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藤倉愛(30) LEAVE 寒河江俊之(37)
「藤倉さん」
人事部からやってきて、隣の総務課長の机を借りながら何やら書類整理をしていた常務が、こちらを見上げた。
「今年で30になったんだな?」
眼鏡の上の隙間から充血した目を覗かせてくる。
「そうですよ」
藤倉愛(ふじくらあい)はそう言って微笑む。今月に入ってこういわれるのは3回目だ。もう慣れてきた。
「常務、セクハラです」
向かい側に座っていた総務主任の門脇がディスプレイから視線を離さずに言い放った。
「あ、ごめんごめん、そんな気は……」
人の好い常務は「ごめんね」といって立ち上がりながら肩を叩いてきた。
「触るのも、セクハラです」
すかさず門脇が注意する。
「ごめんごめん」
もう一度常務は言うと、そそくさとその場を立ち去った。
「あの、奈緒子さん、すみません。ありがとうございました」
おそるおそる言うと、門脇はディスプレイから顔を上げた。
「冷蔵庫」
「へ?」
「冷蔵庫にマンゴープリン入ってるから、1つあげる」
「————」
あまりの驚きに言葉が出ない。
「マンゴー嫌い?」
「あ、いえ、好きですけど…」
「弐式屋のだから、美味しいよ」
口元に微笑を讃えた彼女は、また仕事の渦の中へと飛び込んでいった。キーボードを叩く手が早い。
「ありがとうございます…!」
立ち上がり、給湯室へ向かう。
冷蔵庫を開けると、確かに弐式屋の袋が入っていた。
その中のオレンジ色のプリンを一つ手に取る。重い。
1個いくらするんだろう。
給湯室から事務所を覗く。
あの“氷の女王”と裏で名高い門脇から、“結構いいお菓子”を貰ってしまった。
そういえばなんか最近、物腰も柔らかくなり、なにより綺麗になった気がする。
(もしかして、恋でもしてるのかな)
「いいなあ…」
思わず呟きが漏れる。
離婚歴はあるが、仕事もできるし、美人だし、気配りもできるし、それに物腰の柔らかさが付いたなら、無敵じゃないか。
与えられた仕事を、与えられた時間内で終わらせる。
それくらいしか能のない愛とは違う。
引き出しから共用のスプーンを取り出し、その場で食べ始める。
「……うまっ」
濃厚で、それでいてマンゴー特有の嫌味がない。
と、給湯室の窓から、会社の前に一台の車が停まるのが見えた。
TOYODA自動車の試乗車。
「ーーー来たよ」
そのピカピカの青いフォルムを睨むように、もう一口、マンゴープリンを口に入れる。
中から、最近少し腹につき始めた肉を、上等なスーツとベルトで隠した男が颯爽と出てくる。
日に焼けている。シルバーウィークは確か家族でグアムだと言っていた。
寒河江俊之(さがえとしゆき)。37歳。
TOYODA自動車の営業課長。
愛はこの男とセックスをしている。
「あ、寒河江くん。ありがとう」
爽やかな笑顔で現れた彼に、総務課長が社用車のキーを渡す。
「夕方まで使わないっていうから、今日中に戻して」
「かしこまりました」
これまた100点満点の笑顔で彼は応える。
「それにしても、焼けたわねー」
課長が眩しそうに自分の息子と同じくらいの若い肌を見上げる。
「ハワイ?」
「いえ、セブ島です」
(あれ。私にはグアムって言ってたのに)
ほんの小さな嘘だが、自分には本当のことを隠した男に心の中で舌打ちをする。
(別に追いかけて行ったりしないのに。自信過剰な男)
「あ、藤倉さん」
こちらの殺気を感じたわけではないだろうが、総務課長が振り返った。
「冷蔵庫に栄養ドリンクあったでしょ。試供品のやつ。あれ、寒河江さんにあげて」
「はい」
席に戻りかけた愛は、給湯室に回れ右して、冷蔵庫からそれを取ると、来客用玄関にいる男に向かう。
「どうぞ」
言いながら渡すと、ハンカチで額の汗を拭きながら寒河江が微笑む。
「ありがとう、愛ちゃん」
「ほらー」
総務課長が楽しそうに二人を見比べる。
「寒河江さん、藤倉さんだけ“ちゃん”づけでー」
「えー、だってかわいいんすもん」
しれっという寒河江に、事務所にいたメンバーが笑う。
こういうやり取りは、寒河江が来るたびに何十回と繰り返されてきた。
セックスする前も。
セックスするようになってからも。
何も変わらない。
「セブ島、羨ましいです」
その言葉に嫌味を含ませて微笑む。周りから見てなんらおかしくない笑顔で。
「日本語通じない沖縄って感じでした」
寒河江も微笑みながら答える。
きっとこの男の中で、愛についた“嘘”のことなんて、とっくに忘れている。
寒河江は、愛たちが務める医療用品会社の社用車を担当するディーラーの営業マンだ。
20台の軽バンと、5台のキャラバンを担当していて、そのメンテナンスやら車検やらでこうしてしょっちゅう顔を出す。
誰にでも気さくな寒河江と打ち解けるのに時間はかからなかった。
しかし愛には彼氏がいたし、寒河江も一人息子への溺愛ぶりを隠すことなく、スマートフォンでその成長をよく見せてきたため、2人の間に何か起こりえるはずはなかった。
あの日、雨の居酒屋での出会いがなかったら――――。