思い返せば、少し前から違和感があったかもしれない。
練習中には気にも止めなかったけれど、シャワーを浴び、さっぱりと乾いた服に着替えた時、首の後ろから背中にかけて何か冷たいものが駆け下りたような感覚がして、思わず肩を強張らせた。
どうした?と声をかけてくれるチームメイトに、何でもないと笑って手を振り練習場を後にする。
駐車場へ続く舗装路の途中、何もないところで軽くよろけたことは、車に乗り込む頃には忘れていた。
気が付いた時は、自宅のソファの上にいた。
見慣れた天井も、壁にかかった時計も、気に入って衝動買いした観葉植物も、全てが濃い夕焼け色に染まっている。
帰宅してすぐにソファで眠ってしまったらしい、足元には持ち帰ったままのバッグが、繋がれた犬みたいに置き去りになっている。
片付けも何もせず横になるだなんて、自分はそんなに疲れていただろうか、と身体を起こしたところで、ぐらりと視界が揺れた。
思わずソファの背もたれに腕を回して身体を支える、そうでもしなければ床に転げ落ちてしまいそうだった。
「………、」
固く目を瞑り、しつこく纏わりつく目眩をやり過ごす。
どうにか波が引いた隙を見計らい、身体を引きずるようにして寝室へ向かう。
ベッドに転がり込んで、無意識に詰めていた息を吐く。喉を通る空気が焼けるように熱い。
「……まいったなぁ…」
だめだ、完全に風邪をひいた。
自覚した途端、悪寒と全身の関節の痛みがすごい勢いで主張を始める。
恐らく熱もある、けれど測りたくなかった。具体的な数字を見たら、もっと具合が悪くなる気がして。
「……寝よ…」
たくさん汗をかいてぐっすり眠れば、次に目が覚めた時にはけろりと治っているかもしれない。
祈るような気持ちで、意識を手放した。
暗い。
前後左右どころか上下も分からない、目の前にかざしているはずの、自分の手のひらさえ見えないほどの闇。
一体ここはどこなんだろう。
辺りを見回してみても、今、自分がどちらを向いているのかさえ分からない。
と、すぐ脇を、見慣れた金色の髪がすり抜けた。
「あ、有志…」
自分の身体さえ見えない闇の中、不思議と彼の姿だけははっきりと見える。
声が届かなかったのか、こちらに気付く様子もなく、どこかへと真っ直ぐ歩いて行く背中に、慌ててもう一度呼びかけた。
「有志、待って!」
追いかけようとするが、足が動かない。深い泥濘に嵌まったかのように、ここから一歩も動けない。
「有志っ!」
小さくなっていく背中に何度も叫んだ。けれど彼は振り向かない。
「なんで…」
呆然とする自分を他所に、次々と現れては歩き去って行く、仲間たち。
「山さんっ、 藍っ、祐希!」
誰一人、立ち止まってはくれない。
心細さに鼻の奥がツンとなる。乱暴に腕で目元を擦っても、誰一人気にかけてはくれない。
「あ…、」
ぼやけた視界には、最も長く、最も近くで見てきた片割れの姿。
「智!」
どうかこの声が届いて欲しい。今度だけ、せめて彼にだけでいいから。
「待って、智!」
そう願い、名を呼んでもやはり先の仲間たち同様、彼の背中も徐々に小さくなってしまう。
堪えきれなくなった涙が頬へとこぼれ落ちたその時、彼の前方、ぽつんと闇に浮かぶ扉が見えた。
皆、あの扉の向こうへ行ったのだろうか。
「智、お願い!置いて行かないで!」
ありったけの声を振り絞っても、どうしても届かない。
彼がドアノブに手をかけ、扉が開く。扉の向こうがどうなっているのか、ここから窺い知ることはできない。
「智…っ!」
彼の姿が扉の向こうに消える一瞬前、確かに目が合った。
なんの感情も含まない、冷ややかな瞳。
扉が閉まる。自らの声しか聞こえない空間に、バタンと冷徹な音が響いた気がした。
「……、っ」
置いていかれた。見捨てられた。
大切な仲間たちに、大好きな彼に。
「ふっ…、ぅ、…ぅぅ…」
気付いてもくれない。振り向いてもくれない。
