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「ウーヴェ?どうしてそんな格好をしているんだ?」
通行人で彼を知る者がその声に気付いて目を丸くしたり連れ立っている者同士でヒソヒソと何やら囁きあったりするが、レオポルドから視線をウーヴェへと向ける前にベルトランの身体に阻まれ、何が起こるのかを想像しつつ立ち去る中、通行人の視線にも気づけないほどの衝撃を受けているのか、レオポルドが目を瞠りつつ一歩を踏み出す。
「おじさん……」
ウーヴェの行動を止めてくれる人が現れたのは嬉しいが長年関係を断っているウーヴェの父であることに複雑な表情を浮かべた彼は、どうしたと己の肩越しに覗き込むレオポルドに向けて口を何度か開閉させるが、ウーヴェの姿と項垂れているリオンを発見した瞬間、思わずベルトランが耳を塞ぎたくなるような声でリオンの名を呼ぶ。
「お前は何をやってるんだ!」
「――!!」
突如聞こえた怒声にリオンが苦痛に歪む顔を上げてレオポルドを見ると厳つい顔を怒りの為に赤くした恋人の父が恐ろしい形相で睨み付けていて、その視線の強さに上げた顔を再度伏せてしまう。
いつかこの人のような男になりたい、そう密かに願い意識しなくてもなれるようにと心構えを持っていた男に怒鳴られるだけではなく、もっとも見られたく無い姿を見られてしまい、顔を上げることが出来なくなってしまう。
「何をやっているんだと聞いている! 答えろ、リオン!」
口を開くことも出来ないでただ項垂れるリオンに苛立ちを隠さないで怒鳴ったレオポルドは、今度はベルトランにジャケットとシャツをウーヴェに渡せと命じるが、その言葉に従う前にウーヴェが静かに首を振る。
「必要無い。バート、持っていてくれ」
後でそれらは総て売り払うつもりだ、だから持っていてくれないかと穏やかに告げたウーヴェは、己がこれから行おうとしている行為について何年ぶりになるのかと思わず苦笑してしまうが、その苦笑を納めると同時に父の顔を真正面から見つめてもう一度首を左右に振る。
「――父、さん……俺と、リオンの問題、だ、から……」
だからどうかそっとしておいてくれと途切れ途切れになりながらもしっかりと己の思いを口にしたウーヴェにレオポルドが心底驚いた顔で息子を見つめるが、俺の息子が路上でストリップをしてるのを黙ってみていられるかと怒鳴り、良いから早く服を着ろとも叫ぶと、項垂れているリオンの胸倉をベルトラン以上の強さで掴んで無理矢理顔を上げさせる。
「この間俺の所に調査官とやらが来た。過去にお前が担当した事件を調べ直したところで不正に繋がるものなど発見できないと言っておいたが、このざまは何だ!」
あの日、リオンを疑われたことへの苛立ちを二人の調査官とやらにぶつけたレオポルドだが、結果的には強力な援護の手を差し伸べていて、その期待を裏切っているような姿を見てしまえば苛立ちが募ってしまうのは仕方がない事だった。
しかも何故かウーヴェが滅多に見せることが無い喉や胸元を曝しているのを見てしまうと、たとえそれがウーヴェ自らが望んだ行為であってもリオンに苛立ちをぶつけてしまう。
「……父さん……リオンか、ら……手を離して下さい……」
どうかお願いしますとレオポルドの腕に手をかけて怖じ気づくでも嫌悪するでもなく、ただ今はひたすらにリオンを護りたい一心で絶縁状態だった父を見上げたウーヴェは、苛立ちを浮かべた顔のまま睨まれても微動だにせずにもう一度頼みますと告げて腕にかけた手に力を込める。
「手を離して欲しいと思うのなら先に服を着ろ、ウーヴェ。いくら関係ないと言おうが、俺の子どもが路上で服を脱いでいる姿など見ていられるか」
