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「お嬢ちゃん」
校門を出たところで話しかけてきた顔には確かに見覚えがあった。
琴子は思いがけない人物の来訪に言葉が出ず、小さく会釈する。
「もうすぐ卒業式か」
琴子もこの5年間で身長は40センチ近く延びたが、それでも青柳は大きかった。
黙って見上げると、少し皺の増えた顔で、青柳は笑った。
「こんなに大きくなるまで待たせて悪かった」
胸ポケットをさぐり、金色のそれを取り出した。
「約束通り、これを返しに来た」
夜のニュースで、木下初枝の傷害致死罪で逮捕された男が、犯行を認めたと報道された。
青柳が8年間、どんな捜査をし、どのように犯人を追い詰めたのか当時はわからなかった。
だが琴子の元には、血液が拭き取られ、刺したときの衝撃で外れかけた鈴も綺麗に直された、かんざしが戻ってきた。
その喜びと共に胸に芽生えた、黒い感情はなんだろう。
犯人が逮捕されないことで、保っていた何かがあった。
それが事件が解決してしまったことで、残ったのは、初枝がいない現実だった。
その穴を必死に埋めようとして、青柳に抱いた感情は、憧れか恋か、はたまた依存か耽溺か。とにかく病的に青柳を求めていた。
また会いたい。また話がしたい。そうだ、警察に入って、一緒にこの町を守ろう。その幼稚な夢は、不思議なほど琴子を支え、胸に空いた穴を塞いでくれた。
だが高校生のときの職業体験で訪れた松が岬署で、担当してくれた巡査に青柳のことを尋ねると、去年退職したと聞かされた。
「ご家庭の事情でね」
彼の困った顔を見て、何か訳ありなのは想像できたが、ただただショックだった。
彼に警察を辞める選択をほどの大事な家族がいたこと。自分の届かないところに行ってしまったこと。
琴子はなんだか裏切られたような気がした。
そのどす黒い深い穴を埋めるように住み着いたのが、赤い気配だった。いや、壱道の言葉を借りるなら、赤い狂気と呼ぶべきか。
大学に進学し、法律を学んでいた琴子は、その四年間で、三人に怪我をさせた。
一人目はゼミの友達にセクハラした助教授。
二人目はサークルの後輩に酔って手を出した男友達。
三人目は偶然居合わせた道端でお婆さんのバッグを奪おうとした引ったくり犯。
教材の分厚いテキストで殴られ、頭を二針縫った助教授は、訴えることはしなかった。
ひっぱたいた拍子に下駄箱に突っ込み、肘を打撲した男友達は後輩に土下座して謝った。
小手返しで投げ飛ばした引ったくり犯については、警察署から表彰までされた。
だが実際は、その三人を攻撃した瞬間の記憶はほとんどない。
怒りで熱くなると、どこからか鐘の音が聞こえてくる。
遠き山に日は落ちて
古く調子が外れ、不協和音に近い錆びた音色。
ーーーまた後悔したいの?
リンと鈴を揺らして、赤い狂気がやってくる。
それは小さな子供くらいの大きさで、赤い靄の塊のようなものだ。それが少しずつ広がって、目の前が真っ赤になると、底知れぬ憎しみの感情で一杯になる。
本当はわかっていた。
赤い狂気は、着物に身を包み、髪にはあのかんざしを刺した、四歳の琴子だ。
目の前で祖母を殺され、守れなかった自分に後悔し続ける自分自身だ。
呼び鈴を押すと、中で小さく音がした。
その後、ゆっくり床のきしむ音がして、施錠が外され、内側からドアが開いた。
グレータートルネックのシャツに黒いスラックス姿のその人物は、まるで来るのをあらかじめ知ってたように、抵抗なく招き入れた。
部屋に上がると、タオルを差し出される。
「ありがとございます」
雨の滴で濡れた頭を軽く拭きながら、導かれるままにダイニングチェアに腰を掛けると、その人物は対面キッチンの向こう側に移動し、お茶の準備を始めた。
俯いたその顔からは想像ができない。
この人は、少なくても一人、多ければ三人、すでに殺している。
まもなくコーヒーの良い香りとともに品のよいブラウンのティーカップが置かれる。
真っ黒なコーヒー。琴子はその水面に移った、自分のひきつった顔を見つめた。
「冗談だ」
顔をあげると、ミルクと砂糖が飛んできた。慌ててキャッチすると、成瀬壱道はにやりと笑った。