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「ハァ、ハァ、ハァ……!」
結羽は誰もいない廊下を無我夢中で走っている。
廊下は走ってはいけないとわかってはいたが、今はそんなことを考える余裕はなかった。
「おい、逃げんじゃねぇよッ!」
背後から綾樹が追い掛けており、結羽は必死に逃げている。
捕まったら何をされるのかわからない。
そんな恐怖が過り、普段から走り慣れていない結羽はできる限り足を加速させる。
「っ……!」
だが、その頑張りは束の間に終わった。
背後から片腕を掴まれ、結羽の身体は後方に引っ張られる。
見上げれば、こちらを見下ろす綾樹が結羽の腕を掴んでいた。
「はっ……お前、足遅すぎなんだよ」
「離してよッ!」
結羽は必死に掴まれている腕を振るが、恰幅のいい男相手に敵わなかった。
「っ……!」
「痛ってぇ!」
結羽は手に持っていたお弁当が入った手提げ袋を振り回し、綾樹の脇腹に直撃させた。
衝撃で綾樹の力が緩み、その隙に結羽は綾樹の手を振り払った。
痛みに顔を歪ませる綾樹を一瞥してから、結羽は再度走り出した。
咄嗟に出た一撃のお陰で、何とか距離を離すことに成功した結羽は次の角で綾樹を撒こうとする。
「きゃっ……⁉︎」
後ろを気にしながら角を曲がった瞬間、誰かとぶつかり、結羽は衝撃で尻餅をついた。
前方から驚く声が上がる。
「うおっ……⁉︎」
聞き覚えのある声に驚いて顔を上げると、そこには冬真がいた。
「え、ちょっ……! 大丈夫ッ⁉︎」
次に別の声が耳に入る。
結羽は視線を冬真の隣にやると、派手な見た目をした女子生徒が心配そうに二人の顔を交互に見る。
「天野さん⁉︎ ごめん、大丈夫⁉︎」
冬真は慌てて、結羽に手を伸ばす。
「う、ううん! こっちこそ、ごめんね! 私が前を見てなかったから……」
結羽は伸ばされた手を取ると、冬真は軽々と引っ張って立ち上がらせた。
「走ってたみたいだけど……一体どうし――」
冬真が問い掛けようとした時、結羽の背後から灰色の髪が視界に入る。
綾樹だ。
「……!」
綾樹は冬真を見ると、バツが悪そうな表情を浮かべる。
それを見て状況を察した冬真は、呆れるように綾樹の前に立つ。
「お前……また天野さんいじめてんのかよ」
「は? 俺が何しようが勝手だろ」
二人のやり取りに、冬真の隣にいた女子生徒が「アンタねぇ……」と声を上げる。
「冬真から聞いたけど、ホントいい加減にしなさいよ。天野さん、嫌がってるってわからないの?」
「横から口出しすんじゃねぇよ。邪魔」
「言いたくなるわよ。アンタがしていることマジでムカつくのよ!」
「な、何だよ……」
女子生徒の気迫に、傲慢だった綾樹の顔が強張る。
その瞬間、場の空気が変わる。
遠くの廊下から歩いて来る生徒たちが「なに、喧嘩?」「え、怖っ……」という声が聞こえてくる。
「あーあ……なんか萎えたわ」
二対一の上、これ以上騒ぎを起こしたくないと思った綾樹は三人を残してその場を去った。
「…………」
綾樹が立ち去った後、しばし沈黙が流れる。
「天野さん、大丈夫?」
結羽を心配そうに声を掛ける女子生徒の名前は、森西花梨。
栗色のロングヘアーにモデルのような体型。
色白で整った顔立ちにナチュラルメイクを施している。
鋭い切れ長の目から、凛とした印象を与える。
「だ、大丈夫……ありがとう。それと、ごめんね。巻き込んじゃって……」
「気にしないで、あたしが許せなかっただけだから」
結羽は去年、花梨と同じクラスで何回か話したことがある。
クラスは違い、挨拶を交わす程度の間柄で友達という範疇には属していない。
「ねぇ、八代のこと……先生に言った方がいいよ」
「花梨の言う通りだな。ほっとくとまた調子に乗るぞ」
二人の提案に、結羽は首を横に振る。
「前に、先生には言ったんだけどね……それが返って逆ギレされたんだ」
それを聞いて、冬真と花梨は困惑して顔を見合わせる。
二人にそんな顔をさせてしまい罪悪感を覚える中、結羽はある物に目が留まる。
(え……?)