その言葉は息子を思う父としては当然のもので、おじさんの言葉に従えとベルトランもウーヴェに服を突きだすが、その二人の顔を同じだけ見つめた後、ウーヴェがもう一度首を左右に振って父と幼馴染みの言葉をやんわりと拒絶する。
「必要無い。……それがあることでリオンを喪うのなら、そんなものは必要無い」
ウーヴェの声が夜風に乗って二人と、無表情に、だが唇を噛んで思いを堪えているリオンに届けられると、ウーヴェの手がアンダーシャツの胸元に宛がわれ、何かを捉えるように手が丸められる。
「……父……さんも……、分かるはず、です」
幼い頃、自分を膝に載せて母との出逢いを照れたような顔で聞かせてくれたあなたならば今の自分の気持ちが理解出来る筈だと、家族間に埋めようのない亀裂が生まれた夜以降初めて穏やかな顔で父を見つめたウーヴェだが、何度目になるのか分からない自嘲の声が聞こえてきた為、二人揃ってその声の主を見ると、レオポルドの手で支えられていた肩が揺れ、艶を無くしたブロンドが小刻みに揺れていた。
「……良いよな」
「リオン?」
「……特別な、子どもって……良いよな」
特別というだけで全てのものを与えられ、どれ程望もうとも決して特別になり得ない子どもが生涯を掛けても手にすることの出来ないものを生まれながらに持っているのだからと、自嘲を通り越したこの世の全てを笑い飛ばそうとするような暗い声にウーヴェが短く舌打ちをし、父が来なければリオンを家に連れ戻せるかも知れなかったのにと恨みの思いを胸に芽生えさせるが、その時、地の底から沸き起こってくるような低い声が聞こえたかと思うと、何かに突き飛ばされてウーヴェの身体が蹌踉けてしまい、ベルトランが慌てて支えてくれた為に転倒を免れる。
「ふざけるな」
リオンのシャツの胸元を握っていた手がその身体を突き飛ばすように伸ばされた結果、背後の壁に背中を強かにぶつけたリオンが顔を顰めるが、その顎を伸びてきた大きな手が鷲掴みにし、決して逸らすことの出来ない強い光を湛えた瞳に睨まれてしまう。
「リオン!」
父の横顔から本気で怒っていることを察したウーヴェが顔色を無くし、本気で怒る父を止められる母がいないことに舌打ちをするものの、このままではアルコールを摂取しすぎているリオンが危険であることを察すると、一度拳を腿の横で握り意を決したように顔を上げて再度レオポルドの腕に手をかけるが、聞こえてきた言葉に目を瞠って二人の顔を交互に見つめてしまう。
「お前、俺がいつかウーヴェを特別な子どもだと言ったのがそんなに気にくわないのか?」
「…………」
「確かにウーヴェは俺やリッドにとっては特別な子どもだ。ただな、それはバルツァーの総てを受け継ぐ子どもだから特別だと言ったのではないぞ」
現に俺やリッドがどれ程望もうともバルツァーという約束された地位に見向きもしないでウーヴェは己の腕一本で生きていく道を選んでいると告げ、青い瞳にかかっている靄を見透かす強さで睨み付ける。
「ウーヴェが、この子が特別だと言ったのは……失われていた家族の温もりを取り戻す切っ掛けになったからだ」
崩壊寸前だった家族の絆を再び取り戻すだけではなく、外からの力に決して負けない一枚岩のような強固なものに作り替えてくれたのがウーヴェの存在だったと、レオポルドが微かに目を潤ませながら告げると、リオンの目の靄が少し薄れていく。
「俺が持つ総てを与えたいと思っていたがそんなものは要らないと撥ね付けられた」
