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ミックの大冒険
第一章
ワンダーランドの約束
1
家を出たミックは今にも転がるような勢いで路上を駈け出した。
「大変だ…遅刻だ…。またアンジーに叱られるぞ…」
昨日の夜、隣のアンソニー爺さんから『約束を守れない奴は二流だ』と、釘を刺されたばかりだったのに…。
悔悛したところで時間は戻らない。
ミックは大通りに飛び出し、バスを探した。車は沢山走っているのだが、一向にバスは現れない。
「弱ったなぁ…どうしよう…」
そんなところへ同級生のマークがやって来る。
「おっ!これはこれは…誰かと思えば、弱虫のミックじゃねえか、どこへ行くんだ…」
マークは狡猾そうな瞳を光らせ、ミックの肩に手を掛けた。
「かまわないでくれよ。急いでるんだ、触るな…」
ミックが手を払うと、
「へん!そう邪険にすんなよ……どうせまたデートなんだろ…弱虫の癖にナマイキなんだよ!一体いつまで学校にこねえつもりなんだ。舐めるのも程々にした方がいいぜ。もう学校中探したって、どこにもお前の席なんかねえけどなぁ!」
マークの言葉がミックの胸に追い打ちをかける。
「じゃあな、チキンハート。一生休む気か!」
ミックはとぼとぼと歩きだした。
「わかってるさ、なにもかも…」
悔しくて涙がこぼれそうになる。
しかし、こうしてはいられない。
ミックは涙を拭うと、バス通りを脱兎の如く走り出した。
「大変だぁ…もう30分も遅刻だぞ!なんてアンジーに言い訳しよう…」
2
その頃、アンジーは中々現れないミックの事を祈るような気持ちで待っていた。
「どうしてなの…ミック…」
そこに黒い中折れ帽を被った屈強な男達が、忍び寄る病魔のように近づいて来た。
アンジーは声を上げる事もできず…彼らに取り囲まれてしまう。
「この娘に間違いないのか」
「ああ、間違いない。この碧い指輪が動かぬ証だ…」
アンジーは助けを呼ぼうと、持っていたバッグを振り上げるが、女の力ではどうにもならず、男達に捕まってしまう。
「黙って来てもらおうか…。悪いがお嬢さんの首には多額の賞金が賭けられているんでね。ここで手を引く事は、出来ない相談だ…」
「私に賞金が…」
アンジーは例えようのないショックを覚えた。
心の奥で叫びたい気持ちはあっても言葉にならない。
「お嬢さんは宝石強奪一味の立派な指名手配犯だ」
屈強な男達は萎れてしまったアンジーを連れ姿を消した。
アンジーは最後までミックを待っていたのに…。
3
ミックが約束の場所に現れたのは、アンジーの姿が消えてから、1時間近く経ってからのことだった。
「僕はいつだってこうなんだ…。ごめんよアンジー…」
ヘトヘトの体に夏の暑さが襲い掛かる。木陰に身を寄せ暫く佇んでいると、この辺りを根城に、空き缶集めをしているブルが体を揺さぶりながらやって来た。
「また厄介な奴が来たな…」
ミックが木の陰に隠れようとすると、ブルは隠れても無駄だ、とでも言うように、わざと口笛を吹いた。
「ようぅ~ミックじゃねえか。どうした、また振られたか」
ブルは嬉しそうに笑った。
「違うよ…アンジーが…」
「アンジーって、お前の金蔓のか…マサかな、お前みたいに気の小せい奴に金蔓なんている訳ねえか…どうした弱虫」
「アンジーがいないんだ…」
「お前弱っちいからフラれたんじゃねえのか。強くなんなきゃ駄目だぜ。まぁ俺なんか最初から相手されねえがな」
「アンジーはそんな娘じゃないよ」
