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打ち上げられた最後の大輪が夜空に散ってから、しばらく誰も言葉を発さなかった。
夜神月は静かに顔を上げていた。肩の隣、Lは座り込むような姿勢のまま、まだ余韻に浸っているらしい。ミサは何枚も写真を撮っていた携帯を粧裕と共有し、「きれいだったねぇ」と呟いた。
メロとマットは後ろでくじ引きの景品を漁って話し込んでいた。ニアはLの背中にくっつくように座り、小さなヨーヨーを指先でくるくると回している。
Bはといえば、花火の最中も一人黙って見上げていたが、今はぽつんと立ち尽くし、花火が去った空を見ている。その顔に浮かぶ表情は読み取れない。
──日常が戻る。
そんな空気を誰もが感じながら、それぞれ立ち上がり、屋台の方へと戻り始めた。
「迷子になるなよ。特にニア」
メロの言葉に、ニアは淡々と「歩くのが早いんですよ、メロは」と返す。マットが笑った。
「粧裕ちゃん見て!たこやき!」
ミサが明るく叫ぶと、「ミサさん、さっき焼きそば食べてたよね」と苦笑いしつつ、ミサの手を引いて人波へと歩き出す。
Lは遅れてその後を追い、少し距離を保ちながら、マシュマロのような綿菓子をひとくち。
Bは相変わらず最後まで一言も喋らず、けれど人波の中で一人だけ不思議と迷子にならず、まるで“彼なりの道”を辿るように進んでいく。
──そして、夜神月は最後尾にいた。
みんなの背中を見送りながら、ひとり静かに歩く。
笑い声も、提灯の灯りも、風鈴の音も、耳には届いているはずなのに、不思議と少し遠く感じた。
それはきっと、自分の心が今だけは、少し過去へと旅をしているからだ。
(……終わっちゃうんだな)
楽しかった。この時間が、誰よりも、何よりも愛おしかった。
粧裕の無邪気な笑顔も、ミサの突拍子のないテンションも、メロの喧嘩腰なツッコミも、ニアの無感動な小言も。マットの空気読まないマイペースぶりも、Bの変な行動も──
そして、隣にいたはずのLの沈黙も。
キラだった頃の僕には絶対に──手に入れられなかった。
あの頃、望んでいたのは“新世界”で、そのために命を数え、裁きを下した。
でも、今は。
今だけは。
“たった一夜の花火”に、永遠を願いたくなる。
……もし僕がキラだったら、ここにはいないんだ。
ミサの手も、粧裕の笑顔も、Lの横顔も、全部、違う世界のままだった。
未来のことを考えると、少し怖くなった。
このまま何もなければ──という願いは、どこかで「あり得ない」と分かっている。
でも、せめて。
せめてこの夏だけは、記憶のどこかで、永遠であってほしいと願った。
──その時だった。
視界の端を、何かが揺れた。
リンゴ飴だ。
赤い艶を光に照らされながら、宙に浮いてくるくると回っていた。
屋台の店主が落としたわけではない。
誰かが差し出したわけでもない。
宙に浮いている。
誰の手にも触れず、まるで見えない糸に吊られたように、風もないのに、ゆっくりと──月の視線の先へと滑っていく。
「えっ……」
思わず声が漏れた。
飴はぐるりと円を描くように宙を舞い、そして、ふいと屋台の外れの方へ向かって消えていく。
人混みのざわめきも、太鼓の音も、もう耳に入らなかった。
月は、導かれるように追いかけていた。
気づけば足が自然と前へ出ていた。
「待て」と言うように手を伸ばしていた。
──それが何かも分からないのに。
けれど、それが“終わったはずの何か”と繋がっているような、そんな予感があった。
屋台の明かりが遠ざかる。
人々の笑い声が背後に消えていく。
代わりに、じわりと夜の気配が濃くなる。
(なんだ……この感じ……)
喧騒が薄れていくと同時に、月は自分の呼吸音をはっきりと感じるようになった。
リンゴ飴は、まだ先を飛んでいた。
細い脇道を抜けて、小さな神社の裏手のような、木陰へと入り込んでいく。
──光の届かない、月の明かりすら差し込まない場所。
