華野長屋に越してきた養い親の月音と養い子の久太。9才そこそこぐらいでもうすぐ奉公に出てもよい歳ごろだ。だが一項に奉公に出る気配はない。それで近所のおかみ達には「もうすぐで久ちゃんも奉公だねえ。なんだかさみしいけど頑張っておいでね。」や「たまには戻って顔を見せておくんなさいね」や「おや、久ちゃん、もう戻ってきたのかい?久ちゃんような若い子にゃ、頑張ってもらわんとね」とまるで行くのが決まっているのように話しかけて来るのだから久太はちょっとまいってしまっている。だが、久太は奉公こそしていないものの、初心だがちゃんと働いていたのだ。それは、孤児の動物を中心に動物を預かり、貰い手を見つける動物の育て屋をやっているのだ。
久太は布団で横になりごろごろしていた。つい昨日、月の姫君である銀螺姫の館へ行き、動物たちの世話をしに言ったが下男や下女を間違えるわ厠に行って迷子になるわでさんざんだった。ふと時計を見るともうすぐ暮六つになるところだった。もうすぐで動物達がくるなと考えていた。さんざんな目に会ったが正直少し楽しみにもしていた。その気持ちが通じたのか戸が叩かれ予想の通り希鈴が現れた。いつもはすらっとした体にヒュッとした目が美しかったが今夜は少し潤みがかかり、目はほんの少しはっきりと大きくなっていたのだ。いつもと変わらぬ声でおずおずと希鈴は久太に話しかけた「久太殿、お願いがあるのですが頼んでもよろしいでしょうか?」そう言って4本の尾からちいさな灰色の子を7匹取り出した。「この子らは化け狼の子で7兄妹なんですよ」希鈴の顔が少し和らいだ。だがその顔はすぐに元の引きつった顔となった。「久太殿、この子らを吉原に連れて行ってもらいませんか?」「よ、吉原ぁ!?」久太は仰天した。楽しいときであったら希鈴は大笑いしていただろう。だが今はその顔がさらに引きつってしまいにはうつむいてしまった。「…はい。遊郭の吉原にです。お願いできますか?」「でも何で俺が?希鈴姐さんなら連れてい行けるだろ?隠れるのもお手の物だと思うし」「ところがそうでもないんですよ」希鈴の顔が曇った。「あそこ、吉原は地獄なんですよ。華夜公様さえも近づきたがりません。華夜公様だけでなく、どんなに強い大妖であろうと絶対に近づきたがらないんです。それにだだてさえ…」希鈴の目には涙が溜まっていた。「た、ただでさえ?」「ただてさえあそこは邪気が強いに強い、強烈よりとても強い邪気があるのですよ。」それにと希鈴は言葉を続けた。「それにこの子は化け狼の子。生身の狼より生き残ることが多いですが邪気に吉原の邪気に飲み込まれたらこの子らはこの子でいなくなってしまうのです。」久太は背筋が寒くなるのをこらえながら「何になるの?」と訪ねてみた「それは私たちも知りません。ただ分かるのは今よりもずっとずっと堕ちたものになることです。」「堕ちた…もの‥」それ以降は希鈴は一切返事をしなかった。いつもは名前の通り目には希望をたくさんためていたのに。「それで。吉原の女子にあいたいのは?」希鈴は罰が悪そうに言った。「あのぅそのぅ、みなさんなんですよ」久太は絶句した。華夜公でさえ近づきたがらない遊郭のしかももっとも邪気が強い吉原に行きたいなんて。どんなに向こう見ずで怖いもの知らずなんだろうと返って怖くもなってきた久太であった。それに希鈴は喋り方がとても優雅だったが今は普通に喋っている。こんな時だからだと無理矢理納得し、うん。いいよと言おうとしたところで久太は恐る恐る月音を振り返った。久太が吉原に行くと知ったらどんなに起こるであろう。むろん、久太の予想はあたった。「久太、吉原なんていけるかい?なんなら私がついていくよ」「いや!