* * *
――――フェリシアをエルバートとの婚約の意を含めた“正式な花嫁候補”とする。
医務室にいるフェリシアの心にルークス皇帝のお言葉が響く。
まるで呼びかけられているよう。
頭に包帯を巻いたまま、ベットから上半身を起き上がらせ、その身をディアムに支えられながらも、
その声に触れるように、そっと自分の胸に両手を重ねる。
するとなぜだか分からないけれど、自然と涙が溢れ出た。
フェリシアはそのまま、ルークス皇帝のお言葉を聞き届けた。
* * *
客間でルークス皇帝のお言葉を聞き届けたエルバートは唖然と立ち尽くす。
まさか、軍師長の座だけでなく、フェリシアをも守って頂けるとは。
エルバートの父と母、そしてアマリリス嬢は絶句し、
光がすぅっと消えると、ルークス皇帝の側近は手紙を懐に入れ、口を開く。
「ルークス皇帝のお言葉は以上となります」
「ならば、帰る」
エルバートの父がそう言い、ソファーから立ち上がる。
それを見た母とアマリリス嬢も続けて無言で立ち上がった。
「では、私が宮殿の出入り口までお送り致します」
ルークス皇帝の側近がそう言って扉を開け、エルバートの父と母はエルバートがこの場に存在していないかのような態度で客間から出ていき、
アマリリス嬢もふたりに続いて出て行こうとする。
しかし、立ち止まり、エルバートを見つめた。
「エルバート様、お幸せに」
アマリリス嬢は涙を浮かべながら笑顔を見せ、お辞儀をして客間から出て行く。
これで、フェリシアはブラン公爵邸から出て行かずとも済むのだな。
「ルークス皇帝、恩に切る」
エルバートはそう感謝し、顔を右手で覆う。
そのまま少し時が過ぎると、フェリシアがいる医務室へと向かった。
* * *
フェリシアはディアムに心配されながらも医務室のベットで起き上がったままでいた。
すると医務室の扉が開かれる音が聞こえ、ハッと扉の方を見ると、必死なエルバートの姿が両目に映った。
「フェリシア!」
エルバートが自分の名を呼び、
くくった長髪が揺れ、足音が近づき――、エルバートはフェリシアを抱き締める。
「フェリシア、お前は正真正銘、私の正式な花嫁候補だ」
――ああ、ルークス皇帝のお言葉を聞いて涙が溢れたのも、
今、涙が止まらないのも、きっと、記憶を失くす前の自分が、
(エルバートの正式な花嫁候補になることを心の奥底で望んでいたからなのだわ)
「エル、バート、さま」
フェリシアは名前を呼ぶと、頭痛が起き、限界が訪れ、エルバートに包まれたまま意識を失った。
* * *
それからこの日を境にフェリシアは落ち着くまでブラン公爵邸に帰宅させることは出来ないと、祓いの力を持つ医務室の天才医師に診断され、しばらくの間、医務室で治療を受けることとなった。
その為、エルバートとディアムも宮殿で寝泊まりすることになり、
エルバートからリリーシャ達にその皆を伝えるように命じられたディアムは一旦馬で帰り、
自分のせいで、ふたりに多大な迷惑を掛けることになった。
早く思い出さなければ。
そう思ったフェリシアは医務室に戻って来たディアムに密かに頼み、エルバートが執務で忙しい時に、アベル、カイ、シルヴィオに医務室まで来てもらい、エルバートのことを聞いた。
「軍師長の様子なら、執務に集中出来ていない感じですね。着替えもせず、髪もくくったまま、フェリシア様のことばっか考えてますね」
「カイ、そんなふうに言ったらフェリシア様が気にするだろう?」
