第一話「化け物」の続編です。まだ読んでいない方はそちらから。
今回ちょこっと流血表現ありです。
それでもいいという方はどうぞ!
彼――…東雲蒼が転校してきて、早いもので、もう一か月。
特にこれといった変化はない――が、変わっているところと言えば、よく影矢に話しかけているところか。
「ねえ、田中さん」
「これでどうかな、田中さん」
「こっちのほうがいいかな、田中さん」
田中さん、田中さん。よくもまあ、飽くこともなく呼び続けられるものだ。
ぶらぶらと、妖魔がいそうなところを探す。
彼らは、人の前に堂々と出てくる、なんて馬鹿げた真似はしない。人気のない路地裏の、いたるところに罠を張って、じっと、ただひたすら得物を待つ。彼らのひそむ罠はまるで底なし沼で、一度引きずり込まれれば、もう二度と上がってこられない。だから、その奥は謎に包まれている。
暑いのか、寒いのか。息もできないような世界なのか、はたまた楽園のような世界なのか。情報はない。なぜってそれは、見て戻ってきたものがいないから。
――どちらにせよ、人間が踏み込んでよい領域ではないのだろう。
そのとき不意に、足場が消えた。ズブン、という独特の音とともに、足が引っ張られるのがわかる。とっさに刀を抜いて、その〈手〉を斬ると、屋根の上に飛び乗った。硬いコンクリートであるはずの地面の上に、静かに、でも確実に、波紋が広がっていく。大きさ、反応速度の遅さからして、あまり上位の妖魔とは言えなさそうだった。
鈴はくるりと宙返りして避けると、トン、トンッと、電柱をけり、地面に着地した。静かに殺気を振りまく。だがそれと同時に、違和感を覚えた。
妖魔は殺気に敏感な生き物だ。
殺気を受けると、そこにどれほどの実力差があろうとも、それを宣戦布告と取り、勇敢にも立ち向かってくる。その本能ともいえる衝動を抑えるには相当の胆力を要し、殺気に反応しなければその分、実力の高い妖魔となる。
――はじめは、弱い妖魔だと思ったが。
こりゃ随分と骨が折れそうな相手だ、と、鈴は微笑を浮かべた。
「ただいま」
「…」
「…ねえってば
――…誰もいねえの」
聞こえてくるのは、シャワーの音。ああ、風呂か、とぼんやりとは思うのだけれど、どうしても動けなかった。まずいな、ここんところずっと働きづめだったからかな、なんてことを考えながら、ただ、「ただいま」と言う。頭ももう朦朧としてきていて、自分が今何を言っているのかすら、分からなくなってきていた。
風呂場の扉の開く音がする。子供が留守番するときのような気持で、それを待っていた。
パタパタと、今度はスリッパの音が聞こえてくる。あ、やっと来た、と思ったのと同時に、膝から力が抜けた。
「え゛っ、鈴⁉」
慌てて影矢が受け止める。
「ただい、ま…」
「お、おう」
「もう、寝ちゃったのかと、思った」
任務とプライベートがごっちゃになっている。いつものような口調で言ってこない。これは相当疲れてるぞこいつ、と、影矢は彼を担いで、リビングに連れて行った。おろそうとした時、どろりとしたものが腕をつたった。それは赤黒い色をしていた。血だ。
パーカーをめくりあげ、防弾着を脱がせると、そこにはずいぶんと大きな傷跡があった。普通は半鬼としての治癒力によって、この程度の傷はすぐに治る。なのに、この出血。この傷。
(――毒か)
しかもかなりの量。一体どうしたって言うんだよ、と、影矢は眉間にしわを寄せた。
「おい、聞こえっか、鈴」
そう問うても、彼は手を顔の上にのせ、荒く息をしている。影矢は少し間を開けて、患部を指でぐっと押した。「い゛っ…」と呻き、彼の体が跳ねたと思うと、頭をはたかれた。
「言ってからにしてくれない…?💢」
「すまん」
はあ、とため息をつく鈴を横目に、影矢はこっそり安堵した。これは昔、上官に言われたのだ。お前たち半鬼は、傷の直りも早いが、感覚が麻痺するのも早い。だから、万が一怪我を負ったときには、患部を指で刺激してみろ。それで反応があれば、まだ大丈夫。反応がなければ、それは本当にまずい状態だ、と。
今思えば、どんなスパルタだよ、と言いたくなるようなことだったが、実際これは影矢も実感したことがあったから、何も言えなかった。
濡れたタオルで、乾いてしまった血を、丁寧にぬぐう。
「この毒、どんな妖魔にやられた」
そう尋ねると、彼は緩慢な動きで指文字を作った。蛇。なるほど、とうなずくと、影矢は毒を抜き始めた。済むと、火傷のように変色した傷に塗り薬を塗り、さらにその上から、別の薬を染み込ませた包帯で巻く。これでひとまずは大丈夫だ。