そこに、赤がふわりと浮いて、止まった。
そこの影に紛れるように、地面にはぽつんと一冊の黒いノートが置かれている。
白く、はっきりと刻まれた文字。
DEATHNOTE
「……っ」
月の瞳が、細かく震えた。
息を呑む。
鼓動が、明確に早まる。
──まさか、と思う。
──でも、これは。
そのノートへ、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、あと数センチで触れる──
✺✺✺
──あれ、なんか変。
そう思ったのは、一瞬だった。
喧騒の中に紛れていたはずの兄の気配が、急に、するりと空気から抜け落ちたような感覚。
後ろを歩いていたはずなのに、振り返れば月が皆とは別の方向へ歩き出している。
「……お兄ちゃん?」
粧裕は足を止めた。
周囲の笑い声や、屋台の呼び込みの声が、急に遠く感じられる。
誰も気に留めていない。
ミサも、Lも、Bも、メロもニアもマットも──誰ひとり。
だけど、粧裕には分かった。
「ミサさん、ちょっとだけ、ここで待っててくれる?」
ふいに手を離した粧裕の言葉に、ミサは少し驚いたようだったが、「う、うん」と頷いてくれた。
「っ、夜神くんは?」
Lが気づいた時に粧裕は、迷わずその背中を追った。
なぜかは分からない。けれど、あの背中には“呼ばれるような”違和感があった。
ただの歩き方じゃない。まるで夢の中を歩いているような、靴の音すら聞こえないような──そんな不自然さ。
(変……。やっぱり変だよ……)
人混みが徐々に薄れていく。
やがて、屋台の灯が遠のき、足元が少しずつ暗くなる。
石畳の隙間に草が生えていて、湿った木の匂いがした。
粧裕は息を殺して、そっと角を曲がる。
その時だった。
風の音と一緒に、かすかに聞こえた。
──シャラ……ン……。
涼しげな鈴の音。
けれど、心の奥がざわついた。
不自然だ。誰かが吊った風鈴ではない。風の流れもない。
なのに、確かに何かが鳴った。
(……お兄ちゃん)
呼びかけようとして──声を飲んだ。
目の前の木陰、兄の背中があった。
そして、その足元に──“何か”が置かれているのが見えた。
叫ぶよりも早く、粧裕は走り出していた。
「──お兄ちゃんっ!」
振り返る暇も与えず、粧裕は兄の手首をぎゅっと掴んだ。
その瞬間、指先が触れそうだったノートに、月の手がぴたりと止まる。
「粧裕!?」
驚いたように月が振り返る。
その瞳には、ほんの一瞬、何かに取り憑かれたような影があった。
けれど、粧裕の声が、その影を吹き飛ばした。
「お兄ちゃん……!なんで……なんでどっか行っちゃうの……!」
涙が滲む。喉が詰まる。
言葉にしようとしても、うまく出てこない。
さっきまで笑っていた。一緒に歩いた。花火も見た。
──なのに、どうして今だけこんなに遠いの。
「粧裕のこと置いてかないって言ったじゃん!」
その声は、しがみつくように震えていた。
粧裕は月の手を両手で包み込み、ぎゅっと握る。
今ここで繋ぎ直さなきゃ、二度と届かない気がして。
「勝手に……いつも一人でどっか行って……!お兄ちゃんの悪い癖だよ、そうやって──何も言わないの……!」
嗚咽が混じる。
声を抑えても、目からあふれる涙は止まらない。
「……っ」
月は目を逸らせなかった。
目の前にいるのは、ただの妹じゃない。
──今の自分を、現実に引き戻してくれる、たったひとりの存在だった。
「……ごめん」
小さく絞り出したその言葉が、ようやく月の胸の奥から落ちてきた。
「ほんと、ごめん……粧裕」
その声は、迷いと後悔の間で揺れていた。
だけど、粧裕の小さな手は、確かに彼の手を掴んでいた。
その声は、迷いと後悔の間で揺れていた。
けれど、粧裕の小さな手は、確かに彼の手を掴んでいた。
泣きながら、それでもまっすぐに月を見上げて、彼女は言った──
