テラーノベル
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🎼演劇部です
帰りのホームルーム。
担任の声が、教室の天井にぶつかっては跳ね返る。
「最近、この辺りで誘拐が多発している。寄り道は控えるように__
黒板の前で真面目な顔をしている先生を、俺はぼんやりと見つめていた。
言葉は耳に入っているはずなのに、頭の中ではうまく形にならない。
(やっと、長い学校が終わる……)
窓の外は、ゆるく傾きはじめた午後の光。 今日は部活がない。久しぶりに時間が空いている。
(先輩と、どこか寄り道でもしようかな)
胸の奥で、そんな淡い期待が小さく弾む。
もうすぐ進級だ。
先輩は三年生になる。俺は二年。
(受験、か……)
先輩、忙しくなるんだろうな。
気軽に笑っていられる時間も、少しずつ減っていくのかもしれない。
「……」
ふと気づくと、椅子を引く音が一斉に鳴った。
どうやら、話は終わったらしい。
俺は慌てて立ち上がった。
「起立。礼」
ガタガタと机の脚が床を擦る音。 鐘が鳴ると同時に、教室は一瞬で騒がしさを取り戻した。
「部活かぁ……サボろっかな」
「ねぇねぇ、今日新作のパンケーキ出たんだって! 食べに行こうよ」
笑い声が弾け、鞄のファスナーが次々に閉まる。俺は鞄を肩にかけながら、教室の入り口へと目を向けた。
階段を一段飛ばしで駆け上がる。
二階から三階へ。足音がやけに響くのは、胸がうるさいせいだ。
早く、会いたい。
廊下の窓から差し込む夕方の光が、白い床を淡く染めている。 俺はその光を踏みながら、三年生の教室が並ぶ廊下を進んだ。
今日あったこと、全部話したい。
らんが発表中に盛大に噛んだこと。
こさめが堂々と寝てて、先生に怒られてた事。
それから…
100点のテスト。思い出した瞬間、口元がゆるむ。 あの答案用紙を見せたら、 先輩は少し目を細めて、「すごいじゃん」って言ってくれる。
(…褒めてもらえるかな…?)
教室の前まで来て、足を止めた。
中から聞こえるのは、まだ先生の声。
「進路希望調査の提出期限は_
(あ、まだホームルームしてる。)
扉の小窓からそっと覗くと、先輩は席に座ったまま、真面目な顔で話を聞いていた。
横顔が、大人びて見える。
やっぱり三年生なんだな、って思う。
俺は壁にもたれかかって、ポケットからスマホを取り出した。
特に見るものもないのに、画面をスワイプする。 でも本当は、通知なんてどうでもよくて。 視線は何度も、教室の扉に戻る。
(早く終わらないかな)
先輩の笑う顔が浮かぶ。 「今日は、どうだった?」って聞かれたら、俺はきっととまらなくなって、先輩はずっと聞いてばっかだと思う。
ピコン
「…?」
俺の手の上で、軽い振動と電子音。 画面に浮かんだ名前を見て、心臓が一拍止まる。
「母さん……」
今は親父と海外旅行中のはずだ。
時差とか、観光地の写真とか、そんな連絡ならまだいい。 けれど、どこか嫌な予感がして、俺は急いでパスワードを解除した。
『今日、20時に帰ってくるわ。晩御飯、用意しといて。』
「……ぇ」
思わず、声が漏れる。
現在時刻、十五時。
頭の中で計算する。
買い出し、準備、調理、片付け。
(先輩と、遊べない……?)