そこにブルの仲間が妙なものを持ってきた。
「なんだそりゃ…」
「入口の所に落ちてた」
見ると髪を止める紅いリボンだった…少し色褪せているが見覚えのあるAのイニシャルが目に入った。
「これ…アンジーのリボンだ」
「何っ…」
ミックは胸騒ぎを感じ、リボンを手に取ると、辺り構わず大声で叫んだ
「アンジ───!」
ミックの声が周囲に虚しく響き渡り、心に穴の空いたような、底の見えない淋しさが、後を追って…こみ上げてきた。
4
しかし、どうすればいいんだ。アンジーの行方は全く解らない。破裂しそうな思いがミックの心を去来する。
「お前心当りはねえのか…」
「…ないよ。顔を見るのも5年振りだし…。ラズベリーフィールズの前で別れたきりなんだ…」
「ラズベリーフィールズって…孤児院のか…」
「うん…。そこで僕らは11歳まで一緒だったんだ。里親が見つかって別れる日まで…」
ミックの胸に昔の思い出が甦った。
ひ弱だった自分の姿が脳裏に浮かんだ。
「考えてたって始まらねえ」
ブルは郷愁に沈んでいるミックの肩に手を置き促した。
「でも…どうすれば…」
「どうすればって、おまえ…捜すに決まってんだろ。──おい~!みんな集まってくんねえか!」
ブルは仲間を呼び寄せた。
すると十人程の巨漢が腕捲りをしながら現れた。
「うほほ~ぉ人間が相手が?」
「そうだ…だが、喧嘩じゃねえ、人を捜すんだ」
「ヒトヲサガス…」
「そうだ」
ブルが同意すると、大男は落胆したように言った。
「なんが…つまんねえなあ…」
「そういうなよ。ミックが困ってるんだ。助けてやろうじゃないか、なあ」
「ん~ソウダナァ…わがっだよ。さがすが…」
「おう、頼んだぞ」
何はともあれ頭数だけは揃った。
「おい…誰か呪術師のピリポを呼んでくれないか…奴の心眼ならこんなヤマは朝飯前だ…」
5
それから暫くして、けたたましい音を響かせ、一台のバイクと伴に女装したピリポが現れた。
「さて、あたしの呪いを必要としているのはどこのどいつでおじゃる…」
「相変わらずだな…」
「その声は嫌われ者のブル公…街のクズがなんの用だい」
「俺はどうも両刀使いってえのが苦手なんだよ」
「あんたが一枚噛んでんなら私は帰るよ」
「おい待てって…話を聞いてくれよ」
「しつこいね」
「そう言うなよ」
ブルはピリポにこれまでの経緯を話した。ミックの境遇も血のついたリボンの事も…何もかも…。
しかし、ピリポは中々納得しない。
仕方なくブルは昔博打のカタに取った古いタロットカードをピリポの鼻っ先でチラつかせた。
「いつだったか…おめえ、このカードがお値打ち物だって言ってたよな」
「なんのことだい…」
「なんのことって、決まってるだろ。ことの次第ではこのカードを譲ってやってもいいって言ってんだよ」
「本当かい!?」
「ああ…本当だ」
ピリポの目の色が変わった。
「…けどね、条件があるよ」
「なんだい条件って…」
「…毎日シャワーを浴びて清潔な服に着替えることだね…それが出来ないのなら、あたしはあんたとは組まないよ」
「けっ、なにを言うかと思えば…」
「もし破れば金輪際一緒にはやらないからね…いいね」
「解ったよ…解ったから、早くお前さんの心眼ってやつでアンジーの居場所を捜してくれよ」
「言われなくても捜すわよ…デブ。──ほぉ~℃¥$♂♀¢£!」
「なんだよそれ…」
「ʼn§∞…呪文よ♪」
「……」
6
「あの…念のためだけど…これが落ちていたリボンです」
ミックはピリポに赤いリボンを差し出した。
「これね…ん~かぐわしい乙女の匂いがするわ」
