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視界の隅で、深紅の花が咲いたようだった。
薄暗い洞窟に、禍々しい血の花が咲き乱れた。
「ヨハン!」
絶叫に近いルージュとシシリィの声が洞窟に木霊する。
「あの馬鹿!」
舌打ちをしつつ、アリアスは振り下ろされた棍棒を避け、オークの喉に剣を突き刺した。剣を引き抜かず、そのまま体を入れ替え壁際から脱出する。
「おい! 大丈夫か!」
大丈夫なわけはなかった。チラリとしか見えなかったが、あの出血では致命傷は免れないだろう。ヨハンに駆け寄ろうとしたアリアスの足が、体がその場で固まる。アリアスだけではない。今まで唸り声を上げ、襲いかかってきたオークでさえ動きを止めていた。
「何だ……?」
体は火照り、汗が流れるほど熱いというのに、寒気が全身を走り抜ける。
「ヨハン……さん?」
「どうしたの、ヨハン?」
寒気の原因は一目瞭然だった。
オークの一撃を受け、倒れたかに見えたヨハンが、右足を後ろに引き、体を支えていた。床に落ちる血は夥しく、まるで血液をバケツに溜め、それを流しているかのようだった。
しかし、アリアス達の視線を引いたのは、流れる血液ではなかった。
「下衆が……!」
仰け反ったヨハンが、徐々に上体を起こしていく。綿毛のように柔らかかった金髪が、黒い直毛へと変化していく。
「俺様を誰だと思っている……!」
ヨハンは腰に差してある剣を抜き放つと、悠然と目の前に立つオークに向けた。
ヨハンに見つめられたオークが、明らかに動揺する。見てくれも何もかも違うが、その様は怯える子犬のようだった。ヨハンの前にいる三体だけではない。アリアスの後ろにいるオークも、その場から動けずにいた。
「貴様らの創造主にして神、アルビス(・・・)だぞ。その俺様に刃を向けるとは、良い度胸だ」
アルビスと名乗ったその人物は、僅かに身を沈めたかと思うと、オークの中へ飛び込んでいった。
銀刃一閃。
閃光が走り抜けたと思った次の瞬間、三体のオークが上半身と下半身を分断され、床に転がった。
刃に付いた血を切るように一振りすると、アルビスはゆっくりと振り返った。
アルビスを見て、アリアスは息を詰めた。
顔の造形はヨハンその物で中性的だったが、金髪の髪は黒く、海のように深く青かった瞳は、血の色を写したかのように赤く染まっていた。オークに斬られた傷も塞がっており、出血も止まっている。
二重人格。以前、一つの体に二つ以上の人格を持つ人物の話を読んだことがあるが、それは、幼い頃に受けた虐待などが原因で生み出される別の人格だとされていた。精神的失調の一つであり、精神病とは異なり、解離性障害に分類される。中には自分の知らない言語を話したり、肉体に僅かな変化をもたらせる事もあるそうだが、髪の色や質が変化したり、瞳が青から赤に変わるなど、そんな話は聞いたことがなかった。
「俺様を忘れし下僕共よ」
アリアスを見つめるアルビスの瞳が、スッと細められる。血に染まった右手が、目の高さまで上げられた。
「虚無へと消えろ」
掲げた右手に、赤い光が集約していく。禍々しいまでの強大な魔晶が、アルビスの右手に集い、大気を振るわせた。
「ローズ・オブ・ナイトメア」
死神の甘い囁きが、微かな余韻を残して洞窟内に響いた。放たれた幾つもの閃光は、アリアスの脇を掠め、背後に並ぶオークを貫いた。閃光はオークを包み、切り裂き、焼き払い、凝縮し、虚空へ飲み込んだ。
アルビスが登場して、一分と経っていない。だが、この洞窟内のオークは一瞬にして全滅した。
「ヨハン……! お前は一体」
オークが居なくなったからと言って、とても安心できる状況ではなかった。目の前にいるアルビスとか言う、ヨハンの体を持つ者。アルビスの放つ気配は余りにも禍々しく、敵意に満ちていた。アルビスが剣を振り上げ、ルージュとシシリィを切り裂いたとしても、不思議にも思わないだろう。それほどの殺意を、アルビスは漲らせていた。
「俺様はアルビスだ。ヨハンではない」
「アルビスだと?」