それを見て、結羽の心臓に大きく脈を打った。
「天野さん?」
冬真に名前を呼ばれ、呆然としていた結羽はハッと我に返る。
「あ、ううん。何か二人仲良いなって思って……お互い下の名前で呼んでたし」
「え? ああ……うちら、部活が一緒だから自然とね」
花梨はハッとした表情で、何か隠すように言葉を濁らせた。
その様子に結羽は怪訝に思ったが、先ほど視界に入った物について二人に問い掛ける。
「えっと……聞いてもいいかな? 二人が嵌めている指輪お揃いだよね? 見た感じメーカーも一緒だし」
冬真と花梨の右手の薬指にお揃いのシルバーリングが光っていた。
人気のない場所で二人一緒にいて、お揃いの指輪を嵌めている。
偶然にしては、あまりにもできすぎている。
それなら、答えは一つしかない。
「……違ってたら、ごめんね」
――聞きたくない。
だが、結羽の心は意に反して、言葉が勝手に出てくる。
「……篠崎くんと森西さんって、付き合ってるの?」
聞いてしまった。
結羽の言葉に、冬真と花梨の顔がほんのり紅潮していた。
その表情を見て、結羽は確信した。
「ああ……えっと」
花梨は気まずそうに、冬真の顔を見返す。
何か言いたげだが、口にするのを躊躇っているように見えた。
「花梨。天野さんは口が堅いし、話してもいいんじゃないか?」
冬真は意を決して、花梨が言いたかったことを代弁する。
「気づいてると思うけど……俺たち、付き合ってるんだ」
照れくさそうに打ち明ける冬真。
冬真の隣にいる花梨は落ち着かない様子で顔を俯かせる。
「そうなんだ!」
結羽は一瞬頭が真っ白になったが、何とか冷静を取り戻し、明るい口調で言葉を返す。
「二人共すごくお似合いだよ! まさに美男美女カップルって感じ!」
「……天野さん、大袈裟だよ。花梨は美女として、俺なんか全然……」
「え、ちょ……! 冬真ってば何言ってるのよ!」
冬真に『美女』と言われ、顔を真っ赤にさせた花梨は冬真の背中をボカボカと叩く。
「痛いって! 本当のことだろ!」
「あ〜、もう! それ以上喋んないで!」
まるで夫婦漫才しているようなやり取りだった。
お互いの名前を呼び合う仲睦まじさに、結羽はチクリと胸が痛む。
そこで、花梨は手を止め、再び結羽に顔を向ける。
「天野さん……お願いがあるんだけど、私たちが付き合っていること黙っててくれるかな? ほら、こういうのって周りがうるさくなるしさ」
「あー……それは確かに面倒だよね。あ、ごめんね……昼休みなのに、二人の時間を邪魔しちゃって……」
「ううん、久しぶりに天野さんと話せて楽しかったよ。あ、また八代に何かされたら言ってね。いつでもぶっ飛ばしてやるから!」
「ありがとう。それじゃあ……」
お幸せに……と無難なお祝いの言葉を返して、結羽は早足でその場を去ったのだった。
◇ ◇ ◇
結羽が向かった場所は、図書準備室だ。
扉に背を預け、結羽はずるずると座り込む。
『……俺たち、付き合ってるんだ』
脳内に響いてくる冬真の声に、結羽の胸がぎゅっと締め付けられる。
涙さえ流れなかった。
(……そうだよ。片想いのまま秘めておこうって決めてたじゃない)
――落ち込む資格なんかない。
――泣く資格なんかない。
「でも……やっぱり、キツイな」
生まれて初めての失恋に、結羽の甘くて切ない恋は終わった。
◇ ◇ ◇
「…………」
結羽は自室のベッドの上で、呆然と白い天井を見上げる。