胸の奥が、じわりと重くなる。
その時、三年生の教室から一斉に椅子を引く音が響いた。 ガヤガヤと、解放された空気が廊下に溢れ出す。 どうやら、長いホームルームは終わったらしい。
教室の扉が開き、ガタイのいい生徒がどっと出てくる。 肩幅が広くて、いかにもラグビー部という感じだ。
「ぁ、すみません……」
ぶつかりそうになって、慌てて頭を下げる。
その瞬間。
頭上から、聞き慣れた…大好きな声。
「なつ。ごめん、待たせた。」
「! ……いるま先輩……」
顔を上げる。
夕方の光を背に立つその人は、少しだけ疲れた顔をして、それでも柔らかく笑っていた。
「わざわざ来てくれたの?」
その一言だけで、さっきまでの焦りが全部、ぐちゃぐちゃになる。
言いたいことが、山ほどある。
らんのことも。
こさめのことも。
テストで百点取ったことも。
でも同時に、母さんのメッセージが頭の中で点滅する。
「……あのさ、先輩」
言葉が喉でつかえる。
遊びたい。
でも、早く帰らなきゃ。
揺れる視線に気づいたのか、先輩は少し首を傾げた。
「どうした?」
優しい声。
その声に甘えたくなる自分と、家のことを思い出す自分が、胸の中でぶつかる。
廊下の喧騒が、遠くなる。
どうする、俺。
「帰りに……スーパー寄りたい……」
思ったよりも、声は小さくなった。
「? ……いつものとこ? いいよ。手伝う。重い荷物くらいは持ってやれるから。」
「……ありがとうございます。」
つい、他人行儀な礼が出る。
自分でも少し可笑しいと思いながら、俺たちは並んで廊下を歩き出した。
三年生の階から1年生の階へ。
夕方の光が、長い影をつくる。
「今日、らんが発表の時、大勢の前で噛んだ。」
「へぇ……どうせ顔真っ赤だったんでしょ?」
「……うん。耳まで。」
「想像できるわ」
先輩が小さく笑う。 その横顔を見るだけで、胸の奥があたたかくなる。
「あと、こさめが授業中寝てて、怒られてた。」
「っはは、こさめらしい……」
笑い声が、階段に反響する。
こんな何気ない会話が、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
「あと……」
少しだけ間を置く。
「テスト、百点取れた。」
一瞬、足音が止まった。
「! ……すごいじゃん。」
真っ直ぐに向けられる視線。
驚きと、ちゃんとした喜び。
次の瞬間、 ぽん、と頭に触れる大きな手。
「頑張ったな。」
優しく撫でられて、心臓が跳ねる。 褒めてほしかった。 その一言が、欲しかった。
「…うん、/// 」
校門を抜けて、住宅街の細い道へ入る。 人通りが少なくなった瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れた。
「……はぁ、……いるま、疲れた。」
特別に許された呼び捨てとタメ口。
学校の中じゃ使えない、俺だけの距離。
いるまも小さく息を吐いて、俺を見る。
「俺も、疲れた。なつがずっっっと隣で嬉しそうに話してるから。心臓もたんて。」
「大袈裟。」
軽く笑う。
俺たちは、付き合ってる。 ほんで、いるまは、俺が推しらしい。
しかも、子役やってた頃からずっと。
だから、少し手が触れるだけで顔が真っ赤になる。 学校ではバレないように、俺からのボディタッチは極力控えてる。
でも今は、誰もいない。
「ねぇ、手繋いでいい?」
「俺が死ぬからダメ。」
「ヘタレ」
わざとらしく言って、俺はいるまの腕に抱きつく。
「これは?」
「っ…////」
一瞬で耳まで赤くなる。
分かりやすすぎる反応に、ちょっと楽しくなってしまう。
スーパーの袋が、歩くたびにかさりと鳴る。
夕方はすっかり夜に変わりかけていて、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
家は同じ方向。
これまで何度も、いるまの家にはお邪魔した。
両親は出張中、兄姉も仕事でほとんど帰らない。 漫画みたいに何もかも揃ってる、ラッキー状況。 それなのに…
俺が「ねぇ、なんで襲わないの?」って冗談半分で聞いたとき。 いるまは耳まで真っ赤にして