「これがか…」
ブルは鼻を近付けてみる。
「分かんねえなぁ…床屋の匂いか…」
「オシャレの匂いよ。きっとこの匂いを追跡すれば彼女に辿り着けるわ」
ミックとブル達は、ピリポの直感を頼りに辺りを虱潰しに捜して見た。
しかし、どこにもアンジーの痕跡は残っていなかった。
「後はワンダーランドの中だけね」
ピリポがやれやれという顔でブルに言った。
「そりゃあ…厄介だぞ…あそこは表向きは慈善団体が経営していることになってるが、裏の顔は人でなしの集まりだ。おっかねえぞ…」
「そうだったわね…確か『沈黙の塔』だった筈…」
「ああ…けど、もう帰る訳にもいかねえしな。人数が多いと目立つから、二手に分かれて忍び込むことにしよう。おまえらは裏口に回れ」
「へい」
数人の浮浪者が顔を見合わせ頷いた。
「俺達は閉園直前に正面から入る」
「正面からって?大丈夫なの…」
ピリポが不安げに聞き返すと、ブルは冷静に言った。
「俺とおまえは顔が割れてるから普通にしてねえと却ってマズい…」
「まあ…そうね。疑われるともともこもないしね」
ブルは念を押すように強い口調で指示を出した。
「それじゃ落ち合う場所はワンダーマウンテンの前だ。アンジーの居場所が解かるまでは、絶対に動くんじゃねえぞ。いいな!」
「へい」
7
ワンダーランドの中は花火見物の客で溢れかえっていた。
その人ごみの中をかき分けるように、ブル達は慎重に進んで行った。
「どうだ何か感じるか…」
「うん~確かに…彼女はこの園内にいるわね」
ピリポは鼻をヒクヒクさせながら周囲を嗅ぎ廻った。
「もう暫くすると客が出て行く、その前にどこかに身を隠そう…」
ブル達は近くの物陰に身を寄せ、周囲の喧騒が消えるのをじっと待つことにした。
ミックは何も出来ない自分を目の当たりにして、今更ながら己の非力さに愛想が尽きた。
何もかも嫌気が差すような…そんな思いだった。
「大丈夫かミック、そりゃ無理もねえけどよ。乗り越えなきゃ前に進まねえのが人生だ。けど…そう壁にぶつかるたんびにビビってたら、越えられるものも越えられねえよ。早めにケツまくっちまう方が人生は楽だぜ。なっ…ほら、これやるよ…。丸腰じゃ戦えねえだろ。ダーティーナイフだ。──結局、どんな汚ねえ手使っても、自分の身は自分で守るしかねえってことだ。世の中には敵も多いしな。生き残らなきゃ明日もこねえよ」
ミックは手を差し延べてくれるブルが不思議でならなかった。いつもみんなから家無し(homeless)と馬鹿にされ、酷い目にあわされているのに…何故優しくなれるんだろう。
なんだか虚構に触れているような気がした。
8
暫くして華やいだ踊り子達の一団が、ミックらの隠れている前のカフェで雑談を始めた。
見るとみな猫の衣装に身を包み、思い思いに爪を研いだり、シッポの毛繕いをしたりと、猫の真似事をしている。どうやら新しいショーのリハーサルをこれから始めるらしい。
そこへどこからともなく猪首の男が目を光らせながらやって来た。
「おい見ろよ、リカルドだ…。よりによってアイツかよ…。俺の10倍のクズだ」
「3倍よ」
ピリポは鼻で笑う。
「…どっちにしろ、もう後戻りは出来ねえって事だ。──いいか…俺とこいつは顔が割れてるから、ミック…お前がリカルドを追うんだ。必ずアイツはアンジーの所へ行く…」
「…解ったよ」
「深追いは禁物だぞ。いいな…。俺達は奴が接触した踊り子を追う。何かボロが出る筈だ。その後仲間と合流するから、お前もすぐこいよ」
