
「ですが……」
「ただ彼女の言葉が、わたくしの娘たちの言葉のように聞こえてしまっただけよ」
春燕は麗霞の存在に慣れてきた上に飽きてきたらしく、下に降りたいと両手足をばたつかせている。
皇太子妃に床に下ろして貰うと、よちよちと家具に掴まって伝い歩きをし始めた。
なんて言葉をかけたらいいのか分からない麗霞は、春燕のそんな様子を見ていることしか出来ない。
「母親失格だわ。この子が生まれた瞬間、無事に生まれてきてくれたことを感謝するよりも先に、男の子でなかったことにため息をついたのだから。そして今も、4人の娘たちを見てはため息ばかり。せめて他の妃からでも男の子が生まれたら良かったのにとすら思う程よ」
侍女に見守られながらあちこちに動き回る春燕。見るもの全てが新鮮で楽しいのだろう。その目はキラキラと輝いている。
だからか、余計に皇太子妃の瞳が暗く沈んで見える。
「我が子を心底可愛いと思えないなんて、最低な母親よ」
小さくつぶやくように吐かれた言葉。
酷いことを言っているのは皇太子妃の方なのに、何故か子供たちよりも深く傷付いているように見える。
愛したいのに愛せない。
愛してるのに愛せない。
もっとシンプルに我が子の存在を見ることができたら、楽になれるのに。皇太子妃という立場が、それを許さないのだ、きっと。
「こんな話をされても困るわよね。忘れてちょうだい。とにかくわたくしは、あなたの絵に救われているのだと直接伝えたかっただけなの。あっ、そうだわ! 今度は薔薇の絵を添えて描いて欲しいわ。わたくしが好きな花の一つなのよ」
「かしこまりました。どのような場面がいいかなど、ご希望はございますか」
「そうね、全体的に薄紅色や薄紫を基調にして――」
要望を話す皇太子妃の顔は笑っていた。
しかし最後まで、麗霞の見たかった笑顔を浮かべてくれることはなかった。
コメント
1件
はい、読み終えました…! 皇太子妃の「心にポッカリと空いた穴」という言葉がすごく胸に刺さりました。麗霞の春画が誰かを癒している――でも、それが自分の描きたかったものと違う気がして、本人が違和感を覚えるところがとても繊細で。娘さんたちへの複雑な想いを吐露する場面も含めて、女性の立場とか愛情の形を丁寧に描かれていて、じんわりきました。次話も楽しみです🌷
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