「そーゆうのは20歳になってから!」って言ってた。 あの必死な顔を思い出して、少しだけ笑いそうになる。
「……いるま」
「ん?」
隣を歩く横顔は、街灯に照らされて柔らかい。
「今日は、……俺……無理かも。」
「……何が?」
「いるまの家に行くの……」
一瞬だけ、沈黙。
でも、いるまはすぐに視線を前に戻した。
「……まぁ、冷凍食品とかあるもんな。」
それだけ。
責めるでもなく、残念そうにするでもなく。
「ごめん。」
「いいよ。大丈夫。……にしても、今日は随分と多いな?」
「ぇ、ぁ……うん……」
視線が、俺の持ってる袋に落ちる。
確かに、今日は量が多い。 母さんが帰ってくるから、少し豪華めにしようと思って。
けど。
「……男?」
「違うわ!」
思わず声が裏返った。
「でも、やっぱり心配。なつの家おじゃましていい? 手伝うから。」
「いるま、料理下手じゃん。」
「……」
ぴたり、と黙る。 図星すぎたらしい。
「掃除とか、する……」
「………」
必死か。
(母さん帰ってくるの20時だし……19時に帰らせればいっか。)
少し考えてから、肩をすくめる。
「いいよ、分かった。」
「ぇ、……いいの?」
「うん、いいよ。ほら、早く行こ。アイスも買ったんだから。」
「……あぁ。」
どこかほっとした顔をするのが、ちょっと可笑しい。 門扉の向こうに広がる、広い敷地。
外灯に照らされた大きな家。
「でっか……」
「……まぁ、一般よりは大きい方なんじゃない? 知らんけど。」
「ここで、ひとりで住んでるとか。まじでありえないんだけど。」
少し呆れた声。
俺は鍵を取り出して、玄関を開ける。
「いるまー、早く入って。」
靴を脱ぐ音が、広い玄関にやけに響く。 電気をつけると、しんと静まり返った空間が白く照らされる。
「……静かすぎる。」
「いつもこんなんだよ。」
当たり前のように言うけど、 本当は、少しだけ。 寂しい。
袋をキッチンに運びながら振り返ると、いるまはまだ玄関で周囲を見回していた。
エプロンを結び直して、蛇口をひねる。
指先に当たる水は少し冷たい。
泡を流しながら顔を上げると、 いるまが、やけに真剣な顔でこっちを見ていた。
「?、なに……?」
「いや、久しぶりに見たなって……」
「久しぶりに?」
首を傾げる。 学年違うし、調理実習が被るわけもないのに。 すると、いるまは口元を緩めた。
「子役の時、着てたじゃん。なつのクッキング……だっけ?笑」
「っ! なんで覚えてんだよ!/// あれは俺の黒歴史だわ! 今すぐ忘れろ! 記憶から消し去れ!」
反射的に冷蔵庫から卵を取り出し、投げる構えをする。
「やめろやめろ! 食材粗末にすんな!」
「覚えてるほうが悪い!」
いるまは楽しそうに続ける。
「エプロンのサイズ合ってなくてぶかぶかで? ボウル持つ手震えてて…w」
「なんで、覚えてんだよ……!///」
耳まで熱くなる。 あの頃は、まだ小さくて。 大人に囲まれて、必死に台本覚えて。
「オタク舐めんなよ?」
「っ…急に、真顔やめてよ。」
「俺、あれ毎週録画してたから。」
「は?」
「DVDもある。」
「は???」
いるまは平然としている。
「今日はハンバーグ作ります!” って言って、玉ねぎで泣いてた回、神回。」
「やめろおおおお!!」
思わずキッチンカウンター越しに詰め寄って卵を投げつける。いるまはそれをギリギリでキャッチする。
「おー…セーフ。」
「ふーっ、ふーっ…///💢💢」
「は……? 怒った顔も可愛いとか最強かよ。」
いるまの鼻から、赤いものがつうっと垂れた。
「……は?」
一拍遅れて状況を理解する。
「ちょ、ちょっと待って!? 何してんの!?」
慌ててキッチンペーパーを掴んで押し付ける。 いるまは壁に手をつきながら、ぐらっと揺れる。
「やば……尊……」
「死ぬな!! 変な理由で倒れるな!!」
鼻を押さえたまま、いるまはこっちを見る。
「なつが悪い……」
「俺のせい!?」
「だって可愛い……」
「黙れ!!///」
広いキッチンに、慌ただしい足音と俺の怒鳴り声が響く。
「はぁ、めっちゃ美味かった。さすが、俺の未来のお嫁さん。」
