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五条悟が浮気!?
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曇り時々雨、お出かけには傘を用意しましょう。場所によっては雪になる、なんてこともありますよ!…なんて、テレビ画面でニコニコ呑気に笑うお天気お姉さんに「うるせー」と悪態をついて、テレビのリモコンの電源ボタンを押した。瞬時に暗くなるテレビにぼんやりと映るのは、紛れもなく死顔をした自分自身だった。
「降水確率100%、雪も降りそうな程寒い心はどうしたらいいですか」
ポツリとつぶやいた言葉は、誰にも聞かれることなく空中を彷徨った後に、道路工事中の騒音に掻き消されてしまった。
不貞腐れるように二人がけのソファに寝転んだ。窓に広がるどんよりとした曇天は、まるで自分の心を映し出したようで、より一層暗く惨めな気持ちになっていく。
本来であれば、今日は楽しくなる日だったのだ。二ヶ月も前から約束していた悟とのデートだったのだ。
私は大きく息を吸って、どんよりと鉛よりも重たいため息を吐いた。電話口で「ごめん」と謝る悟に、カッとなって思わず「じゃあもう別れよう」と投げやりな言葉を吐き捨ててしまったのは、昨日の夜、あまりにも最近すぎる出来事だった。
電話越しの沈黙はあまりにも長過ぎて、自分の過ちを理解するには十分すぎた。それでも、それを撤回するにはあまりにも私たちの間には距離が出来ていたし、それに行き着くまでの原因があまりにもあり過ぎた。
「は?何?よく聞こえねーんだけど」と高専時代の口調に戻った悟の声が怖くて、私は急いでスマホの電源ボタンを押したのだ。ツーツーと無機質な電子音が今でも鼓膜に張り付いているようで気持ち悪い。
私はソファに蹲り、昨日の出来事を鮮明に思い出しては、どうにもならない寂しさを持て余すだけだった。
悟とは、昨日終わったのだ。
五条悟。天上天下唯我独尊、五条家の生まれで、六眼と無下限の抱き合わせを持った自称ナイスルッキングガイ。そんな彼と私は高専時代から付き合っていた。
どうして、悟が私を選んだのか今でも分からない。平々凡々で頭も良く無ければ容姿も良いわけではない。持って生まれた術式だってたかが知れていた。任務だっていつも悟か傑が助けてくれないと思うようにこなせもしない。
そんな私をある日、悟は好きだと言ったのだ。悟と釣り合う要素なんて一つだって持ち得てはいなかったのに、だ。密かに恋心を抱いていた私は、嬉しさから首を縦に振ったけれど、その後とてつもなく後悔した。馬鹿で愚かな自分を責め立てた。
そりゃそうだ。あの五条悟と付き合うなんて、どうかしている。
硝子の憐んだ顔も、傑の苦い顔も、何を示しているのか理解していた。私の頬を撫でる悟の手が優しくて、私は悟の隣というポジションにしがみついていた。
そして気がつけば十年が経っていた。
だけどあまりにも長い年月は、多分、本人達が思っているよりも脆くて、儚くて、馬鹿みたいに一瞬で消えるのだ。
歯車が狂い出したのは、おおよそ一週間前の土曜日で、任務帰りの事だった。補助監督の運転する車の後部座席で、道ゆく人を眺めている時だった。反対車線に楽しげに歩く五条悟、そしてその横にはシャネルのバッグがとても似合う女性が、悟の腕にまるで蛇のように絡み付けて歩いていたのだ。
まるで視線を縫い付けられたように、その二人ばかりを追ってしまう。二人の姿が角を曲がって見えなくなるまで、私は視線を外す事が出来なかった。そして、私は一瞬で全てを理解する。あぁ、きっと。そうだ。私は、もうすぐ要らない人間に成り下がるのだろう、と。
ひく、と喉が震えるのが分かる。バックミラーから私の様子を見ていた補助監督が心配そうに私に声をかけてくれたけれど、私は曖昧に笑って誤魔化す事しか出来なかった。今にも溢れそうなこの黒くて臭くて泥のような感情。あぁ、そうか。人間はこうやって呪いを生むんだな、と私は他人事のようにほくそ笑んだ。
補助監督に家まで送ってもらって、私は覚束ない足取りで玄関のドアをくぐり、そのまま風呂場へと直行した。
