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朱莉は医療用高カロリー茶わん蒸しを一口食べると、担当者に向かって、何度も頷いて見せた。
「美味しい!です!」
気の弱そうな小柄な担当者は「良かったです」と言いながら微笑んだ。
「出汁に拘ってまして、塩分はほとんど入っていないんですよ」
「わかります。しっかり鰹の味がついているのに、しょっぱくなくて」
言うと、担当者は胸の前で小さく拍手をした。
「そう、鰹出汁なんです。よくわかりましたね」
「わかりますよ、このくらい香り高かったら」
朱莉はパッケージを見つめた。
「でも、こんなに美味しいんだから、カロリー補助食品と思われるの、なんか勿体ないですね」
「え、そうですか?」
担当者が覗き込む。
「例えば拒食症の人とか、こういう高カロリー食に抵抗があったりするんですよ。だから、パッケージをちょっと変えて…。
そうですね、小料理屋のお洒落な器?みたいなデザインに変えれば、減塩食にうんざりしている高齢者でも、カロリー摂取に抵抗のある拒食症の人でも、喜んで食べられる気がするんです」
「なるほど」
言いながら男は丁寧にメモを取っている。
「あとは細かいことなんですけど、おそらく鰹に入っているのかな、と思いますが、ものすごく細かい砂のようなものが」
「あ、本当ですか」
「私なんかはすごくそういう舌ざわりが好きなんですけど、嚥下機能の弱っている高齢者だと、むせてしまうかもしれません」
「なるほど。気をつけます」
メモを取る男の向こう側に吉野が立っている。
ふとこちらに気づいて笑顔になる。
彼に笑顔を返しながら、パックに残った茶碗蒸しを一気に口にかきこんだ。
「いやあ、医療機器が一日目で、介護食が二日目で本当によかったよ」
高速に入ったところで吉野が笑った。
「一日目のテンションのまま、介護食の試食してたら、担当者に毒を入れられかねなかったもん」
「んな大袈裟な―」
笑いながら、夕闇に染まっていく東京の街並みを見つめる。
今度来るときは、朱莉は幾つになっているだろうか。
「俺、いつものこぐっちゃんも好きだけど、今日はひと際、いい女に見えたぜ」
言いながら両手でハンドルを握っている。
教習所か!と突っ込みたくなるほど姿勢よく運転するその姿に気づかなったふりをして、朱莉はシートに身を沈めた。
「それは、一度抱いたから、情が移っただけでしょー」
なんでもない声を出して笑う。
しかしそれに対しての同調も反論も、いつまで経っても聞こえてこない。
恐る恐る見ると、吉野が、道路と朱莉の顔をちらちらと交互に見ていた。
「こぐっちゃん。俺、昨日は本当にごめん」
「え?」
「俺、間違った」
(―――間違い?)
思わず肩から力が抜けて、服の中のブラ紐が片方ずり落ちた。
そっちの方向から来るとは思わなかった。
何もなかったように誤魔化すか、酒の勢いと笑い飛ばすか、大人の関係として割り切るか、その三つのうちどれかだと思った。
“間違い”と認めて“謝罪”してくるとは。
(それって、一番ひどくない?)
朱莉はプッと噴き出した。
「君はきっと課長にはなれないね」
あと一歩のところで人の心がわかっていない吉野に向けた嫌味だったが、彼は別の意味にとったらしい。
わざわざインターチェンジに車を停めると、朱莉の腕を掴んだ。
「何?」
その力にビビりながら見上げると、
「この際、はっきりさせていい?」
「はい~?」
「課長のこと、好きなの?」
斜め上からくる質問に言葉を失う。
「課長って…柳原課長のこと?」
「他に誰かいる?」
「いや、いるでしょ。総務課長も、経理課長も」
「誤魔化さないで」
「えっ?!誤魔化しました?ワタクシがっ!?」
言うと、吉野はため息をつき、掴んでいた上を離した。
「間違えた。本当に」
「それは聞いたっつうの」
「順番」
「———順番?」
吉野が顔を上げる。その顔が夕闇にぼんやりと浮かび上がる。
「俺、こぐっちゃんのこと、好き。ずっと好きだった。付き合ってほしい」
(――何言ってんの?こいつ)
ぽかんと口を開けたまま、朱莉は同期の顔を見つめた。
二重だけどつり上がった目、高いけど、少し上を向いた鼻。
濃い眉毛、エラがはった輪郭。
(見れば見るほど、好みじゃないんだけど)
ふっと笑う。
「このインターチェンジ、チーズケーキが有名なんだよ」
「ねえ。一世一代の告白、シカトしないでくれる?」
「チーズケーキ買ってきたら、考えてあげる」
言うと、吉野は口の端を上げて笑いながら、後部座席からバックを引き寄せた。
と、勢いで朱莉のバックが倒れる。
「あ」
「え?」
そこから今回は出番のなかった朱莉持参のコンドームがこぼれ落ちる。
二人はリアシートに転がったソレを見て、顔を見合わせて笑った。
【③ ビビる女 ~朱莉の場合~ 完】