ソファにふんぞり返りながら、そんなことを言う。 さっきまで怒った俺に興奮して鼻血を垂れ流していたやつとは思えないほどの、余裕の笑み。
「うぜぇ……」
クッションを軽く投げつけると、いるまは楽しそうに受け止めた。
他愛もない会話をしながら、ふと時計を見る。
(ぁ、やばい……もう19時になる。)
母さんは20時帰宅予定。 余裕はあるけど、念のため早めに帰らせた方がいい。
「いるま、そろそろ帰ったら? もうこんな時間だし。」
「あ、ホントだ……んじゃ、帰るか。」
スクバを肩にかける仕草が、どこか名残惜しそうで。 俺も立ち上がって、玄関までついていく。 広い廊下に、二人分の足音。 さっきまで賑やかだった家が、また静かになり始める。
「じゃあ、また学校でな?」
「うん、気をつけて……」
そう言いながら、ドアノブに手をかける。
その時だった
ガチャ
「…!」
外から、扉が開いた。
「ぇ……」
開いたドアの向こう。
スーツケースを引いた、見慣れた女性。
「あら……お客さん?」
柔らかな声。
「っ、……か、母さん……」
予定より、一時間も早い。
頭が真っ白になる。 隣を見ると、いるまも完全に固まっていた さっきまでの余裕はどこへやら。
「こんばんは……っ!」
やけに裏返った声で頭を下げる。
母さんは、ゆっくりと俺たちを見比べる。
数秒の沈黙。
そして
「……なつ?」
「は、はい…」
「お友達?」
「……先輩。」
とりあえず、そう答える。
母さんは、ふっと微笑んだ。
「まぁ、立ち話もなんだし。上がっていきなさいな。」
「「ぇ?」」
俺といるまの声が、見事に重なる。
母さんはスーツケースを中に入れながら、さらりと言う。
「せっかく来てくれたんでしょ?それに、なつのお友達だなんて、私嬉しいわ。なつ…ハンバーグ。まだあるわよね?」
「で、でも…母さん……先輩は帰らなきゃ。」
必死に言葉を挟む。
「ご用事でもあるの?」
母さんは、いるまの方へ視線を向け、にこりと微笑む。
その笑顔は柔らかいのに、どこか逃げ場がない。 いるまは一瞬、完全に固まった。
けれどすぐ、ぎこちない笑顔を作る。
「特に、なにも……ないです。」
(バカ!!)
心の中で叫ぶ。
「……そう、良かったわ。なら、今日はこのまま泊まりなさい。明日は学校休みでしょ? たしか、部活も。」
さらりと言う。 どうしよう。完全に母さんのペースだ。 このままだと、いるまが帰れない。
「……先輩が決めることだと、思う。これは、母さんが決めちゃダメだよ。」
そういうと、母さんの表情が、すっと消えた。
さっきまでの柔らかさが抜け落ちる。 まるで、蛇に睨まれたみたいな冷たい視線が、こちらに向く。
「っ、…!」
空気が、重い。 キッチンの奥で、時計の秒針だけがやけに響く。
母さんは、ゆっくりと俺から視線を外し、いるまへ向ける。
「……俺は、別に……大丈夫です。迷惑でなければ。」
いるまの声は、落ち着いている。
でも、手がわずかに震えているのが分かる。
「迷惑じゃないわ。ほら、沢山お話ししましょ?」
にこり、とまた笑う。 さっきと同じ笑顔なのに、温度が違う。 俺は、いるまの袖をそっと掴んだ。 助けを求めるみたいに。
いるまは一瞬だけ俺を見る。 そして、ほんの少しだけ、 指先で、握り返した。
「……お邪魔します。」
覚悟を決めた声。母 さんは満足そうに頷く。
「いい子ね。」
その言葉に、なぜか胸の奥がざわつく。 広い家の中。 さっきまで温かかった空気が、少しだけ冷えていく。
「美味しい。流石、私の血を継いでるだけあるわ。演劇面でも、もうちょっと私の血を継いでれば良かったんだけど……」
ナイフとフォークの音が、やけに大きく響く。
「……」
母さんの言葉は、柔らかい声色のまま、ザクザクと刺さる。
また、これだ。
母さんは、昔は人気女優だった。
華やかなスポットライト。拍手。賞。
そんな人の子どもなら、きっと完璧で、天才で、輝いていて当然。
でも、 俺が浴びていた光は、ほんの少しだけ。
結局、有名女優の息子という肩書きが、一番目立っていた気がする。
「先輩ってことは……いるまくんも、演劇部なの?」
母さんが視線を向ける。