「一緒に帰ろう……お兄ちゃん」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、それがどれほど強い“願い”であり、“救い”であるかを、月は痛いほど知っていた。
「……ああ、帰ろう」
月は、かすかに笑った。
そして、粧裕の手を離さぬまま、足元にあったはずの“黒いノート”には目もくれず、共に皆の元へと戻った。
──その手は帰るまで……離さずに。
「──拾わなかったか。惜しいなァ……」
木の上からぶら下がるようにして、リンゴ飴を逆さにかじる死神は、にやにやと笑いながら、赤く濡れた舌を、飴の表面に這わせた。
「……くっくっくっくっ」
月の背中を見送りながら、リュークの瞳が、興味深そうに細められた。
「あともう少しだな、月──」
「粧裕、今、何か聞こえた?」
「え?気のせいだよ」
「そっか……気のせいか──」
✺✺✺
屋台の明かりが見え始めた頃には、祭りもそろそろ終わりに近づいていた。
月と粧裕が手を繋いで戻ってくると、ミサがぱっと顔を明るくした。
「いたーっ!もう、どこ行ってたの!月!」
粧裕が「ごめんね、ちょっとだけ道間違えちゃって」と笑ってごまかすように言うと、ミサはふくれながらも許してくれた。マットとメロは焼きトウモロコシを半分ずつかじっており、ニアとBはたまごっちで遊んでいる。
だが、その輪の中で──一人だけ、違う空気を持った男がいた。
Lだった。
ゆっくりと、月に近づいてくる。
「夜神くん。どこに行っていたんですか」
それは、まるで他愛ない質問のように聞こえた。
けれど、その声にはわずかな重みがあった。
それは“探偵”の声だった。
「……少し、迷ってただけだ」
月は表情を崩さず答えた。
しかしLの瞳はその顔の裏まで覗こうとするように、じっと月を見つめていた。
「“迷って”……それにしては、足音がずいぶん静かでしたね。気配も、まるで……消えていたようでした」
それは問いではなく、報告だった。
Lはすでに“気づいていた”。
何かがあった。
月が“何かと出会い”、そして“何かを見た”ということを──
月は視線を逸らさず、ふっと口元をわずかに歪めた。
「──まるで、死神にでも会ったような顔をしてるって?」
冗談めかしたその一言に、粧裕が何それと笑った。
けれどLは笑わなかった。
目だけで、じっと月を見つめていた。
「……やはり手錠が必要ですかね」
声のトーンは変わらず、でもその目だけが笑っていなかった。
「冗談じゃないよ」
月は即座に突っ込んだ。
花火の余韻、屋台の明かり、笑い声、浴衣の裾の揺れ。
夏の夜らしい、穏やかな空間だった。
──その時だった。
「……ん?」
一歩、足音がした。
誰もいないはずの通路の脇。
提灯の光が届かない、木の影──その向こうに、“人影”が立っていた。
空気が一瞬、張り詰める。
月がほんのわずかに目を細めると、男が、バッと音を立てて現れた。
フードをかぶった黒づくめのその男は、迷いなく──月たちの前へと飛び出した。
「動くな!」
その手には、黒色の拳銃。
真っすぐに、月たちのいる一角を狙っていた。
──次の瞬間だった。
「きゃああああっ!」
誰かの悲鳴が上がった。
そして群衆は、一斉に逃げ出す。
浴衣が翻り、下駄が音を立てて地面を打つ。
花火の余韻など吹き飛ぶように、人々は恐怖の波となって走り去っていった。
だが。
──月も、Lも、Bも、動かなかった。
その場に残っていたのは、数人の野次馬と、月。L。ミサ。粧裕。メロ。ニア。マット。そしてB。
逃げる選択肢はあった。
だが、誰も選ばなかった。
銃口の先で、月が冷静に目を細める。
Lは指先を軽く咥えたまま、男を睨んだ。
Bはポケットに手を突っ込んだまま、口元を歪めて笑っている。
──そして、男は叫んだ。
「ここに、“L”ってやつがいるんだろう!」
声が震えていた。怒りか、恐怖か、焦りか。
けれど拳銃の狙いは、狂いなく僕らの中心を捕えている。
「そいつを出せ!出さなきゃ……撃つ!」
男の手が震えていた。