「ありがと」
かすれ気味の声で、鈴が言う。影矢は微笑んで、毛布を掛けた。
「汚しても大丈夫だから。腹冷やさないように、かぶっとけ。着替えは俺がやっとくから」
鈴も苦しそうに「すまん、頼んだ」と微笑むと、毛布をかぶり、次の瞬間には、すうすうと寝息を立て始めた。
(さて、と…)
鈴がいくら疲れていたとはいえ、簡単にここまでの傷を負わせられるわけがない。
一体何が起きてるんだ、と、影矢は窓の外を見つめた。
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痛い。痛い。痛い。痛い。
叫びだしたい気持ちを、言葉を、吞み込めば呑み込むほど、自分が自分で無くなっていくようで、怖かった。殺気ばかりが体に刺さってきて、奇異な目で見てくる周りが、怖くて怖くて。でも、生きるためには、殺していくしかなかった。でも、
相手の泣き叫ぶ声を聞くたびに
相手の許しを請う声を聞くたびに
相手の体から、真っ赤な血が噴き出す音を聞くたびに
いやだ、もうやめてくれ、こんなことしたくない
本当の自分が消えていくようで。
産まれてきちゃいけなかったのかな、なんてことを考えるほどにまでなって。自分の存在を唯一確認させてくれる方言も、勤務中は極力出さないようにして。
生きる意味も、自分らしくある意味も分からなくなっていた自分に、光を与えてくれたのは、知と影矢だった。
(思えばあいつらだって…同じようなもんで)
子供らしさなんて欠片もなかった。町で見るような子供たちの、目の奥の無邪気な色も、無垢な心も、何もかも。幼い頃から人を殺すことだけを教えられてきた子供だ。血を見ても何も思わないような子供だ。
でも二人と出会ったから、今の自分がいる。
孤独から救ってくれたのは、紛れもなく彼らだった。
ずっと恋焦がれてきた『仲間』。
手を伸ばせば、仲間が、友達が、家族がそこにいる。それがどんなに幸せなことか、鈴は――…彼らは知っている。
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「大丈夫か、鈴」
目を開けると、そこには知がいた。
蒼い瞳が、じっとこちらを見つめている。ぼんやりとしばらく鈴も見つめていたが、ふと、彼の服装を見た。
「あれ、お前、その服…」
「あ、これか?今日は俺、非番じゃけん。われも気にしぇずにゆっくりせーよ」
嘘つけ。だったらその目の下のクマは何だ。昨日、明日は書類がたまってる、とか言ってたくせに。徹夜したんだろ。
心の中で憎まれ口をたたきながら、それでも彼のやさしさに、心が温かくなる。
「…ごめん」
鈴は毛布に顔をうずめたまま、そう言った。知は一瞬きょとんとして、それからふっと微笑んだ。
「いいってことよ」
…やっぱり、知にはかなわない。
「ただいまー…ってあれ、鈴、もう起きてたのか」
「いや、もっと休めっていったんだけどよ、洗濯しぇなってきかんで」
時刻は三時。これから影矢は書類をまとめ、また妖魔の討伐に出る。顔を見に返ってきたのだが、もう既に鈴が起き上がって、てきぱきと動いていたのに驚いた。鈴が言う。
「ずっと世話かけっぱなしっていうのもなんやしな…迷惑かけてすまんかった」
影矢と知が、顔を見合わせる。そしてずんずんと彼に近づくと、頭をはたいた。
「馬鹿」
「何が迷惑だよ馬鹿。なんも迷惑じゃないわ馬鹿。お前のこと心配してんだよ馬鹿。ほんと馬鹿」
「語尾おかしくない⁉」
「今回ばかりは俺も同意見だ」
知にまでそういわれ、鈴は何も言えずに黙り込んでしまった。まさにぐうの音も出ない彼に、影矢は言った。
「お前のこと大事なの、少なくとも俺らは仲間だと思ってるし家族だと思ってんの!家族の心配すんのに迷惑も何もねえだろうが」
最後にまた彼は「ばか」と呟くと、荷物を置いた。ほれ、今日は買い物行かねえと何も材料ねえんだろ、と言いながら、買い物袋を手に持つ。知は「鈴も行こうや」と言うと、あとを追いかけた。
「…俺だって、家族だと思ってるわ、馬鹿」
ニヤッと笑うと、彼もまた、後を追った。
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ある日、高校にて。
昨晩は立て込んでいて、おちおち寝てもいられなかったから、なかなかに疲れていた。そのうえ、昨日はゼリーくらいしか食べていない。妖魔の討伐があったし、何より毎度のごとく、三人とも忙しかったのだ。
(知、帰ったらなんか作ってくれよ)
(俺はわれらのお袋か、あ?眠えんだよ、疲れてんだがね!)