冷たすぎる風呂場のタイルがまだ私が辛うじて生きている事を実感させていた。
もし、私のこの薄汚いドロドロの感情が呪いになるとしたら、きっと特級レベルの大物で、願わくば悟に祓ってもらいたい。なんておおよそ自分勝手な想像が脳内を駆け巡る。
それでも現実はすこぶる残酷で、呪術師が呪いを生むことがないとぐらいはっきりと理解していた。
ふと顔を上げると、鏡の中の自分と目があった。あまりにも貧相な自分の姿に一頻り大笑いした後、私はシャワーヘッドを鏡に向けて、鏡面を水で洗い流してやった。排水溝に流れていく水を、ぼんやりとした視線で追いかける。私のこのどうしようもない感情も一緒に排水溝へ流れていけば、いいのに。五条悟への愛情も全部流れてしまえば、いいのに。
風呂場を出た後は、身体に張り付いた水滴を拭く事もしないまま寝室へ向かい、メイキングのされたシーツの上へ寝そべった。
寒い、寒いってなんだ。死にたい、そうか死にたいのか。嫌いだ、私は捨てられるのだ。
ぐるぐると永遠に終わることのない負の感情が脳を行ったり来たりしては、私をどんどんと責めていく。
なんとなく、こうなるであろう予兆はあったのだ。
「電話、出てくれなかったもんなぁ」
一ヶ月ほど前から悟との接触が減りつつあったのは、自覚していた。毎日していた電話は週に三回、そして一回、今では留守番電話のアナウンスが私の耳に届くようになってしまった。メールも返事は返ってこない。
忙しいのだ。人手不足のこの業界で、彼は特級呪術師で、私も一級呪術師で、タイミングが悪くて、きっと、電話もメールも出れなくて、だから、だから、だから。
ヒクリ、と横隔膜が震えた。どんどんと肌が寒くなっていく。じんわりと涙で歪む天井が、さらに私を追い詰めてくるような気がして、どうしようもなく不安になった。
どうか、目が覚めた時に私から五条悟の記憶が全て消えていますように、と願うばかりだった。
そして、今日に至るわけなのだ。
私はなんのやる気も起きないまま、電源が切れたままのスマホの画面をぼんやりと見つめていた。どれぐらいソファで蹲っていただろうか。窓に広がっていた曇天はさらに色濃くなっており、ポツポツと雨が降り出そうとしていた。
「雨、かぁ」
そういえば、悟が好きと言ってくれたあの日も雨だった。雨音の中で聞こえる悟の「好き」が心地よかったのを覚えている。
十年間の恋、落ちても渡り切っても私が望む将来にたどり着くことはなかったのだと思うと、いっそのこと清々しい。
目を瞑って、不規則に聞こえてくる雨音に意識を委ねながら、早く忘れるための眠りにつこうとした時だった。ピンポン、と来訪者を知らせる電子音が部屋を満たした。私は居留守を使うために、聞こえないフリをする。今は、硝子であれ冥さんであれ放っておいて欲しかった。
ゆらゆらと、意識が現実と夢の境界線を彷徨っている時だった。
「あれ?寝てる?」
私が、その声を間違えるはずがなかった。急に現実に引き戻されていく。私が重たい目蓋を開けると、そこには目隠しを取った悟の顔があった。無表情で私を見つめる悟に、何か訴えたくても声が形にならなくて、私は息だけを吐き出した。悟の前髪が小さく揺れるのが見えた。
「電源、落ちてるよ」
「…落としてるの」
「へぇ。ちなみにどうしてって聞いてもいい?」
「…今の私は呪いだから」
悟の綺麗な目が、私の言葉の意味を探るように一点を見つめたままだった。私はまた気怠げに目蓋を閉じる。重たい身体は起こせそうになかった。悟の指が、私の頬にかかった髪の毛を取り払う度に小さな温度が伝わってくる。くすぐったいような、焦ったいような、切ないようなそんな温度がじんわりと浸食してくるような生温い感覚が襲ってくる。
「え、僕が来たのにまた寝るの?ひどくない?」
「帰って、お願い。今は何も話したくないの」
「僕は話があるから来たんだけど」
「ごめんなさい、私は話なんてない」
「ま、いいや。じゃあ寝ながらでいいから、僕の話聞いててね」
どこまでも自分勝手な人だな、と思いながら私は夢心地のまま、何ヶ月かぶりのリアルな悟の声を聞いた。
「結婚しよっか」