静寂な自室で、時を刻む秒針の音が聞こえる。
「ハァ……」
結羽の口から溜め息が漏れる。
あの日の失恋が忘れられなく、結羽はぼんやりとした日が続いている。
胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。
それを埋めようと、お気に入りのゲームをしたり、音楽を聴いたりするが、内容が頭に入ってこなかった。
それどころか、食欲も湧かなく、食べようとしても味を感じずにいた。
両親は心配したが、結羽はダイエットしたいからと誤魔化した。
「いい加減……立ち直らないとな」
落ち込んでいても何も始まらない。
結羽はこの失恋を思い出として受け止め、前に進もうと決意した。
「もうすぐ期末テストが始まるし、そっちに専念しないとね」
ベッドから起き上がった結羽は、鞄から日本史の教科書を取り出し、勉強机に向かい合って座る。
結羽の勉強法は暗記用ノートに何度も書いて覚えることだった。
歴史の内容にいまいち理解できない結羽だが、暗記で歴史人物と年代を覚えていた。
結羽にとって暗記は唯一得意分野であり、他の教科もそれで平均以上の点数を取っていた。
「…………」
テスト勉強に集中しているうちに、結羽は自然と失恋の辛さから気を紛らわすことができた。
そんな中、結羽の脳裏に綾樹が過ぎる。
(あいつ……毎回テスト結果の度にマウント取ってくるんだよね……)
クラス順位で結羽は、綾樹と同じ十位以内だ。
でも、悔しいことに結羽は、クラス順位で綾樹に勝てたことはなかった。
前回の中間テストでは、綾樹は二位、結羽は三位という結果だった。
(私のことライバル視してるとか……いや、それなら一位の篠崎くんよね……)
結羽は綾樹にライバル視はしていないが、負けたくない気持ちはあった。
毎度嫌がらせやマウントを取ってくる綾樹を言い負かす手段は、この定期テストしかなかった。
(まぁ……私が強く言えないから調子に乗っているだけよね……)
綾樹の行動に理由がわからない結羽だが、気を取り直してテスト勉強に集中するのだった。
◇ ◇ ◇
「……ん、……さん、天野さん?」
名前を呼ばれ、結羽はハッと我に返った。
顔を上げると、目の前に床ブラシを持った冬真がいた。
一日の授業が終わり、結羽は冬真を含め、同じ班のクラスメイトたちと教室の掃除をしている。
「あ、えっと……何かな?」
「さっきから元気ないから……もしかして、また八代に何かされた?」
訊き返した結羽に、冬真は心配そうに言う。
「う、ううん! 違うの! 期末テストが近いから、何だか落ち着かなくてね……」
「あー……今回範囲多いもんな。俺、数学めっちゃ苦手……」
「私は英語……英文を日本語に訳すとかすごい苦手なんだ。でも、篠崎くん今回も絶対一位だよ」
「わかんないよ。もしかしたら、天野さんに抜かされるかもしれないからな」
「私は暗記で乗り切ってきたもんだから、ちゃんと内容を理解している篠崎くんがすごいよ」
そんなやり取りをしていると、冬真の背後の向こうで掃除している女子生徒たちがひそひそと話しながらこちらを見ていた。
それに気づいた結羽は女子生徒たちが何を話しているのか聞こえなくても察しがつく。
「篠崎くん……掃除」
「あ、そうだな。ごめん、話し込んじゃって……」
「ううん、心配してくれてありがとう」
二人は再び掃除を開始し、ゴミがありそうな場所を床ブラシで掃くのだった。