「ぁ、はい……。演劇部は人数が少なくて……なつはよく主演をやりますよ。演技力も、部員たちより頭ひとつ抜けています。」
いるまの声は、はっきりしていた。
迷いがない。
「あら、そうなの。…でも、しばらくドラマとか映画には出演してないんでしょ? なつ。」
背筋が、勝手に伸びる。
「……オファーは、きて、ません……。」
喉が少し乾く。 母さんは、ゆっくりとワインを口に含んでから言った。
「…………お母さん、悲しいわ。こんなに、演技ができない子だなんて。」
その一言で、 空気が、凍る。 視界が、少しだけ揺れる。 慣れているはずなのに。 何度も聞いたはずなのに。 胸の奥が、きゅっと縮む。
そのときだった。 椅子が、わずかに音を立てた。
「失礼します。」
いつもより、低いいるまの声。
「なつは、演技ができないわけじゃありません。」
真っ直ぐな目で、母さんを見つめている。俺は思わず息 を止めた。
「俺、見てきましたけど……なつが舞台に立つと、空気変わります。」
母さんは、ゆっくりと視線をいるまに向ける。 笑っていない。
「へぇ。あなた、ずいぶん分かってるのね。」
「分かってます ……俺は、なつの演技、好きなんで。」
「……!」
胸の奥で、何かが弾ける。 母さんの視線が、俺に戻る。
「好き、ね。 それは母親としての評価とは違うのよ。」
空気が、また重くなる。 でも、 いるまは、引かなかった。
「じゃあ、母親じゃなくて、ただの観客として見てください。」
「……」
「なつは、あなたのコピーじゃない。」
「いいえ。なつは、私の子よ。」
母の声は穏やかで、どこまでも澄んでいる。
それなのに、刃のように冷たい。
「私が産んで、私が育てて。あそこまで育ててあげた。あのセリフ、あなたも知ってるでしょ? 有名で、皆を魅了したあの台詞。」
「……はい。もちろん。未だに、見ますよ。」
いるまの返答は揺らがない。
母は満足げに微笑む。
「あれはね、私が作り上げた最高傑作の演技なの。仕草、動き、声のトーン、視線の先、表情…すべて私が指示した。呼吸の間隔まで、秒単位でね。」
淡々と。誇示でも激情でもなく、事実を述べるように。
「私が作り上げたものが、大ブレイクしたの。」
テーブルの上のグラスが、静かに光を反射する。 母は続ける。
「小説家が紡いだ物語は、その作家の作品でしょう? なら、子どもも同じよ。」
その理屈は滑らかで、歪みがないように聞こえる。
「なつは、私の可愛い、かわい……お人形さんなんだから。」
そこで一度、言葉を区切る。 まるで愛おしい宝物を撫でるかのような声音で。
「好きにしていいのよ。」
「………」
空気が、凍る。
可愛いという言葉が、甘く、重い鎖になる。
俺の背中を、冷たい汗が伝う。
人形。
操られる存在。 自分の意思も、未来も、望みも。 すべて、持つ必要のない存在。
母の視線が、ゆっくりと俺を捉える。
慈しむようでいて、値踏みするような目。
その奥に映るのは、息子ではない。
ひとつの作品だ。
完成させるべき、所有物。
テーブルの下で、俺の指が強く握られている、 いるまの手。 震えているのは、俺か、彼か。
わからない。 けれど、その温度だけが、かろうじて現実に繋ぎ止めてくれる。
母は微笑む。
完璧な、舞台用の笑み。
照明の下なら喝采を浴びるだろうその表情が、 今はただ、息苦しい。
静寂が、重く沈殿する。
(俺は、人形なんかじゃない)
そう、叫びたいのに。
「あなた、また演技は並中の並でしょ?」
母の声は柔らかい。 けれど、言葉は寸分の狂いもなく急所を射抜く。
「さっきの作り笑顔……若干表情が硬いわ。誤魔化そうとしたって無駄。目線が泳いでいるし、汗もすごい。演劇部に入ると同時に演技を始めた。そうでしょ?」
空気が、ぴんと張り詰める。
「……よく、わかりましたね。すごい観察眼だと思います。」
いるまは、静かに答えた。 声は震えていない。 だが、指先は白くなるほど拳を握っている。
「私はプロよ。貴方と違う。そして、なつも……貴方とは立つ土俵が違うわ。」
その言葉は、選別。 価値の線引き。
俺の胸の奥で、何かが軋む。