開業した時にも自分たちからの援助は一切受けないと断言したウーヴェの顔を思い浮かべているように拳を握ったレオポルドは、己の腕に手をかけたまま呆然と見つめてくる末っ子を愛おしそうに細めた目で見つめると、歯を噛み締めて顔を背けているリオンの血色の悪い横顔へと視線を移動させる。
「ウーヴェは俺たちにとって……天から授かった子どもと同じだった。ミドルネームのように幸せな、幸せになって欲しいと思っていた」
だがお前も知っているだろうが、ウーヴェが10歳の時に巻き込まれた事件が総てを一変させたと溜息混じりに告げると、リオンの顎を手放した手を開き、ウーヴェの白とも銀ともつかない髪を撫でてその感触を手に刻むように何度も撫でる。
「――俺たちに過ちを忘れるなと教えてくれる存在だ」
その言葉は小さくてリオンの耳には届かなかったがウーヴェには当然届いていて、さすがに己に対し父がそのような思いを持っていたことが想像出来ずにただ驚いていると、レオポルドが吐息を零して気分を切り替えるように整えられている口ひげを指で扱く。
「それに……何もウーヴェだけが特別な子どもではない」
お前自身も特別な子どもであることに気付いていないのかと吐き捨て、リオンの目を見開かせたレオポルドが腕を組んで太い吐息を零した後、その腕を解いてリオンの頭に大きな掌をぶつけるように載せる。
「…………ど、……いう……」
「俺にとってウーヴェが特別な子であるように、お前を育ててくれたマザー・カタリーナとやらやお前の姉だったシスターにとってはお前が特別な子どもだ。そんな事も気付かないのか、お前は」
レオポルドの言葉に今度こそ零れ落ちそうなほど目を瞠ったリオンが呆然と口を開くと、生みの親や育ての親にとって特別でない子どもなどいるはずがないだろうと打って変わった優しい口調で諭され、レオポルドの手を掴んで頭から離させるだけの力しか残っていなかったのか、リオンがずるずるとその場に座り込み、金髪を両手で抱え込んで両膝の間で項垂れる。
「……ゾフィー……っ……!!」
「……お前をずっと見守っている人達は皆お前を特別だと思うし、お前にとってもその人達は特別な人だ」
今、新聞を賑わしているシスターのことでお前には先が見えなかったとしても、すぐ傍にはお前を支える人がいることを忘れるなと、リオンよりもウーヴェを思っての言葉を伝えたレオポルドは、もう一度ウーヴェを見た後に表情を切り替えると同時に服を着てくれと頼み、さすがに今度ばかりはウーヴェもその言葉に従う様にベルトランの手からシャツを取る。
シャツだけを着込んでリオンの傍に膝をつき、項垂れる髪を撫でてそっと肩を抱くと身体から力が抜けたようにウーヴェに寄り掛かってくる。
そんな素直な様子からリオンが父から受けた衝撃の大きさを感じ取り、どれ程憎もうが嫌いになろうが人としての大きさを感じずにはいられない父の顔や言葉を脳裏に刻んだウーヴェは、いつか父のようになりたいとリオンが目を輝かせていたことを思い出し、その道を歩んでいることに早く気付いてくれと願った後、寄り掛かってくるリオンの耳に顔を寄せる。
「…………帰ろう、リーオ」
孤児だの大企業の御曹司だのは関係ない、俺とお前でいられるあの家に帰ろうと囁き、寄り掛かってくる身体をしっかりと支えたウーヴェは、その姿勢のまま顔を上げてベルトランにタクシーを呼んでくれと告げて僅かに息を飲んだ後、父の顔を見上げながら震える声で礼を言う。
「……ありが、とう……父……さ、ん……」
「…………そいつがあまりにも不甲斐ない顔をしていたからだ!」
そんな情けない男を庇って調査官とやらとやり合ったのかと思うと腹立たしいし何よりもお前に恥を掻かせたままだと言うのが許せないと拳を握って力説する父に苦笑未満の表情を浮かべてもう一度ありがとうと頷いたウーヴェは、ベルトランにあと少しでタクシーが来ると教えられて素っ気なく頷くが、レオポルドが顎で己の背後を指し示したことに気付いて目を瞠る。