(それは三人とも同じやろうが。な、頼むよお母さーん(棒))
(はっ倒されてえのかてめえは)
指文字で送る。目の下の濃いクマを擬態で隠している三人だが、さすがに心までは擬態できない。家庭事情はハード、ハートはソフトである。
チャイムが鳴る。授業が終わり、昼休みに入った。弁当の時間だ。と言っても、登校直前まで仕事をしていたので、手の込んだものはなく、すっかり見慣れたゼリーだけ。それを一気に吸い込むと、三人は深いため息をついた。
その時だった。原澤が、東雲蒼と、影矢を呼び止めたのは。
「おーい、お前ら、この後暇かー?」
正直なところ今めっちゃ忙しいですと答えたかったが、何とかこらえた。目立つのは避けたい。ここは従順な生徒を演じているほうが、都合がいい。
「はい、大丈夫ですけど」
「俺も大丈夫です」
「そうか。ならちょうどよかった。運動場の倉庫が埃だらけでよォ、ちょっくら掃除してくんねえかって思って」
確かに、あの倉庫は長年放置され、埃をかぶっている。教員ですら開けようとはしない。まさに魔窟だ。でもだからと言って、倉庫の掃除をたった二人にやらせるなど、普通なくないか。
だがあれこれ言う前に、東雲が二つ返事でOKしてしまった。
「うわ、こりゃひどい」
この言葉に、今回ばかりは激しく同意する。何をどうしたらこうなるのかというくらいには、中は汚かった。中にはおそらく自主規制ものであろう巨大なGが跋扈しているし、蜘蛛の巣がたくさん張っている。しかも、どちらも何匹も。これは確かに、女子にやらせるわけにはいかなさそうだ。発狂するだろう。
箒で掃き、蜘蛛の巣を払い、Gさんには退場してもらう。いま運動場で悲鳴が聞こえた気がするが、無視だ、無視。
埃は、払っても払ってもふわふわと転がっている。まるでこの努力を嘲笑うかのように。腹が立つこと極まりない。
そんなことを思って、咳き込みながら掃除をする東雲をふと見た時、彼の頭上で、ぐらりと大型のタイマーが揺れるのが見えた。かなりの高さ。位置。
「東雲っ」
それが落ちるのと、影矢が東雲に覆いかぶさるのが、同時だった。
鈍い音がして、ゴトンと、タイマーが地に落ちる。下には仰向けに転がっている、東雲の顔があった。よかった。怪我はなさそうだ。だがそう思ったのもつかの間、不意に、彼が目を見開いてこちらを見ているのに気が付いた。
視界の端にうつったのは、タイマー同様、転がった己の眼鏡。ふわりと揺れる自分の前髪。――その時、彼のその表情の意味を、唐突に理解した。
――見られた
影矢は眼鏡をひっつかむと、踵を返し、逃げるようにして倉庫を出た。
隣の席――田中の第一印象は、言い方が悪いが、まさに『陰キャ』だった。
長く伸ばし、顔にかかっている黒髪の癖っ毛。そのさらに奥には眼鏡。顔はほとんど見えず、名前を言ったときにさえ、窓の外をぼんやりとみていた。
だから、便利だと思った。彼の隣なら、うざったく絡まれたりすることもないだろうから。
彼の名は、東雲蒼と言う。もちろん偽名ではない。克己さんや颯真さんが、きれいだと言ってくれるから。親からもらった、大切なものだから。だから、極力偽名は使わないのだ。彼は、この名前が好きだった。
『すまねえ、蒼、高校いかねえか』
はい?、と、思わず素っ頓狂な声が出たのを覚えている。今まで読み書きを含めた勉学は、頭のいい颯真さんに教えてもらっていたから、不自由はないどころか、むしろそこいらの高校生よりは、頭がいいつもりだった。だというのに。
『それはまた――いきなりですね』
克己さんはオッサンくさい仕草で頭をかくと、苦笑いを浮かべた。どうせ、上層部からの命令か何かなのだろう。この人はそういう場合、こうして頭をかいて、苦笑する。
『わかりました』
そうして、転入してきた――わけなのだが。
話してみると、田中はなかなかにいいやつだった。話す、と言っても一方的なものだったけれど、何も言わず、その時その時の最善を判断して、行動する。無駄がなくて、嫌いじゃないタイプ。うじうじしていないのがありがたかった。
だから、少し話してみたいと思ったのだ。――俺はこの職業柄、友達が少なかった、と言う理由もある。
体育倉庫で、今か今かと、そのタイミングをうかがっていた。黙々と掃除をしながら、ちらちらと彼のほうを見る。その時ふと、彼と目が合った(と言っても顔は見えていないので気がしただけだ)。今だ、と、口を開くのと、田中が叫んだのが同時だった。
「東雲っ」
鈍い音が、狭い倉庫の中に響く。次の瞬間、目の前にあったのは、彼の顔だった。覆いかぶさるようにしているその体勢を見て、庇ってくれたのだ、と理解する。
――だが、それよりも。
眼鏡が外れ、ふわりと黒髪が靡く。露わになったその瞳を見て、蒼は思わず息をのんだ。
――彼の瞳は、美しい黄金色だった。
続く
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