つきねえはいいよ!」久太は必死で断った。つきねえが入ったら修羅場になりそうな予感がしてきたのだ。「ほんとにいいのかい?」「ほんとだってば!帰りにもしかしたら夕餉の材料を買ってくるかもしれないし…」久太に甘い月音は渋々諦めてくれた。だが一人で遊郭に、しかも吉原に行くことはできなさそうだ。とりあえず7匹を残して希鈴には返ってもらい、ひたすら考えた。うんうん唸っている久太に月音が助け舟を出してきた。「久太、かのどら息子はどうだい?」ああっと久太はにやけるような、苦虫を噛み潰した顔になるような複雑な顔になって頷いた。次の晩、久太は大家の家を尋ねることになった。トントン、トントン。久太は手に少しばかりの汗を握りしめて戸を叩いた。「誰だい?」大家の声が響き、そして戸が開いた。「大家さん、鄒蔵いますか?」大家は少し驚いた顔をしながらも「鄒蔵はな、小料理屋の露草にお気に入りのいい人ができたとかなんとかといってへろへろ顔で出ていったよ。それと、露草はそこの鬼呼橋を渡ったかどを曲がって少しあるくとあるよ」と鬼呼橋を指さして言った。「ありがとう大家さん。」そう言って久太は出ていった。そして鬼呼橋を渡り、かどを曲がった少し先に「露草」と書いてある提灯とのれんを見つけた。「あった。あれか」そう言って久太は走り出した。少し走った先には露草があった。いざ露草に着き、入ろうとすると久太は飛び上がる羽目となったのだ。入ろうとして露草から女たちの歓声が悲鳴のように上がったのだ。ビクッとしながらも久太は露草に入った。「いらっしゃい」温かく出迎えてくれたのは19ぐらいのごきれいな女子だった。女子は華音と名乗った。「華音さん、鄒蔵いますか?」「鄒蔵の若旦那に会いにきたの?若旦那!!鄒蔵の若旦那!弟若旦那が会いに来たよ!」華音は二階に向かって声を張り上げた。するとすぐさま二階からすっとんきょうな返事が降りてきた「俺の弟だってえ?」声と同時にバタバタとどこかの大店の嫡男のようなよい身なりをした一人の男が降りてきた。そしてあきれたような声で華音に言った。「華音さん。こいつが俺の弟のわけがあるもんかい。いいかい、華音さん、こいつはな、壺や扇の絵描きであり、医者でもある知り合いの養い子の久太だ。」へえっと華音は物珍しそうに久太を見つめた。それと同時に鄒蔵は言った。「あれえ。久太、月さんは?」鄒蔵とは久太が住む長屋の一人息子である。見た目はよい色男だがとびきりの女好きでどうしようもないどら息子である。一応久太は鄒蔵を色男とは思ったことがないのだが。鄒蔵の質問を無視し、まあとにかく頼まねばと久太は息を吸い込んで言った。「鄒蔵、頼みがあるんだ」鄒蔵はほうっと物珍しそうに、面白そうに言った。「餅丸がそんなことを言うなんてねえ。月さんだけじゃなくて俺にも頼めるぐらいになったんだねえ。ご解禁の理由はなんなんだい?ねえ?」「うるさいな!もう!」鄒蔵がからかった理由は久太は月音以外の人間は誰も信用していなかったのだ。希鈴や華夜公、月音に後押しされ、この前始めて他人に頼み事ができたのだ。そして今回、鄒蔵に吉原に行くように頼んだのです。「あのさ、俺を吉原に連れて行ってほしんだ。」「吉原ぁ!?吉原に行ってる俺が言うことじゃないけど、いやぁこれは呆れたねえ。」でもと鄒蔵はにやけながら言った。「ついに久太も大人になるんだねえ。俺も覚えがあるよぉう。ついに久太も恋の花が咲いたんだねぇ」あまりにもしみじみとした様子でつぶやいたものなので久太は怒りながら言った。「ちがう!そんなんじゃない!別のことで頼みたいんだ!」「うんうん。恥ずかしがらないでいいんだよ。うん。