― 母親編 ―
病室の窓辺に、ひとすじの風が吹き込んだ。
白いカーテンがふわりと揺れる。
その向こうで、レンは眠っていた。
まるで、あの日からずっと時間が止まったみたいに。
呼吸はしている。
でも、もう何日も、声を聞いていない。
「……おはよう、レン」
小さく声をかけても、返事はない。
それでも私は、毎日同じ言葉をかける。
息子がまだ“この世界にいる”ということを、確かめるために。
あの日、私はレンの家に久々に遊びに行こうと思い、レンの自室部屋のドアを開けた。あの瞬間の感覚を、私は一生忘れない。
カーテンが閉めきられた部屋の中。
冷たい空気。
静まり返った空間の中で、レンが倒れていた。
泣き声も、助けを求める声もなかった。
ただ、あの子の手の中には、小さな箱があった。
箱の中には、壊れたキーホルダーと、古びた写真。
写っていたのは、笑っているレンと――あの子。
あの子の名前を、口にすることすら、私は怖い。
それを言えば、また何かが崩れそうだから。
「会わせてくれ」と、あの子が病院に来たとき、私は拒んだ。
ドアの向こうで、何度も頭を下げていた。
泣きながら、何かを言っていた。
でも、私はただ静かに言った。
「あなたは、あの子の世界を壊したの」
それだけで、十分だった。
それ以上の言葉は、どんなに並べても、レンには届かない。
夜になると、レンの寝息を聞きながら、昔のことを思い出す。
あの子がまだ、小さくて、やんちゃで、笑ってばかりいた頃。
「おれ、絶対強くなるから!」って、笑ってた。
本当は優しい子だった。
誰かが泣いてたら、真っ先に声をかけるような子だった。
その優しさが、少しずつ壊れていくのを、私はそばで見ていた。
気づいていたのに、止められなかった。
あの日、あの子が泣かないまま眠るようになってから、
私は毎日、祈るように話しかける。
「ねえ、レン。痛くない? 寒くない?」
「ハルくんは、まだ来てるよ。毎日、外で謝ってる」
けれど、レンのまぶたは動かない。
まるで、その言葉を拒むように。
朝。
カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込む。
その光が、レンの頬を照らす。
私はその顔を見ながら、小さく笑った。
「今日は、ちょっとだけ、顔色いいね」
涙はもう出ない。
泣くことに、意味がないって知ってしまったから。
それでも、私は笑う。
息子が戻らない現実を、
この胸の痛みごと、受け止めるしかないから。
白い部屋に、風の音だけが流れていく。
その音が、まるでレンの心の残響みたいに、優しく響いていた。
そして私は、今日もまた言う。
「……おはよう、レン」
それは、いつか届くはずのない言葉。
でも、それでも――言わずにはいられない母親の祈り。