「……かぁ、さん……ッ。」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど弱かった。
母の視線が、ゆっくりとこちらへ移る。
「貴方みたいな、素人の集まりしかいない所にいるから、なつの印象が悪くなるのよ。」
淡々と、断罪するように。
「そうでしょ? なつ?」
逃げ場のない問い。
「お母さんが正しいわよね?」
笑っている けれど、その目は答えを強要している。
「なつ? 返事をしなさい?」
心臓が、嫌な音を立てる。
「貴方を完璧に育て上げたお母様が言っているのよ。」
完璧。
その言葉は、鎖だ。
幼い頃から何度も聞いた。 “完璧であれ” “私の名を汚すな” “失敗は許されない”
視界の端が、わずかに滲む。
言えば、楽なんだ。 「はい」と頷けば、嵐は過ぎる。 いるまを切り離せばいい。 母の描く舞台に戻ればいい。 それが正解。
「は、…i
ぎゅぅ…
「……!」
テーブルの下で 強く、強く、握られる手。 震えながらも、離れない温度。
あの舞台で。
観客の息が止まる瞬間。
あれは、母の指示だけで生まれたものじゃない。 俺が、怖くて、苦しくて、それでも立ったからこそ、生まれた空気だ。 喉の奥で凍りついていた言葉が、ゆっくりと溶ける。
「……母さん。」
声が、かすれるた… それでも、続ける。
「俺は、人形じゃない。」
静寂。 母の微笑みが、わずかに揺らぐ。
「いるまは、素人かもしれない。でも……俺をちゃんと見てくれてる。」
「母さんは、作った俺しか見てない。」
(言っちゃった…)
空気が、張り裂ける 母の目から、温度が消える。 テーブルの下の手は、離れない。
俺は、俯かないで、 初めて、真正面から母を見る。 舞台の上ではなく。 観客でもなく。 息子として。
「俺を…解放してくれませんか……? 貴方から……」
声は震えていた。
懇願にも似ていたし、赦しを乞う言葉にも聞こえた。 けれどそれは、はじめて自分の意思で紡いだ言葉だった。 母は、しばらく無言で俺を見つめていた。 感情の読めない、あの母親の目で。
「……好きにしなさい。」
あまりにも、あっさりと、 拍子抜けするほど、軽く 言うと、椅子を引いて立ち上がる。
コートを羽織る所作は、無駄がなく美しい。
まるで舞台の一幕のように完成されている。
「ぇ?」
喉から、間の抜けた声が漏れる。
怒鳴られると思った。 否定されると思った。 嘲笑われるとさえ思った。
なのに。
「私、帰るわ。お父さんが心配しているし。ごめんなさいね、素人なんか言っちゃって……じゃあ、また。」
柔らかい声。
だがその柔らかさは、どこか遠い。
「………」
何も言えない。
玄関へ向かう足音が、やけに静かに響く。
ガチャ、とドアが開く音。
そして
バタン
「……」
家が、再び静寂に包まれた。
広いリビングに、俺といるまだけが残る。
さっきまで張り詰めていた空気が、一気に抜け落ちる。
膝から力が抜け、ソファに崩れ落ちる。
「……は……」
息が、うまく吸えない。
勝ったのか、負けたのか。
解放されたのか、突き放されたのか。
分からない。
ただ、胸の奥が空洞みたいに冷たい。
そのとき。 隣に、そっと重みが加わる。
いるまが座り、何も言わずに肩を引き寄せた。
「……よく言ったな。」
低い声。
震えているのは、俺だけじゃない。
「怖かった。」
正直に言葉が落ちる。
「うん。」
「でも……言わなきゃ、一生、あのままだった気がする。」
天井を見上げる。 照明は変わらないのに、世界が少し違って見える。
人形の糸が、切れたみたいに。 軽い けれど、不安定。 いるまの腕が、少しだけ強くなる。
「なつは、なつだよ。」
簡単な言葉。
でも、それが今は救いだった。
広すぎる家は、相変わらず静かだ。 けれど、 今、この静けさは、さっきまでの孤独とは違う。
誰かが隣にいる静寂。 糸を切った先の、はじめての夜。 俺は、ゆっくりと目を閉じた。
束縛系お母さん
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内容、くそ重すぎやろ。一体何が書きたかったんじゃ。