そんなことなら手伝ってやるよ」あまりのわかりの悪さに怒ることもできず、引き受けてもらうということで久太は一応帰ることにした。ぼうっとした顔を見て月音が心配したのは言うまでもない。「久太!どうしたの!まさか鄒蔵さんに断られたのかい?」ぼうっとした顔のまま久太は答えた。「いいや…引き受けてはもらえたよ。女目当てだって言われた‥」とさっきの事を話したのだ。それを聞き終えると月音はちっと舌打ちをして憎々しげにつぶやいた。「ちょいと懲らしめなきゃいけないね。これは」あまりにも恐ろしかったので気分を変えに夕餉の支度に取り掛かった。今日の夕餉は味噌汁にふっくらとした卵焼き、おかかをまぶした飯に漬物、そして最後におやつの草餅をこしらえ、月音と仲良く食べて寝た。
久太、吉原へ行く
次の朝、久太は鄒蔵と約束していた時刻にその場所へ行った。場所は浅草寺の前、明け六つで待ち合わせになっていたが明け六つを半刻ぐらいすぎても久太は現れなかった。「連れて行ってもらって言うもんじゃないけどいくらなんでもおっそいなぁ。なにやってんだよ。もお」愚痴を吐き出していると鄒蔵が約束のところにやっと現れた。「ふう。ふう。お、もう来てたか。ふう。は、早いな」と息切れ切れに言った。「お前が遅いだけだよ」「あ、相変わらず無愛想だねえ。も、もっと俺のように愛想降ってたらいいんだよ」「お前みたいになりたくない」と憎まれ口を叩きあったあとすぐに鄒蔵は言った。「んじゃ、今から吉原に行くよ。ついといで」久太は鄒蔵と並んで歩くのが嫌だけど離れたくなかったので少し間を開けて並んで行った。そして日本堤まで来ると鄒蔵は言った。「粋のいい連中や若旦那はここから輿で行くんだけど今日はせっかくだし歩いて行こう」そういったあと、少し慌てた様子でいろいろとお前に見せたいものもあるしね付けたした。ははあこれは絶対懐がさびしいやつだと思いながら小さくうんと頷いた。そして歩くこと小半時。黒い大きい門が見えてきた。「あれが吉原?」「ああ。そうだよ」なんだかぞくっとするような黒だった。段々近づいてくる黒の巨大門。進むに連れ恐ろしさが増し、久太は少しちびってしまった。やがて門の目の前に来た。ゴクリとつばを飲み込みながらも久太は門の中に入った。入りながら久太はそっと懐とたもとに手を当てて「大丈夫かい?」と呼びかけた。するとかすかに「きゅうん」と声が聞こえるので安心した。化けオオカミなどの小妖は吉原などの邪気が強いところにいると普通の狼の姿に戻ってしまうという。それはそれで好都合だと思い、懐に2匹入れ、たもとには3匹ずつ入れ、あとの2匹は希鈴からもらった三ツ尾という久太以外には見れないふさふさとしたキツネの尻尾のようなものに入れてきたのだ。と ここで鄒蔵が話しかけてきた。「で、お前が会いたい女子はどこだい?ちゃんと場所は分かってんだろうね?」久太は懐とたもとに当てた手をさりげなく落としながら言った。「菊波郎の初来(はつき)と咲月(さつき)と夜月(よつき)と伊月(いつき)と弓月(ゆつき)と小月(しょうげつ)と葉月(はつき)っていう人」と言うとまたしても鄒蔵が呆れた。「俺が言うもんじゃないけどあんた好きな人がそんなにもいるのかい?でも安心しな。お前に合っている人かどうか俺がちゃんと見分けてやるからな。もし合わなかった場合はちゃんと合う人を見つけてやるからね。」違う!言ってやりたくなったが声が出ずただただ鄒蔵を睨みつけるしかなかった。鄒蔵はそれを見なかったフリをし、「ま、ついといで」と言った。門に入るとき鄒蔵が言った。「そうそう、この橋の下の溝、絶対に落ちるんじゃないよ」「うん。ていうかこれ、何なの?」