ミックは頷くとブルの指示通り、リカルドの後を追った。
取り巻きのいない事が、せめてもの救いではあったが、覚束ない足取りから不安が消えることはなかった。
「アイツには少し荷が重かったかな…」
ブルは心配そうに、自分の顎を何度も指で擦りながら思案した。
「大丈夫…きっとやり遂げるわ」
「…そうだな。──よし、俺達も踊り子の後を追うぞ」
9
満月が長い影を落とす暗い遊園地の中を、息を殺しミックはリカルドの後を追った。
奴のサングラスだけが月の光を受け、ナイフように冷たい光を放っていた。
「落ち着け…落ち着くんだ…」
自分の胸の鼓動が鼓膜を震わせている。
額を流れる汗が顎をつたい、ぽたぽたと渇いた地面に落ちていく…。
ミックは気が遠くなるような暑さの中、少しずつ間合いをつめながら進んで行った。
そして、物陰に身をひそめようとした瞬間、数人の男達に取り囲まれてしまう。
「それでも尾行してるつもりか…ボウズ」
リカルドは振り返ると、低い口調で言った。
「遊園地はとっくに閉園だ」
「…知ってるさ」
ミックは有りったけの勇気を振り絞って応えた。
「しかし、もう遊園地には来られないかも知れない」
リカルドが苦笑しながら、軽く指を立てると、突然ミックの目の前が真っ暗になり、意識がなくなった。
「まだ殺すなよ。裏で糸を引いてる奴がいる…そいつを捕まえてからだ」
「フフフ…ハハハ…」
「誰だッ…」
どこからともなく声が聞える。
「誰だはないだろ…久しぶりだなリカルド…」
「うッ…」
「悪い事には気が利くな……私を忘れたのか…」
リカルドは目を凝らして周囲を見渡した。
「…その…声は………ユダ…貴様…まだ生きていたのか…」
「クリストは元気にしてるか…」
「どこにいる…出てこい…」
「そう焦るな。今そっちに行くよ」
10
言葉に誘導されるように、ミックの体が動き出した。
「操っられているのか…いや違う…奴は既に死んでいる…これはトリックだ…」
「相変わらずだなリカルド。試練の始まりだよ…」
ユダの笑い声が響く中を、ミックは夢遊病者のように立ち上がった。
フラフラと近づくミックに、リカルドは不気味な影を感じとる。
「お前にこの子は殺せまい。指輪はこの子に返せ。指輪は選ばれし者を欲しているのだ。その事を忘れたのか…」
「まさか…こいつが選ばれし者だというのか…ふざけるな!」
リカルドは拳銃を抜くと、ミックの眉間に銃口を押しあてた。
「やめておけ! お前の敵ではない」
「うるさい! 試してやる…言い伝えが正しければ、こいつは無敵の筈だ…」
リカルドは撃鉄を起こし、引き金に指をかけた。その瞬間、突然虚空を切り裂くようなアンジーの叫び声が響いた。
「ミ──ック!」
不意を突かれたリカルドは手元を狂わせ、急所を外してしまう。
「畜生…誰だ!」
憤激し銃口を向け直すと、そこにはブルが立っていた。
「わりいなあ…、けど…おしゃべりな踊り子には注意しといたぜ」
「ふざけてるつもりなのか、ゴミ野郎…」
「お前自分が思う程強くねえよ」
リカルドはわざとへつらうような薄笑いを浮かべ、
「取り引きしようじゃねえか。お互い命は大事だ」と話を持ち掛けてきた。
11
「素直に指輪をよこせば、ここから生かして帰してやる…。だが、それを拒めば…」
「罠よ…」
「分かってる…」
「あるのは、死のみだ!」
リカルドは再び撃鉄を起こすと、銃口をブルの方へ向け直した。
「悪い取り引きじゃないだろ…」
「それならまずミックを解放しろ…」
