コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
――あれは私が小学四年生の夏。
私とお姉ちゃんと京之介くんは、三人で川遊びをしていた。私はおじいちゃんに、“お盆に川や海に入ると足を引っ張られる”などと脅されていたのであまり川の中へは行かないようにしていたけれど、京之介くんとお姉ちゃんは楽しそうに水を掛け合って遊んでいた。
疎外感を覚えた私は、「ちょっとあっち行ってるね」と言ってお姉ちゃんと京之介くんから離れた。
土手を歩いているうちに、一人で川遊びをしている見知らぬ男の子を見つけた。その子は私と同い年くらいに見えた。
遊び相手を見つけたようで嬉しかった私は、少し声を張ってその子に話しかけた。
「ひとり?」
その子は突然話しかけたせいか少し驚いたようにこちらを見たけれど、すぐに微笑んで「一人だよ」と大人びた笑顔で笑ってみせた。
「この辺は流れが早いから危ないよ」
「大丈夫だよ、ちゃんと岩の上を歩いてる」
「お盆は幽霊が足を引っ張ってくるんだよ」
すると、男の子はハハッとおかしげに笑って、川から出てきた。ビチョビチョに濡れている足を土手に置いてあったらしいタオルで拭いた彼は、私に「お名前は?」と聞いてくる。
「瑚都」
「瑚都、か。俺は鞍馬」
「漢字は?」
「鞍馬山の鞍馬」
「……一人なら、一緒に遊ぼうよ」
どうせお姉ちゃんと京之介くんのところへ戻っても、あの二人の世界ができているだけだ。私は邪魔者なのだから。
鞍馬は「お金持ってる?俺、あそこのアイス食べたい」と川の近くにあるソフトクリーム屋さんを指差した。おばあちゃんにお小遣いはもらっていたので、力強く頷いて付いていった。
鞍馬は抹茶アイスを頼んで、私はバニラアイスをお願いした。店の前のベンチで二人隣に並び、他愛ない話をした。
鞍馬は私と同じように祖父母の家が京都にあるらしく、京都の人間ではないにせよ夏はこっちに居るらしい。だから友達が京都にはおらず、一人で遊んでいたと。
年は意外にも私の一つ下だった。
アイスクリームを食べ終えた後、鞍馬はまた川へ向かい始めた。
「やめなよ、幽霊が来るよ」
「瑚都、幽霊なんか信じてるの?子供だなあ」
私より年下のくせに、鞍馬は私のことを子供だと言い、また川の中へ入っていく。
少しだけムカついたのが馬鹿だった。私はずっと土手から鞍馬を眺めていたが、その大人びた表情を崩してみたくて、そろりそろりとバレないように近付いたのだ。無理だと思ったらすぐにやめようと気を付けながら、おそるおそる岩と岩を伝って歩いて、大きな岩の上で屈んで川の水に触れている鞍馬の後ろから、わぁっと突然大きな声を出して驚かせた。
すると、鞍馬が本当にびっくりした様子で体を揺らし、足を滑らせて目の前の水の中にどぼんと落ちたのだ。
えっ、と自分の頭では即座に処理できない事柄に短い声を出して固まってしまった私は、数秒後慌てて手を伸ばした。
しかし川の流れは速く、手が届かないどころか、すぐに鞍馬を見失ってしまった。
私は声を上げて大泣きし、パニックになって自分も川の中へ飛び込み、必死になって手を振り回して鞍馬の体を探した。
それからどれくらい経っていただろう、そう長い時間は経っていなかったと思うが、遠くで京之介くんの怒鳴る声が聞こえた。泳げない私はあっという間に流され、息が苦しくなったその時、川の中へ入ってきた何者かに腕を掴まれ、顔だけを水の外へと出すことができた。
激しく咳き込む私の体を強く抱きしめていたのは、京之介くんだった。
「何やっとるんや阿呆!! 死にたいんか!!」
私を何とか川の外まで持ってきた京之介くんは、ずぶ濡れの私の肩を揺らして怒鳴った。
土手の向こうで声を出して号泣しているお姉ちゃん。その隣には、お姉ちゃんが呼んだらしい近所の大人が何人も集まってきていた。