「これはお歯黒溝さ。遊女達のお歯黒や色々な物が溜まりに溜まってできたものだ。」吐き気を抑えながらも久太は吉原に入った。「ところで久太、あんたさっきからたまに懐やたもとを抑えてないかい?どうしたんだい?懐は好きな人への思いで、胸が痛くなるんだよねえ。うんうん。」「へ?何だよ?」久太が言い返しても無視し、話し続ける鄒蔵の口はどうなっているんだと久太は呆れ果てた。「んで、たもとには何が入っているんだい?ん?女への贈り物かい?どれどれ?見せてみな。」そう言って鄒蔵は久太のたもとにゆっくりと手を伸ばしかけた。久太は心底焦った。懐は触られないと分かった。が、6匹の化け狼が入っているたもとに触られたら終わりだ。それにもう鄒蔵が伸ばしかけている手は久太の懐より、少しばかり離れたところにまで迫っている。これはやばい。そして鄒蔵の手が届く所まで来た。やばい!久太は反射的に鄒蔵の手を振り払って逃げた。でも鄒蔵がすぐそこまで追ってくることはなかった。さすが常連というか、いろいろと声をかけられたのだ。「おやっ。若旦那じゃないの」「まあっ。いい男。ね、お兄さん、負けてあげるから寄ってって。」などと引き止められたからだ。ふと足を止めるとそこはもう菊波郎だった。
久太、菊波郎に着く
山吹色ののれんに、菊波郎とかいてあり、まわりには華やかな薄桃色や撫子色、中黄色などの菊の絵が大きく書いてあった。だが安堵するにはまだ早すぎた。どうやって菊波郎に話をつけてこようか。そしてなんだかさっきより背中がぞくぞくする。そしてふと、希鈴の言葉が蘇ってきた。あそこは地獄早く来い。そう思うと鄒蔵がふーひー言いながら来るのが見えた。「そこにいたのか久太。んじゃ話をつけてくる。」そういって待つこと小半時はたたなかったがそれぐらいだ。速く帰ってこい。その願いが通じたのかやっと鄒蔵が帰ってきた。「話がついたよ。ついといで。」久太は無言で階段を上がった。そして座敷に通された。鄒蔵は少しへらへらしながら大好きな酒と、いわしの塩焼きとてんぷらを頼んでいた。久太は好物のカブの漬物を頼んだ。そしてすぐに目の前の障子がスッと開いた。そして、優しい軽やかな桃のような香りが溢れ出てきていた。そしてその香りを放っている女子が障子の外に出てきた。
七ツ子のうちの双子、初月と咲月
少し経って、スッと障子が開いて、中から女が出てきた。出てきたのは、月音より少し年の上の女子だった。スラッとした体つきに薄桜色の着物をまとっていて、牡丹のような模様があしらってあった。なにか違うところは普通、怖いほど付けているはずの白粉があまりついていないということだろう。そして、その女が正座をし、初めて声を放った。「菊波郎の七ツ子の長女、初月でございます。本日はお呼びくださりありがとうございます。」と言って持ってきたお膳を鄒蔵達の前に進めた。 すぐ後、「おまたせして申し訳ございません。妹達はのちのち来ます。」そういって今度は爽やかな香りと共に撫子の少ししっとりとした香りが漂ってきた。「私も同じく、菊波郎の七ツ子の次女、咲月でございます。」
そう言って出てきた咲月は七ツ子のうち、初来と唯一の双子だ。似ているが初月は少し物腰柔らかな感じだが、咲月は少々真面目な感じだ。鄒蔵はべっぴんさんが出てきたため、すぐに機嫌よく調子に乗り、「姐さん、こっちおいでいきなりだがお酌でも頼むよ。」咲月は少し怪訝そうな顔をした。「咲月」凛とした声で言い放った。「あいにく、咲月への酌は承ってございませぬゆえ。やるならば私が承っております」
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