「フッ…こいつか…こいつはダメだ。まだ調べなきゃならない事がある。──もしこいつがユダの言う通り、選ばれし者だとしたら…」
「…ならなんだ!」
「終焉が近づいているかも知れない…」
「終焉だと…ふざけるな!お前らの悪事に、ミックを巻き込むんじゃねぇ!」
あきれ顔でリカルドが帽子を目深に被り直すと、突然地響きが起こり隣の建物が崩れ落ちた。そして、その壁の奥から黒い装甲車が現れた。
「リカルドそこまでだ!」
装甲車の上から鷲鼻の男が大声を上げ、降りてきた。
「なんでこんなウジ虫どもの為に、お前が手を汚すんだ。これも慈善事業なのか(笑)」
「まあ…そういうことにしておきましょう」
「フン…どうせゴミどもだ。綺麗にしてやるよ。そうだなぁ…全部まとめて1500でどうだ…」
「あの娘はよこしてもらいますよ」
「なら5000だ。跡を残すと面倒なんでな」
「大丈夫、ちゃんと消しますよ…警部さん」
リカルドは警部の肩をポンと叩くと、「骨も残さず、お願いしますよ」と悪びれずに言った。
「ああ、心配するな。全員行方不明だ」
12
「これより殺処分を開始する。全員配置につけ! 対象は腐ったウジ虫どもだ。過去に前例がないほど徹底的にやれ!」
警部の声が辺りに響き渡る。
「──かかれ!」
「よし、今だ…」
ブルは予め手配していた連中に合図を送った。
するとサーカス小屋のテントが、「ギギギギ……」と音を立て、装甲車の上へ倒れ込んで来た。
(ぐうおおぉぉ~)
一気に鷲鼻とその仲間達はテントの下敷にされ、その上を猛獣達が猛り狂って行く…。
天と地がひっくり返るような勢いに、リカルドは度肝を抜かれ立ち尽くす。
「どういう事だ…これは…」
銃声が暴れる虎や象の群れにかき消されていく…。
「畜生…誰かこのガキを運べ! 娘の方は俺がやる。お前達は港へ急げ。……ブル公の奴め只では済まさんぞ!」
13
暗い闇の中、心の声が聞える。
「…ミック…分かるか…リカルドから指輪を取り戻し…スラップ島に住むロジェの下へ行くんだ…奴らより早く…」
ミックは朧気な意識の中で、ユダの言葉を聞いていた。
「…スラップ島の……ロジェ…一体…何の関係があるんだろう…」
その時、アンジーの声がミックの意識を叩いた。
「ミック!起きて~」
ミックはアンジーの声にはっとし目を開く。
「アンジー…」
ミックが身を起こすと、辺りは猛獣達が荒れ狂う大スペクタクルに変貌していた。
「ついにお目覚めか…丁度いい…今からいいものを見せてやる」
リカルドはドラム缶を倒すと、油を撒き出した。
「なぜそんなことをするんです…」
「見てれば解るさ」
「無駄ですよ!──全てを消し去っても何も変わらない…」
「全てを消す──愚か者め…すべては始まったばかりだ。恐怖のプレリュードがお前には聴こえないのか!」
ミックはブルから貰ったナイフを抜くと、リカルドの前に歩み出た。
「フフ…正気なのか…。お前に俺を倒すだけの力があると思っているのか…」
「倒す…!」
「気を付けろミック!そいつはアサシン(刺客)だ。人を殺める事なんてなんとも思っちゃいない」
「失礼なことを言うな。ただ…悲しくないだけさ」
リカルドは素早く拳銃を抜くと、足元のドラム缶を数発撃った。油が辺りに広がっていくのを、ミックは息もせずに見ていた。
「こうなっちまったら…もう終りだ」
ミックは地面から立ち昇る恐怖に脚が竦み、ナイフを持つ手が震えた。
「簡単に死ねればいいがな。痛みは死よりも恐ろしい…。お前に死の幸福が解るか…解るまい。何故ならお前はまだ本当の恐怖を知らないからだ!」
14
