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「今日もいい天気だなあ」
太陽も昇りきる頃、暖かな陽気に包まれる季節。目の前に広がる大きな畑や家畜のいる大きな牧場を眺めながら、20歳前後の男がロッキングチェアに座って揺られている。
男は整った顔で紫の髪を揺らし、その黒い瞳を右手に持つ本に向けている。そして、彼の服装は、半袖のワイシャツにスラックス、革靴といった風景と全くそぐわないビジネスカジュアルな出で立ちである。
男の名前は、ムツキ。神が別世界から招いた最強の転生者である。彼の名前を漢字で書くと1月を意味する睦月である。男で睦月というのも中々なさそうなものだが、前世の両親からの、誰とでも仲良くできるように、そして、尽きることが無い熱意を持ってほしい、という願いによって、至って真面目に付けられた名前である。本人はとても気に入っていて、転生後もそう名乗っている。
「のどかだ。これこそ、スローライフの極みだなっ! しかし、このまま眠ってしまいそうだ。さすがに風邪を引くかな。散歩でもするか」
ムツキはそう言うと、大きな畑の方に向かった。そこには色とりどりの野菜が瑞々しく育っていた。
前世の半端な知識で作ってみたビニールハウスもいろいろと試行錯誤をしながら、順調にできあがってきている。それはすべて、碧色の長毛が特徴の犬の妖精クーが自分の部下とともに鼻を最大限に使って、精密な管理を行いつつ、その得た経験と知識を体系化しているからに他ならない。
「主様、散歩か? ちょうどいい。いくつか野菜を持っていけ。新鮮だからそのまま食えるぞ」
「わん!」
「ばう!」
何匹かの犬の妖精がクーの指示で、新鮮な野菜をかごいっぱいに用意した。ムツキはかごを両手で持って、嬉しそうにはにかむ。
「おぉ。ありがとうな。これだけあるなら、他のみんなに配ってみるか。というか、俺一人だと食べられない」
食事不可の呪い。自分で食べることができない呪い。食べる動作をしようとしても無意識に食べる動作をやめてしまう。飲む動作はできる。よく分からない呪いである。
「オレたちは土仕事をしているから、食べさせてやれない。すまない」
「気にするな。仕事の続きに励んでくれ」
ムツキはクーの視線を背に受けて、散歩を再開する。
大きな畑の隣には大きな牧場があり、牛や豚、鶏、羊などに似た様々な動物たちが放牧状態ですくすくと育てられている。そのような場所の中でも牛舎を見かけたので、ムツキはそちらの方に歩いてみる。
「にゃ」
そこでは、チャウシーという種類の猫に似た妖精たちが数匹仕事をしていた。トラ模様のチャウシーが気付いてムツキに駆け寄ってくる。
「にゃ?」
「ケットはいるか?」
チャウシーはムツキの言葉が分からないようで、ムツキがジェスチャーでケットのことを示すと、そのことに気付いたのか、しっぽをぶんぶんと振り始める。
「にゃ、にゃにゃー、にゃ」
「あー、かわいいけど、いないことしか分からんなあ。かわいいからいいけど」
「にゃ、にゃー、にゃー……」
「そんな落ち込まないでくれ。猫語が分からない俺を許してほしい」
ムツキは猫語をケットからたまに学んでいるのだが、一向に学習効果が見いだせていない。ユウに言語習得ができるように改善してほしいと願うばかりである。
「にゃ!」
「あっちの方かな? 行ってみるか」
チャウシーが草原の方を指し示すので、ムツキはそちらに行くことにした。その時、別のチャウシーが牛乳瓶を5本ほど持ってきてくれた。
「にゃ、にゃー」
「ん? これを俺にくれるのか?」
「にゃ」
別のチャウシーはムツキの言葉が少し分かるようだ。かごの中に牛乳瓶を入れていく。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたんだ」
そうして、ムツキは草原の方へと向かって歩く。牛乳瓶に入った飲み物は加熱殺菌した後に冷やしたもののようで、彼は草原にいる誰かの元へと足を急がせる。
草原は主に人族の領地側と魔人族の領地側との2つに分けられる。チャウシーに指し示されたのは魔人族側の草原だった。ムツキが見かけたのは、草原にぽつんと生えている頼りない小さな木の枝に留まる白フクロウのルーヴァだった。
「おーい、ルーヴァ」
「あーら、ムツキ様。ムツキ様もあの2人の訓練に参加する?」
「訓練?」
ムツキはルーヴァの視線の先、少し背の高い草から飛び出てくるナジュミネとリゥパに気付いた。
「強いが、この前よりは手強い感じがしないな」
元・炎の魔王で鬼族のナジュミネは、きめ細かな白い肌をしていて、まるで陶器の人形が動き出したかのような華麗な姿である。ウェーブの掛かっている真紅の長い髪が動くたびに、見た者に炎の揺らめきを想像させる。さらには、真紅の瞳と釣り目がちな目は、奥に秘めた意志の強さやある種の自信を表している。
