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──吉原、玉水屋。
水浅葱(みずあさぎ)の衣を纏い、
顔を白粉(おしろい)で染め、
青き瞳を艶やかに引き立てるため、ほんのり紅を差したころん。
見世に出されてから三年、
とうとう、「初見世」の夜がやって来た。
楼主の手によって、ころんの名は高らかにうたわれた。
──水鴉ころん太夫。
若くしてこの座につく、類い稀なる美貌と才気。
青き瞳に、夜の闇を湛えし、稀代の少年花魁。
吉原中の噂となり、
見世の前には、男たちが行列を成した。
けれども、
座敷に上がり、膳を囲むころんの胸の内は、
恐れと、冷たく乾いた空洞で、埋め尽くされていた。
──どんな顔をすれば、よいのだろう。
──どんな声で、笑えばいいのだろう。
教えられた通り、しとやかに、なまめかしく振る舞った。
笑みも、手の動きも、すべて演技だった。
心を動かせば、負けだ。
そう教わった。
お方「へぇ、これが、水鴉のころん太夫かい」
男たちの笑い声。
脂ぎった視線。
ころんは、ただ杯を傾け、
女房詞で、やんわりと受け流す。
ころん「ようお越しなされましたなぁ……
おこしやす、お方さま」
言葉は柔らかいが、心はどこか遠い場所にあった。
──それでも、客は、ころんの美しさに目を奪われ、
そっと触れようとする。
そのとき、ころんの瞳に、ふっと翳(かげ)りが走った。
ほんの一瞬。
けれど、その青き瞳の奥に、
月夜に手を伸ばした幼いころんが、まだ確かに、生きていた。
ころん「……お手、汚れますえ」
にっこりと、しかし冷たく笑う。
それ以上、客は無理強いできなかった。
──初見世の夜。
床入りの段になっても、ころんは、すべてを委ねることを拒んだ。
巧みに酒を勧め、言葉を濁し、
あくまで花魁として、客をもてなすだけに留めた。
そう、花魁は、すぐには肌を許さぬもの。
それが、ころんの──いや、吉原のやり方だった。
座敷に一人残った夜、
ころんは、薄くなった香の煙を見つめていた。
──これから先、何百、何千の夜を、こうして過ごすのか。
知らず、手が胸元を掴んでいた。
痛みを、消そうとして。
それでも。
ころんは、静かに立ち上がる。
水浅葱の衣を直し、
背筋をすっと伸ばし、
再び、仮面のような微笑みを浮かべた。
──わっちは、”水鴉”。
誰にも捕らわれぬ鳥。
たとえ、涙を捨てようとも。
そう心に刻みながら、
ころんはまた、夜の吉原へと身を溶かしていった。
ころんは、今日もまた座敷に出ていた。
水浅葱の衣に、夜の色を宿した青き瞳。
うるわしき花魁、水鴉ころん。
──誰であろうと、わっちの心までは触れられぬ。
そう、何百回も胸に言い聞かせてきた。
そんな、ある夜だった。
女中「今宵は、新しきお方さまがお越しあそばし
たえ」
そう告げた。
いつものこと、と、ころんは心を動かさなかった。
だが──
襖がすっと開かれ、そこに立っていた男を見た瞬間、
ころんの胸が、
わずかに、ふるり、と震えた。
さとみ。
──若く、凛とした立ち姿。
けれど、その瞳の奥には、どこか哀しみを湛えた光があった。
普通の客とは、どこか違う。
飾り立てた欲望の匂いも、
偽りの笑いも、
そこにはなかった。
さとみ「……これが、水鴉ころん……」
低く、どこか寂しげな声が、ころんの耳朶を打つ。
ころんは、慣れた仕草で膝を揃え、
小さな微笑みを浮かべる。
ころん「ようお越しなされましたなぁ……
お見知りおかれとうございます、水鴉
(みずがらす)ころんにございますえ。」
女房詞を使い、やんわりと挨拶する。
けれど、心の内では、
初めて出会う未知なる感情に、戸惑いを隠せなかった。
さとみは、ころんを値踏みするような視線を向けなかった。
ただ、静かに、じっと見つめていた。
──まるで、自分の奥底を、見透かしてくるように。
ころん「……寒うおへんか?
こちら、お座布団をお敷きしましょう
か」
ころんは、女房詞で優しく勧める。
それは、もてなしというより、自然に出た言葉だった。
さとみは、小さく微笑んだ。
さとみ「おまえさんが居てくれりゃ、寒さなんざ
感じやしないよ。」
その飾らぬ言葉に、ころんは一瞬、
胸の奥にあたたかなものが灯るのを感じた。
──あぁ、
わっちは、こんなにも長く、
誰かに、ただ人として扱われることを、
望んでいたのかもしれぬ……。
杯を交わし、幾ばくかの時を過ごすうちに、
ころんの頬はほんのりと朱に染まり始めた。
それは、酒のせいだけではない。
知らず、ころんは、
いつもの「作り笑い」ではない、
ほんの小さな、けれど確かな微笑みを、さとみに向けていた。
──気づかぬふりをした。
この感情に、名前をつけるには、まだ早すぎたから。
けれど、水浅葱の袖の内、
ころんの指先は、
そっと、そっと、震えていた。
──初めて、心から惹かれる、
そんなさとみとの出会いの夜だった。
第三章 完
第四章 「水鴉」へと続く