「お前達も知っているだろう。魔晶戦争で、貴様ら人間に負けた魔神だ。しかし、俺様は生きている。ヨハンという体を経て、再びこの世界に降臨した」
「そうか、分かったぜ。お前が黒い太陽か」
アリアスの言葉を聞き、アルビスが目を細めた。
「ほう、あのシンボルに気づいた奴がいたか」
「ああ、ヨハンのシンボルを見た時から気になっていたぜ。太陽の真下に地平線があって、地平線の下には黒い太陽がある。シシリィは太陽の影だと言っていたけどな、自ら光を放つ太陽に影(・)なんて存在しない。だけど」
「ヨハンという太陽には、俺(アルビス)様という影がある。魔晶からシンボルを導き出す装置、あれは良くできていたな。見ていて面白かったよ」
そう言うと、アルビスは手にした剣をルージュへと向けた。
床に転がったままのルージュが、アルビスを見上げる。その顔には、戸惑いと恐怖が入り交じっていた。
「ヨハン……アルビスさん、一体何を……」
シシリィがアルビスを止めようとするが、鋭い一瞥でその動きを封じられた。アリアスでさえ、アルビスと向かい合うだけで精一杯なのだ。あの邪悪な眼差しで睨み付けられたら、シシリィなど身動きが取れなくなってしまうだろう。
「お前はアルバレイドの血縁だな」
「血縁……? お兄様は、確かにアルバレイドを名乗っているけど……」
「ならば問題はないな。この時を待っていたぞ、アルバレイド。俺様の体をバラバラにした恨み、ここで晴らす。まずは貴様からバラバラに切り刻んでやる」
「ちょっと、待ってよ……! なんで私が殺されなきゃならないのよ!」
必死にアルビスから逃げようとするルージュだが、体を縛られた状態では、どうすることも出来なかった。青ざめた顔で、振り上げる剣をただ見つめるだけだった。
剣を振り上げたアルビス。剣を振り下ろす前に、アリアスがアルビスとルージュの間に割って入った。
「何のつもりだ?」
「悪いなアルビス。何百年も昔の恨みを、いま晴らされても困るんだよ! それに、俺達は四人でチームだろう! そう言ったのはお前だぜ、ヨハン!」
これは一つの賭だった。一縷の望みを乗せ、ヨハンという名を口にした。もし、ヨハンがアルビスの人格を破って出てこなければ、アリアスもルージュもやられるだろう。それだけの実力差を、アリアスは感じていた。
「チーム、ねえ……」
冷めた声がアルビスから発せられた。アリアスを迂回するように、横たわるルージュを中心にゆっくりと歩き出す。
舌打ちを噛み殺しながら、アリアスは常にアルビスとルージュの間に立つことにした。
「人の沐浴を盗み見たり、バックの中を確認したりするのが、チームメイトのする事かねぇ?」
クククと、喉の底で笑うアルビス。突然のことで、ルージュとシシリィはアルビスが何を言っているのか分からないだろう。しかし、アリアスには心当たりがあった。昨夜の出来事を、アルビスは言っているのだ。
「なあアリアス、お前も色々と隠しているんじゃないのか?」
ほんの一瞬の気の緩みだった。アルビスの言葉に、アリアスの集中力が僅かに乱れた。その一瞬を見抜き、アルビスは音もなく動き、アリアスの背後に立った。
「アルビス!」
剣を振り上げたアリアスだったが、すでにアルビスの手にした剣は、ルージュの体に突き刺さっていた。
口元を押さえるシシリィが、ヘナヘナとその場に崩れ落ちる。アリアスも、その場に崩れ落ちたかった。あれほど必死に守ろうとしたルージュが、ヨハンに、アルビスにやられてしまうなんて。
「ん? ああ、冗談だ、冗談。本気にするな、だから、怒るなって。……すぐに変わるから、ちょっと待っていろ」
突然、何事かを呟いたアルビスの体から、禍々しい気が消えた。彼は、ルージュに突き刺した剣を左右に振ると、体を縛っていた蔦を切り裂いた。元々、アルビスの剣はルージュの体ではなく、蔓に突き刺さっていたのだ。
「これで俺様は退散するぜ。詳しいことは、ヨハンから聞くんだな。話を聞いた時、お前達がどう判断するか、楽しみにしてるぜ」
笑い声を残しアルビスは消え去った。アルビスが消え去った後、そこに現れたのは、バツの悪い笑みを浮かべる、ヨハン・クルロックだった。