「ブルーノに送って貰え」
「……で、も……」
「構わん。俺とベルトランがタクシーで帰れば問題は無い」
良いなと念を押してベルトランに手短に事情を説明したレオポルドは、何か声を掛けようとする息子の幼馴染みの肩に腕を回して強引に踵を返させるが、ベルトランが一言何か告げたかと思うとウーヴェの前に駆け寄って手にしていた時計や眼鏡などを一纏めにして差し出す。
「……さっきお前に言ったこと、あれは取り消さないからな」
「ああ、分かってる、バート」
そんなヤツのことなど放っておけと散々言っていたが、その言葉の真意をしっかりと理解しているウーヴェがベルトランに頷いて礼を言い、リオンの耳にもう一度帰ろうと囁きかけるとリオンの身体を支えて立ち上がり、少し離れた場所で待機しているレオポルドが乗ってきた車へと向かい、決して顔を上げることのないリオンを先に車に乗せると、人々の好奇の視線を背中で毅然とはね除けながらその横に乗り込むのだった。
「……おじさん」
「ああ、お前にも迷惑を掛けたな」
久しぶりに会ったが迷惑を掛けたと苦笑したレオポルドは、走り去る己の車が完全に見えなくなるまで見送ると、入れ替わりのようにやってきたタクシーに気付いて手を挙げる。
「ベルトラン、今日はもう家に帰るのか?」
「え?まだ大丈夫ですよ」
そもそも今日はウーヴェとずっと飲み通すつもりだったと肩を竦めるとレオポルドが再度ベルトランの肩に腕を回してタクシーに乗り込めと促し、運転手にはいつかもリオンと酒を飲み交わしたホテルの名前を告げて息子の幼馴染みを驚かせる。
「良いんですか?」
「リッドには電話をしておく」
タクシーのシートにゆったりと背中を預けるレオポルドにベルトランがおばさんが心配していると告げると、今日は飲みたい気分だと返されて瞬きをする。
「……何年ぶりだろうな、あの子とああして話をするのは…」
レオポルドの小さな呟きがもたらしたものにベルトランが驚きに目を瞠り、ぎゅっと腿の上で拳を握って20年以上ですかと答えると、お前がそんなに悲しそうな顔をする必要はないと大きな掌が幼い頃と変わらない温もりを持って頭に載せられる。
「リッドから話は聞いているが、いつもウーヴェの傍にいてくれて助かっている。これからもあの子のことを頼んだぞ、ベルトラン」
「……はい」
ウーヴェと初めて顔を合わせたのは母が言うにはまだ本能のみで生きているような頃だったが、それからずっと傍にいるベルトランに幼い頃から見上げ続けてきた変わらない顔で息子を頼むと告げたレオポルドは、こちらが心配しなくてももう平気なほどウーヴェは大人になっているがいつまで経っても子どもは子どもだと照れ隠しのように口早に捲し立ててベルトランに苦笑を浮かべさせるのだった。
ブルーノが運転する車をアパートの前に横付けしたウーヴェは、いつかの様に好奇心を辛うじて押し殺した警備員に微苦笑で頷き、車内でも抱えた膝の間に頭を落としていたリオンに家に着いたことを伝えるとリオンが抵抗するように身体を強張らせる。
「……分かった」
この家に帰るのが嫌ならばお前の家に帰ろうと囁き再度車に乗り込んで不安そうに見つめてくるブルーノに苦笑し、リオンの自宅住所を告げると身体を強張らせるリオンの肩に腕を回し、先程のように引き寄せようとするものの頑なに拒まれて苦笑を深くする。
「ブルーノ、リオンの家に行ってくれないか」
「かしこまりました」