そして、彼女は、上に赤色、下に黒色の軍服を纏う凛々しい姿ではあるものの、胸の張り方や腰回りの大きさを見れば、スタイルの良さが容易に分かる。
「エルフは森の中にいると普段よりも強いのよ!」
リゥパは、森人、守り人とも言われ、エルフとも言われる種族の女性である。エルフ特有の長く尖った耳と、若干スレンダーな体型、瞳の色や髪の色は淡い緑色をしており、髪がショートボブで短く綺麗にまとめられている。肌の色を見れば、ナジュミネに負けず劣らずの透き通るような白い肌が太陽に照らされる。
彼女は、緑の長袖シャツに薄茶色の長ズボン、濃い茶色のブーツ、革の胸当てを身に着けており、いわゆるエルフの標準装備に加えて、エルフ族の姫である証の琥珀色の腕輪を身に着けていた。
「環境補正か。この勝負、もらったな。ブレイズ……」
ナジュミネは不適な笑みを浮かべ、【ブレイズアロー】を唱えようとする。そして、相対するリゥパは【マジックアロー】を構えようとするが、ムツキに気付き、目の色を変えて彼の方へと駆け出す。
「ムッちゃーん!」
リゥパはムツキの両手に抱えている荷物などお構いなしに真っ直ぐ突っ込んでくる。そのまま、彼女は彼の左腕をひしっと抱きしめた。
「おっと、リゥパ、荷物を持っているのに急に抱き着くのは困るな」
「うふふ、ごめんね。見かけたら居ても立っても居られなくて。ぎゅー」
ナジュミネはしばらく開いた口が塞がらなかったが、やがて、怒りが潤滑油となって、口が動くようになった。
「む。リゥパ、妾との訓練はどうした!」
「いいわ、勝ちを譲るわ。ムッちゃんの方が大事!」
「むむ。ズルいぞ!」
「そこで、妾も、とか言って行動しない辺りが酔ってないナジュミネらしいわね」
「むむむ。妾も抱きつくぞ!」
ナジュミネもここまで煽られては恥も外聞もあったものではない。リゥパ同様に彼女もムツキの右腕に抱き着く。両腕に花、両手には野菜と牛乳と彼の周りは随分と賑やかである。
「ちょっと待て、荷物、荷物。ナジュ、そうだ」
「どうした? 旦那様はもしや妾に抱き着かれるのが嫌なのか?」
ナジュミネが悲しそうな表情と声色で聞いてくるので、ムツキは全力で首を横に振る。
「違う、違う。この取れ立ての野菜を食べさせてほしい。一人じゃ食べられないからな」
「ほっ、お安い御用だ」
ナジュミネは目の前の野菜をひょいと持ち上げて、少し磨いた後にムツキの口へと運ぶ。その隣では、既に野菜にかじりついているリゥパがいた。
「ん。美味しいわね」
「美味しいな」
「妾も失礼する。うん、美味だな」
しばらく、3人は野菜の自然な美味しさを堪能した後、ムツキが牛乳瓶の飲み物を2人に差し出す。
「飲み物もあるぞ?」
「旦那様、ありがとう」
「あー、これ、ミルクかしら。私、あまり好きじゃないのよね」
リゥパは乗り気じゃなかったので、ムツキに返そうとする。
「リゥパ、好き嫌いをしていると大きくなれないぞ?」
「ムッちゃん……私はもう子どもじゃないんだから、そう言われて飲むわけないじゃない」
「妾は幼少の頃から欠かさず飲んでいるな」
「飲むわ」
リゥパはナジュミネが毎日欠かさず飲んでいるという言葉と飲む姿を見て、手のひらを返した。おそらく、プロポーションの秘密がミルクにあると考えたようだ。
「のどかでいいな」
「そうね。平和が一番ね」
「妾もそう思う」
3人はしみじみとそう感じ、しばらく談笑していると突如として轟音が鳴り響いた。
「え、なに?」
「俺たちの家の方か?」
「何が起こった?」
「あ、いたニャ! みんニャ、大変ニャ!」
黒猫のケットが血相を変えてムツキの方へと駆け寄ってくる。ケットは子どもくらいの大きさの大きな猫である。金色の瞳をしており、胸元に白いふさふさの毛を蓄えて、2本の長い尻尾を持っている。
「ケット、どうした?」
「ユウ様が寝ぼけて、ご主人の方へと近付いて来ているニャ! 今はまだ被害ニャいけど、ご主人を見かけたらどうするのか分からニャいニャ!」
ムツキが目を凝らすと、既にユウが浮遊しながら近づいていた。
ユウはナイトキャップに寝間着姿の幼い女の子だった。背中が隠れるくらいの長い金髪に透き通るような白い肌をしていて、お人形さんと呼ばれても遜色ないほど綺麗な姿をしていた。そのお人形さんが寝ぼけて、彼を探しているというのだ。
彼は思わず大きな溜め息を吐いた。
「俺はスローライフを送りたいんだ! 本当に、本当に、トラブルは勘弁してくれ!」
ムツキの悲痛な叫びは草原に響き渡る。しかし、ユウが覚醒する様子もなく、彼の方へとゆっくりと近付いている。
彼のスローライフはまだまだ発展途上で始まったばかりだ。