「どうやらユダの言っていたことは杞憂だったようだ」
「……」
「──さらばだ!」
リカルドはロープに掴まると、油にライターの火を放った。
辺りはみるみるうちに火の海になり、ミックは炎に包み込まれていった。
「待ってろ‥今助けてやる!」
ブルは看板を盾に燃え盛る炎の中へ飛び込んだ。そして、放心状態のミックを連れ出そうとした瞬間、炎に飲まれ、ブルは真っ赤に燃え上がった…。
炎と化したブルの姿を、ミックは何も出来ずただ青ざめた瞳で見ていた。
──その時心の深奥で何かが砕け散るのを、ミックは感じた。
そこにはもう一つの燃え盛る十字架が、雄々しい姿で立つていた。無力な自分をせせら笑う、もう一つの十字架の姿があった。──
自分を救う為に燃え上がる命。
ミックにはそれに値する自分を見つけ出すことが出来ない。
「こいつは頂いていくぜ…」
ミックが振り向くと、炎の中にリカルドが立っていた。その腕にはアンジーを抱かえ…。
「この娘のことは早く忘れるんだな…」
「アンジー……アンジーを返せ!」
リカルドは薄笑いを浮かべ、
「卑怯者のお前にそんな事が言えるのか…。そんな力がないことは、お前が一番解っているはずだ。───いいか…狼が羊の餌食になる事はないのだ。忘れるな…。アディオス!」
15
リカルドに抱えられ、アンジーは煤煙の彼方へ消えて行った。後には失意と瀕死のブルが残された。
ブルは最後の力を振り絞って語り掛ける…
「なあ…ミック…」
「なに…」
「口惜しいなぁ…正しいものが敗れちまうなんて…」
「うん…」
「お前…強くなりたかねえか…」
「──なりたい!」
ミックは心の底からそう思った。
「当然だな、恋人をさらわれて強くなりたくねえ奴はいねえ…」
ミックの目から涙が溢れた。
「…大事なのは…本当の仲間を作る事だ。そして、お前の手でアンジーを取り戻す事だ…忘れるんじゃねえぞぉ。お前の手で取り戻すんだ……必ず…だぞ… … 」
───ブルは逝った。…少し前の彼方へ
翌日。ミックは教会でピリポと会った。ピリポは落ち込むミックに優しい言葉を掛けた。
「気にする事ないんだよミック…。花道を作って上げたんだ…。ブルのようなホームレスじゃなきゃ解らない事もあるよ。誰からも慕われない者じゃなきゃ、嬉しさは解らないよ…」
ミックは何も言わず、ブルの柩に手を合わせた。ブルを軽蔑していた自分が恥ずかしかった。
──そして、それが唯一の後悔となった。
16
「これから…あんたどうするつもりだい。ブルに何を言われたか知らないけど、あんな連中に関わると、命がいくらあっても足りないよ。あんたがいくら頑張ったって、歯が立つ相手じゃないんだから…。ケチョンケチョンにやられるだけだよ。やめときな…」
ピリポが言うのも、もっともな話だった。たった独りで立ち向かうには相手が悪すぎる。第一どこにいるのか解らない。
「…アンジーはどうなるだろう」
「それは…運命が決める事よ」
──ミックはどうしても諦める事ができなかった。
アンジーのリボンを握りしめ、ミックは心に誓う。
「必ず僕の手で運命を変えてやる。それが出来なければ…全ての終りだ!」
その夜。ミックは短い置き手紙を残し、住み慣れた養父母の家を後にした。
漸く掴んだ幸福と引き換えに、ミックは何を手にするのだろう…。
第一章 完
[trailer]
波の音が聴こえる。
故郷はずっと東だ。
僕の生まれた街を君に見せて上げたい。
果てしない水平線に向かって
君の名を叫ぶんだ。
「アンジー」
きっと‥きっと
何処かで僕を待ってる。