以前もそうだったが久しぶりにウーヴェと話をしたのが嬉しいのか、複雑な表情を浮かべてブルーノがゆっくりと車を走らせていると、リオンがくぐもった声で自宅と逆にある地区の名前を挙げる。
「どうした?」
「…………そこ、行って欲しい」
その地区は再開発が進んで見た目こそ周囲の建物と馴染むようなデザインだが、作りは現代的な家が建ち並びだしたことで話題になっていて、そこに知り合いがいるのかとウーヴェが小さく問いかけると、更に小さな声がカインと答えた為、ウーヴェの目が見開かれる。
「今までカインの家にいたのか?」
「………………」
ウーヴェの問いにリオンが無言で小さく頭を振り、それを見たウーヴェが心底安堵した顔で溜息を吐いてゆったりとシートにもたれ掛かる。
「外で寝ていたりした訳じゃないんだな?」
カインという数える程しか会ったことのないリオンの幼馴染みの家に転がり込んでいるのならば良かったと、言葉に出して安堵したウーヴェにリオンが聞き取りにくい声であいつが仕事の時はクナイペ-居酒屋-にいたと答える。
「そうか……カインに誰にも言うなと口止めをしていたんだな?」
「…………あいつは……一度約束をすると……必ず守る、から」
普段はいい加減で人に対して優しくない男だが、約束を守ることに掛けては誰にも負けることはなかった。
それ故、リオンが安心して傷を癒す為に転がり込んだのがカインの家だと教えられて安堵したウーヴェは、だがと呟いてリオンの顔が項垂れたまま己へと向けられたことを察する。
「……お前はもう独りじゃない。だから一人で傷を癒す必要はないんだ、リーオ」
「――っ……!」
「それをもう忘れないでくれ」
頼むとひっそりと告げて前を見たウーヴェは、リオンの膝の間から小さな小さなごめんという言葉と己を呼ぶ声を聞き、伸ばした手でくすんだ金髪を撫でる。
「大丈夫だ、リーオ」
俺はここにいると手の温もりで伝えると先程のように身体が傾いでウーヴェの肩に寄りかかってきた為、しっかりとそれを受け止めて支えるだけではなく自らも身を寄せるように首を傾げる。
「……リオン、今日の午後に警部から連絡があった」
「!!」
「今回の事件について捜査が終了したことを教えられた」
「………………」
「フランクフルトで亡くなった少女は事故死と結論づけられた。あと、シスター・ゾフィーを暴行していたのが……お前の仲間だった刑事だとも教えられた」
ウーヴェの言葉にリオンの肩がびくりと揺れ、歯軋りの後にジルと呟いたことで名前を知らされていなかったウーヴェも事実を知り、リオンが行方を眩ませた本当の理由に気付く。
己が公私に渡って仲良くしていた人に姉同然の彼女を殺されたのだ、その傷は生半なことでは癒えないだろう。
その傷を己の傍で癒して欲しいと腹の底からウーヴェは願っているが、一人で癒すリオンを想像するだけで胸が締め付けられてしまい、腹の底に沈殿する思いを言葉にする。
「リオン……リーオ……さっきも言ったが、お前は独りじゃない。それを忘れないでくれ」
有りっ丈の思いを込めて囁くウーヴェにリオンが更に寄り掛かり、先程の謝罪よりも小さな声がうんと答えた為、胸を撫で下ろす。
「明日の新聞にまた記事が掲載されるから周辺が騒々しくなると警部が教えてくれたが、カインの家なら大丈夫だな?」
お前の姿をマスコミも必死になって探すだろうが、カインの家にまでは押しかけてこないだろうと頷き、ひとまず安全な場所にいられることに安堵すると、ようやくリオンが顔を上げる。
「…………オーヴェ」
「ああ。どうした?」
「ゾフィーさ……まだ帰って来れねぇの?」
「それも警部から連絡があった。近いうちに彼女を迎えに来てくれだそうだ」