自分が危ないことをしたのだと、その時ようやく理解した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!私たちが目を離したから……!」
妹が死にかけたという事実に酷くショックを受けているらしいお姉ちゃんが泣き崩れた。
大人たちがタオルを持ってきて、私と京之介くんの体を包み込んだ。
しかしその間もずっと、私は呆然と川の方を眺めていた。誰も気付いていない。ここにもう一人子供がいたことを。
――殺してしまった。私が。
大人の目が怖くて言えなかった。バレたらどうしよう、と思って、お姉ちゃんに「早く帰ろう」と急かした。
私は子供がもう一人流されたことを自分が怒られると思って言えないまま、その場を後にしたのだ。
――――だから、お姉ちゃんが川で死んだ時に思った。
これは罰なんだと。神様が私に罰を与えたんだと。
私が人を殺した川という場所で、神様が私にとって大切な人の命を奪っていったんだと。
あれから十年以上経っているとはいえ、私が鞍馬の顔を間違えるはずがなかった。あの夏から何度も夢に出てきては、私を苦しめたのだから。その上、名前が同じ。偶然とは思えない。
鞍馬の姿を見てから何も頭に入ってこないまま、その日の研究は終わった。
研究室に残る院生も居たが私は程々に17時で切り上げ、差し入れのお菓子を一つ鞄に入れてこそこそとその場を後にした。美味しいメニューが多いと言われる学食でご飯を食べたいところだが、おじいちゃんに今日は私が夕飯を作ると伝えてあるので最寄りのスーパーへ向かう。
とはいえキャンパス内は広く、自転車で移動する生徒もいるくらいだ。迷ったら遅れてしまうな、と思いキャンパスマップをじっと見つめていると。
「瑚都ちゃん、この後ひま?」
服のポケットに手を突っ込んだまま、先程まで研究室内に居たはずの鞍馬が話しかけてきた。私が帰るのを見て追ってきたんだろうか。
「……用事があります」
「敬語使うんだ。てか俺のこと覚えてる?」
血の気が引いた。小さな鞍馬が水に落ちる音と自分にかかった水飛沫の光景がフラッシュバックして、息の仕方が分からなくなる。
「バーで会ったよね」
しかしその次に出された予想とは違う台詞に、私はようやく息を吸い込むことができた。
「……ああ……」
「すごい偶然じゃない?なかなかないよ、こんなこと」
そうだね、と言おうとして、声を出すことができなかった。取り繕うように髪をかきあげた自分の指先が震えていることに気付く。一刻も早くここを離れたい。
「すみません、用事があるので本当に失礼します」
早口でそれだけ伝えて、鞍馬の言葉を聞かずに走ってその場を去った。
――気付いてない。そりゃあそうだ、十年以上経っているのだから。
その事実にほっとしながら、とりあえず鞍馬のことは忘れるように努めて、スーパーで豚汁の材料を買った。
その後、バスに乗って祖父の家まで揺られた。滅多に車酔いをしない私だが、今日ばかりは気分が悪くなった。
【京之介くん、今日晩ごはんどうするの】
京之介くんにメッセージを送って家へ入り、材料をキッチンで並べていると返信が来た。
【なんで?】
その短い文に安堵する自分が居た。京之介くんからの返信は酷くホッとする。
【うち豚汁作るから、食べに来ないかなと思って】
数分後、返信が来た。
【行く】
:
成人した私と京之介くん、そしておじいちゃんとで行われる食事は、昔と違って会話がなく、なかなかに気まずかった。おじいちゃんは以前より耳が遠くなっているためあまり話しかけてこようとはしない。ただ、「うまいうまい」と言いながら食べてくれるのが嬉しかった。
京之介くんは無言で食べている。中学生の頃の夏休み、京之介くんに慣れない手料理を振る舞い、「下手くそやな、味見くらいせえや」と歯に衣着せぬ物言いをされてから、私はきちんと母の料理を手伝うようになったのだ。
