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ワンボックスの後部座席で体を小さくしながら、稜のアナウンスに耳を傾けた。
「おはようございます! 朝一番に皆様にご挨拶に伺いました、はなお りょうでございます」
「稜、次の信号を右折したらマイクのボリュームを落とす。病院があるから」
地図を片手にチェックポイントに来たら、すかさず声掛けをするように心掛けた。学校、病院、養護施設、療養施設等の周辺はボリュームを抑えるか、無音で通り過ぎるのがマナーなんだ。
「わかった……」
マイクを下して前を見据える稜を、微妙な表情で見つめることしかできない。一緒に同乗しているウグイス嬢やスタッフ数名も、そこはかとなく漂う険悪な空気を肌で感じているだろう。
私情のもつれを、こんなところで発揮したくないのに――
「相田さん、はじめは大丈夫なの?」
内心悶々としながら、地図に視線を落としていたら、どこか感情を押し殺したような震える声で、稜が訊ねた。
「車に乗り込んでから直ぐに、二階堂にメッセージしたよ。既読になったが返事が着ていないな」
ポケットにしまっていたスマホを取り出しチェックしてみるが、未だに返事がない。
「深追いせずに、今すく戻ってくるようにメッセージしてくれない。なにかあってからじゃ問題になるからさ」
「わかった。この信号交差点を過ぎたら、アナウンス開始しても大丈夫だ」
稜に頼まれた二階堂へのメッセージをしつつ指示を出すと、俺の隣に座っているウグイス嬢が袖を引っ張ってきた。
「ここは仕切り直しで、私からアナウンスしましょうか?」
「そうだね。さっきと同じ要領でバトンタッチしてくれ。そういう打ち合わせで、稜も宜しく……」
助手席にいる稜に話しかけた途端に、あからさまなため息を大きくつかれた。彼女と話をしただけなのに、こんな態度をされるのは、今から頭痛の種だな。
「稜、いい加減に気持ちを切り替えないと、マイクから心情がダダ漏れする恐れがある。候補として、しっかりと気を引き締めないと――」
「そんなのわかってるよ、わかってるんだ。頭では理解していても、どうにもならないことがあるんだってば」
膝に置いている両手をぎゅっと握りしめ、感情を押し殺そうとしている横顔に、どうにも声をかけにくい。
「確かに、相田さんの態度でイライラしたのは確かだけど、それよりも年配の有権者に言われたことのほうが、かなりショックだったんだ。俺がゲイじゃなかったら、あんな野次をされずに済んだのにって」
自分の席から見る稜の横顔は、とても悔しさに満ち溢れたものだった。その様子で気持ちの切り替えが上手くいかないだろうと判断し、隣にいるウグイス嬢に話しかける。
「アナウンス、さっきの打ち合わせはキャンセルする。しばらくは君ひとりでやってくれ」
「克巳さん、そうやって変な気を遣わないでよ」
いつもなら皆の手前、名字で俺を呼ぶのに、名前をこうして使った時点で、彼が正常な判断ができないことがわかってしまった。それを指摘したら、ますますドツボにはまるだろう。
(この後も商店街で遊説するというのに、どうやって稜を宥めたらいいか――)
顎に手を当て考えながら、流れていく車窓をぼんやりと眺めた。
「済まない、車を停めてくれ」
ちょうど駐停車のしやすい道路に差し掛かったので、タイミングよく告げた。運転手がハザードランプのスイッチを押し、停車させたのを見計らって、ぽんぽんと稜の肩を叩く。
「ウグイス嬢と座席をチェンジ。さっさと降りる」
「なんで!? ちゃんとやれるのに」
「そうやって、声に険の含んだ状態でアナウンスしたらどうなるか、君でもわかるだろ。いい加減に指示に従ってくれ」
普段使わないような低い声で告げると、稜は渋々といった感じで車から降りた。手早くウグイス嬢と座席を変えた彼が、沈んだ表情で後部座席に乗り込んでくる。
ワゴン車の一番後ろに座っているスタッフに、自分が座っていた席に変わるよう促した。
こうして最後尾列の左端に稜を座らせ、躰をくっつけるように座り込むと、彼が身に着けている右手の手袋を外し、恋人つなぎをしてやった。
みんなの手前、抱きしめるような抱擁ができないが、稜の中にある不快な感情がなるべく取り除けるよう、自分ができる最低限の接触を試みる。