まるであの日を再現するような声色は、確かに私の鼓膜を震わした。その言葉は耳から脳へ心臓へ手へ足へ駆け巡るようだった。じわり、と目頭が熱くなる。震える唇を噛み締めた。ギュッと丸めた拳は爪が食い込んで痛かった。
「嘘つき、」
「嘘つきはお前だろ。僕のこと好きなくせに、別れるなんてバレバレな嘘ついて面白い?そういう馬鹿なところは相変わらずだなぁ」
「馬鹿は、悟の方よ。私、知ってる、浮気してくる事も、私のことどうでもいいこと、も。冗談はやめて、欲しい」
「浮気?浮気ってなんのこ、」
悟の言葉が途切れた。ほら、やっぱり。浮気、してたんだ。なのになんで、結婚しようなんて軽薄な嘘ついて騙そうとするの。もう、放っておいてくれたら私は浮気なんて知らなかったことにしてあげれるのに。馬鹿は悟の方だよ。
「ぶっ…はは、はははは!浮気、僕が、浮気ね!?」
悟の笑い声に、思わず目蓋を開いた。涙で滲んだ視界には、まるで他人事のように腹を抱えて笑う悟の姿が映る。
「どうして、笑うの?事実じゃない…。人のこと馬鹿にして、楽しいわけ?」
「ぶっは…っ!…あー笑った…っていうか、僕が浮気なんてするわけないでしょ」
「わ、私見たもん!一週間前、知らない女と歩いてた…腕まで組んで…悟だって嬉しそうにしてたじゃん…もう、やめて…嘘、つかないで…」
「んっふ、僕ってほんと信用ないね?一応彼氏なんだけど?っていうか、あれ君も知ってる人だよ」
「は?あんな人、知らない…」
「冥さんだよ、冥さん。ちょっと頼まれて変装した冥さんと仕事してたんだけど、そっかあれ見られてたわけね」
「…嘘、だって連絡だって、全然…昨日だって会えないって、もう私のこと嫌いになったんで…」
全ての言葉を言い終わらないうちに、悟の唇によって言葉は封じられた。唇の隙間から侵入してくる悟の薄い舌が、口内をかき回して上顎を舌先で突かれる。
「ふぁ…んっ…さと、る…や、」
「で?プロポーズの返事は?まぁ、イエスしか受付けないんだけど」
唇を離した悟がにやりと口角を上げる。まるで相当な自信があるようだったけれど、私はまだ納得がいっていなかった。手の甲で唇に纏わり付いた唾液を拭う。
「お断りします」
「えーなんで」
「そうやって絆されると思わないで」
「…あーわかった、オッケ。話すから」
悟ははぁ、とため息をついてその場に座り込んだ。ガシガシと頭を掻いて、意を決したように私と視線を合わせる。悟の六眼が宝石のようにキラキラと輝いている。私は大きく深呼吸をする。
「……まずは、これをどーぞ…」
「…指、輪…?」
「ハイ」
「……要らない」
「……それ、買ってどうやってプロポーズしようか考えてたら、お前の声を聞くのも恥ずかしくなって、メールの返事もなんて返していいのか分からなくなったんだよ…あーくそ、恥ずかし…」
「…は?」
大きな手の平で自身の顔を隠す悟は、いまだに小さな唸り声を上げている。私は悟の言葉を理解できずにただいつもは見ることの出来ない悟のつむじを見つめて、頭の中の情報処理を急いだ。まるで、女子高生のような理由を上げる男は果たして本当に五条悟なのだろうか。私の生み出した呪いの一種ではないのだろうか。
ぐるぐると巡る録でもない思考を遮るように悟が、大きな声を上げて、四角い箱に入った指輪を目の前に突き出してきた。
「だから結婚しよーぜ」
「…え、えっと」
「返事、早くしろって」
いつの間にか学生時代の口調に戻った悟が、まるで答えを急かすような視線を送ってくる。ぐい、と突きつけられたダイヤモンド付きの指輪をそっと私は手に取った。満足げに笑う悟の顔が指輪越しに見えた。
「……バカじゃん」
「うるせーよ」
「…浮気したら殺す」
「あーハイハイ、お前らしくてそっちのがいいね」
そう言って、悟はいまだに目蓋に溢れる涙を親指の腹で拭いとった。私はゆっくりと起き上がって、少し悟に甘えるように頭を擦り寄せる。悟の大きな手が私の頬を撫でる度に、昨日の夜から私の心に巣食っていたドロドロとした感情が消えていくような気がした。
悟によって私の特級レベルのの呪いは祓われたようだった。
窓を見れば、空を覆っていた曇天はなくなっていて、いつの間にか陽が差し込んでいた。どうやら、空も泣き止んだようだった。