ウーヴェから伝えられる事実は胸を軋ませながら沈んでゆくが、端々から感じる心遣いや気遣いに本当に頭が下がる思いがしたリオンは、眩しくて仕方のない男の横顔を見つめ、視線が合うと咄嗟に視線を彷徨わせる。
「どうしたんだ?」
「…………うん、何でも……ねぇ」
先程のように己の為にならば手にしているもの総てを惜しげもなく手放すことが出来、今のように傷を負った己を慮っての言葉を掛けられる強くて優しい心の持ち主であるウーヴェが特別な子どもだと尊敬する男が称するのも納得出来ると気付くが、あの事件があったからこそだとも気付き、グッと拳を握ってウーヴェの名を小さく呼ぶ。
「……オーヴェ」
「うん?」
その声に合わせて顔を振り向け、どうしたんだと目を丸くするウーヴェが本当に眩しくて、言いたいことの一割も言葉に出来ずにもどかしそうに眉を寄せると、そっと伸ばされた手が前髪を掻き上げ、痣になっている頬をそっとそっと撫でて額にキスしてくれる。
「カインの家に着いたら消毒をするんだぞ」
「…………うん」
以前ならば舐めていれば治ると意地を張っていたリオンの中で何かが変化をしたのか、素直に頷いたかと思うとオーヴェが手当てをしてくれるのならと付け加えてくる。
それに驚きはしたものの決してそれを顔に出さないように堪えつつウーヴェが頷くと、リオンの目に今まで見た事がない光が浮かび上がる。
その光を見たウーヴェがさすがにそれには驚きを堪えられなくて目を瞠り、リオンの名を呼んでハッと我に返るが、当の本人は気付いているのかいないのか、ただ心配そうに首を傾げてウーヴェと呼ぶだけだった。
「何でもない……リーオ」
「……ん、なに……?」
もう一人ではないことを忘れないでくれ、今まで何度も伝えたり伝えられたりしてきた言葉をもう一度胸の中で呟いたウーヴェだが、それを忘れていないからこそもしかすると限られた人達しか見たことのない貌を見せているのだとも気付き、傾げる首を支えるように頬に手を宛がうとそっと鼻の頭を触れあわせて小さく笑う。
「――お帰り、リーオ」
今はまだ二人で暮らす家ではない、傷を癒す為の仮の家に向かっているが、俺の傍に帰って来てくれてありがとうとウーヴェが有りっ丈の思いを込めて囁くと、リオンが唇を噛み締めて照れたように俯いてしまう。
「……うん」
その短い言葉に込められた思いの総てを感じ取るのはさすがにウーヴェでも難しいことだったが、その後はカインの自宅アパートに到着するまではどちらも口を開くことは無かった。
カインの自宅は再開発が進む中でも家賃なども高く設定されているアパートの最上階で、ウーヴェの家とは比べものにならないがそれでも周囲の不動産の賃貸価格を思えば若くして稼いでいると言う印象を与えるような家だった。
ブルーノに指示をして車を降りた二人は、ウーヴェがブルーノに礼と父には無事に家に戻ったことを伝えてくれと頼んだあと、口をきかずにエレベーターに乗り込み最上階に到着すると、リオンがドアベルを遠慮もなく押してジーンズのポケットに手を突っ込む。
「……遅かったな」
「……救急箱はあるか?」
ドアを開けるカインにリオンが視線を合わせずに救急箱と呟くと、煙草を咥えたままカインが溜息を吐いて顎で中に入れと促すが、リオンの後ろにウーヴェがいる事に気付いて軽く目を瞠る。
「……手当てをして貰う」
「分かった」
リオンが派手な顔になっている事を笑ったカインだが、二人を招き入れてリビングに通すと自らは部屋のドアを開けて戻って来た時には救急箱を手にしていた。
「俺はもう寝る。泊まって行くなり帰るなり好きにしろ」
「ああ。……ダンケ、カイン」
「礼なら形のあるものにしろ」