決壊した涙腺を、気にかけてくれることも、笑い飛ばしてくれることもない。
完全な 孤独。
「ぅ…、うああああッ!」
泣き叫んだって、誰も。
自らの叫び声で目が覚めた。
目を開けているはずなのに、映るのは先ほどまでと大差ない闇で半ばパニックに陥ったが、徐々に目が慣れると、ここが自宅の寝室だと分かり、深く深く息を吐く。
「夢…」
心臓がドクドクと耳の中で跳ねる。全身にびっしょりと嫌な汗をかいていた。
先ほどの出来事が全部夢だと分かっても、ここが安全な空間であると理解はしても、いまだ絡みつく恐怖で身動きさえできない。
ベッドから一歩でも降りたら、爪先が床に届くと同時に、またあの闇の中へ引きずり込まれてしまいそうで。
「………とも…」
涙と一緒に、思わず彼の名前がこぼれた。
「呼んだ?」
「!?」
軽快な音を立てて開かれたドアから、ひょこっと覗いたのは、今まさに口にした名前の持ち主だった。
反射的に飛び起きるも、熱か目眩か或いはその両方か、回る視界のためベッドに逆戻りを余儀なくされた。
「寝てなよトモさん、熱すごいんだから。」
「…なん で…?」
もう少し落ち着いたら着替えようねー と言って、濡らしたタオルで首元を拭いてくれる冷たい手を心地よく感じながら問うと、思ったより湿っぽい声が出てしまった。
「山さんが知らせてくれた、トモさん具合悪そうって。
だから明日のオフに来るつもりだったけど、前倒ししちゃった。
慌ててたから着替え一式忘れちゃったよー。」
勝手に借りるけどいいよね?
悪戯っぽい笑顔に、また新しい涙が溢れてしまう。
自分には、小さな違和感にも気付いてくれる人がいる。
取るものも取り敢えず駆けつけてくれる人がいる。
「トモさん?」
ひとり なんかじゃない。
「大丈夫?苦しい?何か食べて薬飲もうか、色々持ってきてみたけど…」
「、待って、」
腰掛けていたベッドから立ち上がろうとする彼の袖を、きゅっと握る。
「…もう少し、そばにいて。」
この声は、ちゃんと彼に届く。
「…喜んで。」
笑みを含んだ声と共に、骨張った手の甲がそっと頬を撫でた。
もう悪夢は見ないだろう。
目を覚ませばそこに、笑顔の彼がきっと待っていてくれるから。
安堵と共に押し寄せる眠気に身を委ねる。眠りに落ちる直前、
「…おやすみ、トモさん。」
柔らかな声と唇が、まだ熱を持つ額に、優しく降りてきた。
■おまけのインターホン■
「はーい。」
『あっ小川さん!?俺っす!』
「ゴリラのご訪問はお断りしておりまーす。」
『ひでぇ!智さん大丈夫ですか?山さんに様子見て来いって言われたんすけど…』
「俺がいるから大丈夫、てか邪魔しないで。早く帰って。」
『いやあの… 多分小川が来てるから智が心配、って言われたんすよ。』
「………あのお節介め。」
『とりあえず中入れて貰えます?体調悪いときに食べやすいものとか買ってきたんで!』
「どーせバナナとバナナとバナナでしょ、いらね。お引き取りくださーい。」
『ちょ!小川さ(ブツッ)
【あとがき】
一度は書きたい体調不良モノ、書けて満足です笑
熱がある時って悪夢見ませんか?私はコタツでうたた寝してると必ず見ます。
Wトモ時の#13くんは(右でも左でも)しっかり#20さんを守ってくれそうで頼もしいです。また書きたいお2人。
最後までお付き合い頂きありがとうございました♡
コメント
6件
初コメ失礼です🙇 密かにめろこ様の作品楽しんで見させてもらってます! ノベルの使い方、語彙力全部が神すぎで本当に大好きです🤍 私、リベロ組が大好きで山本選手が推しでこんな作品に出会えて幸せです😆 続き、気儘に待ってます!!
最高すぎる(*`ω´)b ボクは熱の時、ぐっすり寝てたみたいで何も夢とかの記憶がないんですよね笑 次の話も待ってます!
ひゃーー、今日も素敵な物語でした!!!私は熱の時、布団が大きくなってびっくりしたという謎の夢を見たことあります(笑) 次のお話も楽しみに待ってます♩!