「フェリシア様、申し訳ない。でもまあ、フェリシア様が初めてだな、エルバートに色々な顔をさせるのは」
アベルに続いて、シルヴィオも口を開く。
「冷酷な鬼神だったのに今は惚気ているな」
「誰が冷酷な鬼神だ」
エルバートがそう言って医務室に入ってくる。
「おかしいと思って来てみれば、さっさと出て行け!」
エルバートに命じられ、アベル達はフェリシアに会釈をして医務室から出ていった。
その後は毎日少しずつディアムからエルバートのことを聞いた。
エルバートがフェリシアの家にご婚約の手紙を届けたことからブラン公爵邸で暮らすことになったこと、
普段は月のように美しい銀の長髪を流したままなこと、
ビーフシチューがお好きなこと、
ご主人さまと呼んでいたこと等、これまでの日々のことを。
けれど、思い出すことが出来ず、
エルバートのことを朝も昼も夜もずっと考え続け、
いつしか、8日目の夜になっていた。
宮殿のお料理は病人食とは言え、どれも自分には高級で美味しい。
けれど早く帰り、自分でお料理を作りたい。
そう思っていた矢先、
夏の猛暑と公務の忙しさによって疲労が溜まり、ルークス皇帝が少し気分を害されたとのことで、寝室までご様子を見に行く、何かあれば見張りを呼べと医師が慌てて医務室から出て行った。
(ルークス皇帝、大丈夫かしら……)
ふと、フェリシアは自分の左腕を見る。
(あれ? ブレスレットがないわ)
きっと寝ている時に落としたのだとフェリシアは見張りに声を掛けようと扉の方を見る。
だめ、やはり、このようなことで 手を煩わせる訳にはいかない。
一人で出て歩いて行ける程の体力はまだなくとも、ベットから下りて少しの間探すくらいなら、
(大丈夫よね?)
フェリシアはベットから下りる。
すると足元がふらつき、あっ、と床に倒れる。
それでも起き上がり、ブレスレットを探し、窓近くの棚の上に飾られている華やかな花が目に入った。
(綺麗なお花……)
そう思い下を見ると、きらん、と光るものを見つけた。
「あった……」
フェリシアは床に落ちていたブレスレットを拾う。
ほんとうにこのブレスレット、
(エルバートさまの髪の色と同じ美しい銀色だわ)
そう思った直後、フェリシアは頭痛に襲われ、ブレスレットを持ったまま、床に倒れ込む。
意識が朦朧とする中、思う。
これを付けて、
もう一度、あの咲く花を見れたなら、と。
* * *
エルバートは執務室の椅子に座りながら、ハッとする。
なんだ? このただならぬ気配は。医務室か?
エルバートは執務室から飛び出し、ディアムと共に医務室へと駆け付ける。
「何があった?」
エルバートは見張りの兵に問う。
「エルバート様! 医師が寝室までルークス皇帝のご様子を見に出られ、見張りを続けていたところ、医務室内で邪気が発生し、扉が開かず、只今、入室出来ない状況でございます!」
「そうか、退いていろ」
エルバートは扉に右手を当て、祓いの力を使い、くくった長髪が靡くと、扉を勢いよく開ける。
すると床に倒れるフェリシアの姿が両目に映った。
「フェリシア!!」
エルバートは叫ぶと同時に駆けていき、フェリシアを抱き起こす。
魔はいないようだが、魔に弾き飛ばされ触れた箇所から邪気が溢れ、体全体を邪気のようなものに包まれているようだ。
エルバートはフェリシアを抱き起こしたまま祓いの力を使う。
するとフェリシアの頭痛は治まり、楽になったようだった。
(……? 何かを持っている?)