その言葉を残して自室に再度向かったカインだがドアノブを掴んだまま動きを止め、訝る二人を肩越しに振り返ったかと思うとゾフィーが近いうちに帰ってくると呟く。
「ああ、オーヴェからも聞いた」
その事については明日にでもマザーに連絡をすると告げてカインの同意を得たリオンは、救急箱を開けてウーヴェの前に大人しく向き直る。
「ここに来るまでに痛い所は無かったから骨折とかはしてねぇ」
「そうか……じゃあ消毒だけをしておこうか」
お前の幼馴染みの家だから手早く済ませると苦笑し、己の言葉を守るように丁寧な手付きはそのまま手当をしたウーヴェは、先日警察署で掌の傷の手当てをしたことを思い出し、手を出せと告げてリオンの目を瞠らせるが、それに対しても素直に手を差し出したことに心底驚きそうになりつつ良い兆候だと頷いて瘡蓋がしっかりと傷口を覆っていることを確かめて手当てが終わった合図のように手の甲を撫でる。
「……顔の痣は明日か明後日がひどいだろうが、そんな事はお前が良く知っている事だな」
「うん……痛いけど寝てれば治る」
「ああ」
救急箱の蓋を閉めてソファから立ち上がったウーヴェにリオンが驚いたような顔を挙げるが、拳を握った後同じように立ち上がってウーヴェの身体を抱きしめる。
「……明日、お前が許してくれるのなら一緒にゾフィーを迎えにいきてぇ」
「ああ、そうだな。仕事が終わってからでも良いか?」
「…………うん」
仕事が終われば二人で帰宅を待ちかねているだろう彼女を迎えに行こうと笑うとリオンも頷き、やっとあいつが帰ってこれるとも呟くとウーヴェが同意を示すように背中をぽんと叩く。
「今日は……ここに泊まるから……」
「ああ。準備が出来たらクリニックに来てくれ、リーオ」
その前に必ずマザー・カタリーナに連絡をするんだぞと念を押すと暫く躊躇するような気配を感じるが、それでもうんという短い返事があってウーヴェが胸を撫で下ろす。
あの時父がリオンを一喝してくれなければ今もまだ心を閉ざし一人で傷を癒していたかも知れなかった。
今のリオンから感じるのはまだ傷は血を流し続けているがそれでも心を閉ざしていない様子で、前と同じように戻ったと安堵するが前とは違うとの言葉が脳味噌の中で突如として木霊する。
それはここに来るまでの車内でも感じていたことだったが、リオンがウーヴェを見る目が以前とは決定的に違っていることを由来としていて、それに気付いているウーヴェがその変化がリオンと自分にとって良い事でありますようにと密かに願い、リオンの痩せてしまった背中を抱きしめる。
「――また明日」
「うん……お休み、オーヴェ」
何だか随分と久しぶりに感じるお休みの言葉に自然とどちらからともなく笑い声を零すと、額と額を重ねて互いの名を呼ぶ。
だが、そろそろ時間も深夜になりそうで、このままでは仕事に支障が出ることに気付いたリオンが名残惜しさを押し殺して離れるものの、逆にシャツを掴まれて引き寄せられたかと思うと、驚くリオンにウーヴェが優しさと強さを綯い交ぜにしたキスをする。
「…………ん」
「お休み、リーオ」
離れる唇の間にお休みの挨拶を落としたウーヴェは、呆然とする頬を撫でて手を挙げ、傷を癒す為に一時的に身を寄せている家を後にするのだった。
久しぶりに互いの背中を抱きキスを交わした二人は、それぞれが身体を休める為のベッドに潜り込むと、随分と久しぶりに穏やかな眠りに落ちるのだった。
上空に浮かぶ月も何処か安心したように柔らかな光を二人が身体を横たえている家に降り注ぎ、また一緒にいられる日がすぐに訪れることを待ち望み見守ってくれているように照らし出しているのだった。