あの頃に比べて料理の腕は格段に上がっているはず……と思うけれど、京之介くんはおじいちゃんと違ってお礼も感想も言わないから少しムッとしてしまった。
ふと、おじいちゃんが、熱いお茶を口にした後、昨日は何をしたのかと聞いてきた。
「八坂庚申堂へ行ったよ」
「へえ。かわいらしとこへ行ったんやねえ」
おじいちゃんは嬉しそうに相槌を打った。
「今度はどこ行くん」
「もう十分遊んだからいいよ」
「嵐山はど。一泊くらいしてきたらええ。あの辺の宿は、おすすめやで」
「いいよ、別に。」
「まぁまぁ、そう言わんと」
「……何かあるの?」
「おお、よお分かったなぁ。宿の割引券の有効期限、切れかけとるんよ。おばあちゃんと行く予定やったんやけど、体調崩しがちやしなぁ。京之介とでも行ってきたらええわ」
そう言って十二月末までの割引券二枚を渡してくる。なるほど、まだ十分余裕はある。
「私は別に、京之介くんとじゃなくておじいちゃんと二人でもいいよ」
自分の足の不自由さを気にして、自分とでは満足のいく宿泊にならないと考えているのかと思い、それくらいサポートできるという意を込めてそう提案したのだが、一拍置いて、ちらりと京之介くんを見たおじいちゃんは「若い者同士で遊ぶとええ」と言った。
「ありがとう。おいしかったよ。わしゃもう寝るわ」
そして、しわくちゃの顔を更にしわくちゃにしながら笑って、ゆっくりと立ち上がる。
時刻は八時。いつものおじいちゃんなら眠っている時間帯だ。私の晩御飯のために起きていてくれたんだろうか。
「待っててくれてありがとう、おやすみ。お皿置いといていいよ」
おじいちゃんが使ったお皿とコップを流し台に持っていってから、また椅子に腰をかけ直す。
ちらりと前にいる京之介くんを見たが、京之介くんは黙って食べ続けるばかりだ。相変わらず、おしとやかな色気がある。
「俺とやったら不満なん?」
箸を置いた京之介くんが流れるような関西イントネーションで問うてきた。
「不満ではないけど……私と行っても京之介くん、楽しくないかなって」
「別に、瑚都ちゃんに楽しませてもらおとか、期待してへんけど」
……何その言い方。
「いいよ、他の人と行くから」
「そんな相手おらんくせに」
ぐっと黙り込んでしまった。確かに京都へ来たばかりの私には、一緒に行く友達もいない。京之介くんは反論できずにいる私をしばらくじっと見つめていたが、くいっとコップの緑茶を飲み干して立ち上がった。そして流し台まで食器を持っていき洗い始める。
「え、いいよ」
「うちの家では作ってもろた奴が洗うねん。忘れたんか」
スポンジに洗剤をつけて皿を擦るその手が昔見たものよりもゴツゴツしている。言われてみれば、確かに京之介くんの家では洗い物をする人と料理を作る人は別だった。洗ってくれるならお言葉に甘えて任せるか、と思い残りの豚汁を自分のお椀にいれた。
その時テーブルの上に置いてあったスマホが震えて、視線だけをそちらにやると、ロック画面にLINEの通知が送られてきていた。
【鞍馬だよ】
【よろしくね】
おたまを持つ手が止まってしまう。スマホを持ってタップすると、LINEの画面が開いた。たった二つのメッセージで、心臓が嫌な鳴り方をしてくるのが分かる。
……自分からは連絡しないって言っていたのに。
既読を付けてしまったことに後悔しながら、返信はせずに閉じた。
「誰?」
いつの間にか背後に来ていた京之介くんがそんなことを聞いてくるから、びくりと体を震わせてしまった。
「そんな驚かんでええやろ」
「いや、……友達から、LINE来ただけ」
「ふうん?」
京之介くんに疑問を覚えさせるほど、私は変な顔をしていたのだろう。ぎゅっとスマホを握り締めて、おそるおそる口を開く。
「ねえ、京之介くん」
「うん?」
――――あの男の子の話を覚えてる?