エルバートは両目を見開く。
「これは私が帝都で渡したブレスレット……」
恐らく、中庭の時にネックレスを失くしたのと同じくブレスレットを失くし、探す為にベットから一人で下りたのだろう。
エルバートは切なげな顔をする。
「もう私のことを思い出そうと頑張らなくていい」
エルバートはフェリシアの左腕にブレスレットを付けて持ち上げ、ベットまで運び、寝かす。
それから椅子に座るとフェリシアが、か弱き声で発した。
「…………花が、見たい」
その言葉で、エルバートは希望を感じた。
(もしかしたら、私の記憶はフェリシアの心の奥底に残っているのかもしれない)
そして、もう一度、あの咲く花を彼女と共に見れたなら。
「――あぁ、見よう」
エルバートはフェリシアの左手を握り、彼女の額に自分の額を優しく当てる。
「フェリシア、もう大丈夫だ。今日は共に眠ろう」
* * *
そうして、翌日からフェリシアは安静を続け、ルークス皇帝のご体調も回復し、2週間後。
帰宅することを医師に許され、爽やかな初秋の空が広がる中、馬車に乗り、
馬に乗るエルバートとディアムと共にブラン公爵邸に帰って来た。
するとリリーシャが自分の名を呼び、抱き締められ、一緒に涙を流し、
ラズールとクォーツも、おかえりなさいませ、と歓迎してくれた。
ディアムから晩夏に出ていく身であることは聞いていた。
だからルークス皇帝のお言葉がなければ、すでに一人で出て行っていたことだろう。
リリーシャ達が待つ温かなブラン公爵邸に帰って来ることが出来て、ほんとうに良かった。
けれど、エルバートは自分の事が心配のようで、翌日からエルバートは勤務に向かうも、早く帰って来て、それが10日程続いた。
お気持ちは有り難い。でも、自分には重荷で、このままではいけない。
そう思ったフェリシアは意を決して翌日を迎える前に廊下でエルバートに本心を打ち明ける。
「エルバートさま、わたしはもう大丈夫ですので、明日からは早く帰って来なくて大丈夫です」
「――そうか、ならばそうする」
エルバートはどこか悲しげな表情で言い、寝室に向かう。
フェリシアはきゅっと胸の痛みを感じつつも、その背中をただただ見つめた。
* * *
こうして、翌日からエルバートが早く帰ることはなく、
ブラン公爵邸に帰って来てから気づけば、一ヵ月になり、
その日の夜は何故か眠れず、フェリシアは居間のソファーに一人で座ったまま、ふぅ、と息を吐く。
すると、エルバートに自分の名を呼ばれ、ハッとする。
いつの間に居間に入って来たのだろう?
足音さえ、気付かなかった。
(大丈夫だと言ったくせに、こんな姿を見せては元も子もないわ)
「あ、どうなされたのですか? もしかして眠れませんか?」
「いや、私は家の見回りをしていただけだ」
(家の見回り……魔が入ってわたしが襲われないように?)
勤務でお疲れなのに、そこまで気を遣わせていただなんて。
「あの、今、お飲み物を……」
「必要ない。それより、支度をしろ。今から出掛ける」
出掛けるって、こんな夜遅くに?
(もしかして、自分に嫌気がさして、捨てられ……いいえ、きっと大丈夫)
「かしこまりました」
そう了承し、支度が完了すると、ディアムが御者を務める馬車に乗り、
お互いに無言のまましばらくの時が流れ、辿り着いたのは、広がる海に白く美しき花が咲き誇る場所だった。
(エルバートさまにお姫様抱っこされ来たけれど、とても綺麗な場所…………)
もしかしたら、ここはディアムから聞いていた……。
「お前を特別な場所へ連れて来たのは2度目だな」
「1度目はお前と帝都の街に行った帰りにここへ連れて来た」
(あぁ、やはり、記憶を失くす前のわたしと来た特別な場所だったのね…………)
「そう、なのですね」
「――だが、この木の前に連れて来たのは初めてだ」
エルバートはそう言い、たくさんの蕾を付けた大きな一本の木の前でフェリシアを下ろす。
(エルバートさまは、記憶を失くす前のわたしも、今のわたしさえも大事にして下さっている)
「もうじき、深夜だな。見ていろ」
フェリシアはエルバートと共に大きな木を見つめる。
すると深夜になった瞬間、大きな木が満月の温かな光に照らされ、蕾が徐々に開いていき――、美しき黄色の花が満開に咲いた。
その瞬間、邪気のようなものがすうっと体内から消えた感覚に陥る。
「満月の深夜だけこうやって満開に咲くんだ。綺麗だろう?」
「――はい、綺麗です、とても」
「ご主人さま」
エルバートは驚いた表情でフェリシアを見る。
「フェリシア、思い出したのか?」
花びらが舞い、フェリシアは大粒の涙を零しながら、笑う。
「はい、ご主人さま」
そう答えた直後、エルバートは感涙の表情を浮かべ、フェリシアを引き寄せる。
美しき銀の長髪、そして軍服の上から半分肩にかけて紐で結ぶマントの裾が上がり、
フェリシアは頭部の髪に触れられながら、強く抱き締められ、温かな温もりと幸せを感じた。
コメント
1件