そう言おうとして、色んな感情が溢れ返ってきて何も口に出せなくなり、「……私、もうお腹いっぱいかも」とだけ言って残飯を捨てた。
ご飯を残すことなんて滅多になかったはずの私を、京之介くんは無表情でじっと見ていた。
あの夏。
鞍馬を川に落としてしまったことを誰にも言えないままお盆が過ぎ去り、いよいよ関東へ戻るという日の前日の晩、私は家を抜け出して、必死に川を探したのだ。
暗さ故に昼間とは見え方が違うこともあり、方向音痴な私は川を見つけるまでにかなりの時間がかかった。川の近くに立って、か細い声で「鞍馬」と名前を呼んだのを覚えている。底の見えない真っ暗な水が酷く不気味に見えた。
鞍馬はこの川になってしまったんだろうか。私があの時、落としてしまったから。浅いところなら大丈夫だろう、と思い、私は靴を脱いで川へ入っていった。
しかし暗い川の中を思い通りに動くのは容易ではなく、私は足を滑らせて転けてしまった。浅い場所なので流されずに済んだが、服が水でびしょびしょになった。夏にも関わらず寒くなり、私はその体勢のまま声を上げて泣き始めた。
どれだけそうしていただろう。懐中電灯の光が私を照らし、顔を上げると、走ってきた様子の京之介くんが居た。怒られると思って体をビクつかせた私だが、京之介くんは何も言わず私に手を差し出した。
私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をしたままその手を取り、引き上げられるようにして川を出た。
「……なんで、」
「昼間川の方ずっと気にしてはったから、ここにおるんちゃうかなと思って」
「……お姉ちゃんは?」
「寝とるよ。瑚都ちゃんがおらんようになったこと、俺しか気付いてへん」
一人で気付いて、探しに来てくれたのか。あれだけ怒られたのにまた川に近付いたこと、呆れているだろうか。
京之介くんは私の手を離さずに、土手に座らせてゆっくりした口調で聞いてきた。
「なんかおったん? 他に」
「っ」
ビクンと体を震わせた私の反応は肯定そのものだった。
「あ、あの、わ、わた、わたし……っ」
「うん」
「殺しちゃった……男の子を」
「……」
暗くて顔が見えないが、京之介くんが目を見開く気配がした。しかしそれも一瞬のことで、納得したように川の方を見る。
「やっぱり。あんだけ川を怖がってた瑚都ちゃんが、川に入るんはおかしいと思った」
震える私の濡れた冷たい身体を抱き締めて、京之介くんがいつもとは違う優しい口調で言った。
「大丈夫や、二人だけの秘密やから。俺もお前も言えへんかったら、だぁれも分からん」
京之介くんの温もりを体で感じて、私はまた泣き始めてしまった。
「俺も気付いとったしな」
「……え?」
「川の向こうで何かが動いてるん見えた。でも人間やとは思わんかったし、……瑚都ちゃんさえ助かればええと思った。瑚都ちゃんのことしか考えられへんかった、あの時。だから、」
――――共犯やな、俺ら
まだ声変わりしているかしていないかくらいの掠れた声が、妙に耳に残った夏だった。
:
おばあちゃんが退院してすぐの頃が、私のマンションの入居日だった。引越し業者が出たり入ったりして、あっという間に8畳の1Kは私の家具で一杯になった。
その日は平日で、ベッドの組み立てをしていると、夜に京之介くんから連絡が来た。
【今日飯作るん?】
豚汁を一緒に食べた夜から、京之介くんは仕事が終わると私のおじいちゃんの家まで毎晩ご飯を食べに来るようになっていた。私が引っ越すことは伝えているから、もうおじいちゃんの家に居ないことは知っているはずなんだけど。
【私のマンション来るなら作るよ。家具の組み立て手伝ってほしいし】
引越し業者が組み立ててくれた部分もあるが、料金をケチって椅子と机とベッドは自分で組み立てすることにしていたのだ。本来ならば二人がかりで組み立てるものだし、そろそろ腰が痛くなってきたところだ。
【一人で組み立ててんの?】
【うん】
【俺がやるから置いとき】
え、来るんだ、って少しドキッとした。そのすぐあと、【七時くらいになる】とメッセージが送られてくる。
時刻は六時。私は慌てて財布を持って、最寄りのスーパーまで向かった。今日は疲れているし外食するつもりだったのだ。でも、私が引っ越しても京之介くんが晩ご飯を食べに来てくれることが嬉しかった。
その日から、京之介くんは仕事帰りに私の家に晩ご飯を食べに来るようになった。