拳銃の銃口はまっすぐだが、瞳の焦点は定まらない。
次の瞬間──
「お前がLか!?あんたか!?……いや、お前かっ!?」
男は叫びながら、順に7人へと銃を向けていく。
まずは月。
次に、隣にいたL。
そのまま粧裕、メロ、ミサ、マット、ニア、Bと、名前も知らない相手に向かって一人ずつ。
「あんたが……L……?弥海砂と一緒にいた……って情報は……!」
その言葉を聞いた瞬間だった。
月の脳が、冷ややかに動いた。
(──こいつ、誰がLなのか分かっていない)
冷や汗をかく犯人の瞳。
混乱しながらの動き。
“情報”を基に脅迫しているに過ぎない──感情に任せて暴れているだけだ。
月は一歩前に出ようとして、すぐに踏みとどまる。
(今、下手に動けば狙われる。だが──)
横にいるLは、何も言わず、ただその鋭い目で犯人を見つめていた。
その姿があまりにも無防備で、逆に“Lらしくない”。
(……このまま、やり過ごせるか?いや、それはない)
男の手は、今にも引き金にかかりそうだった。
(なら──どうする)
月の視線が、一瞬、Lと交差する。
そして次の瞬間──
「──僕がLだ!」
月の放つその一言に、空気が一瞬凍った。
「えっ──」
ミサが声を漏らす。
粧裕が「え、ええっ!?」と月を二度見する。
メロとマットが同時に「は?」と顔をしかめ、ニアは顔を上げる。
Bだけが、くくく……と喉の奥で笑った。
「……!」
犯人の銃口が月に定まる。狙いが合った。
その瞬間──
「いえ、私がLです」
静かに、だがはっきりとした声が重なった。
Lだった。ゆっくりと一歩、月の隣へ出る。
澄んだ声に、空気がまた張り詰める──が。
そのすぐ隣で、今度は別の声が上がった。
「いや、俺がLだ」
メロだった。
にやりとした笑みを浮かべながら、わざとらしく前へ出る。
「じゃあ、俺もL〜」
マットが気だるげに言った。
悪ふざけをする子供の様な笑みで、メロとマットは目を合わせるとフッと笑った。
そしてすかさず──
「いえ、私がLです」
ニアが髪の毛をくるくる巻きながら静かに言った。
誰よりも真顔で、堂々と。
──犯人は完全に混乱していた。
「な……なんなんだよ、どいつが本物だ……!」
「僕がLに決まってる!なあ?ミサ」
「そうだよ!月がLだよ!」
「ミサさんがLでしょう?」
「えっ!?あっ、そっか!ミサがLか!」
「違う!僕がLだ!」
「粧裕がLだよ〜!」
銃口が揺れる。
全員に突きつけたかと思えば、今度は何も喋ってないBに向けられた。
「お前がLなんだな!?嘘ついたら……撃つぞ……!」
しかし。
その男──ビヨンド・バースデイは、首を少し傾けて、コキッと鳴らすとにっこりと笑った。
「いえ、私はBです」
「Bぃ!?」
犯人の声が、裏返った。
あまりの予想外に、声がひっくり返り、銃口がわずかに下がる。
周囲の空気が、もう一度凍った──というより、若干変な方向にずれた。
「……Bって誰だよ……」
犯人が唸るように言うと、今度はすかさずLが口を開いた。
「何言ってるんですか。Lはあなたでしょう?B」
まるで当然のように、静かな声で。
BはLの作戦の意図を読んで、くくくっと笑いながらLに言った。
「いえ、私はBです。Lはあなたでしょう、L」
「いえ、私がBです。Lはあなたでしょう、L」
「いいえ、私はLです。Bはあなたでしょう」
「いいえ、私がBです。Lはあなたでしょう」
「何言ってるんですか、B、LはBですよ」
「何言ってるんですか、L、BはLですよ」
「いやいや、Bはあなたです」
「いやいや、Lはあなたです」
──そのやりとりは、止まることを知らなかった。
きっちり交互に、ぴったりの間で繰り返される主張。
声のトーンも、目の据わり方も完璧で、もはや誰にも止められない。
月は頭を抱え、「どっちがどっちなんだよ……」と、苦笑いというより“苦悩”の表情でため息をついた。
メロとマットは笑いながら、ミサは困ったように「BがLでLがBってどっち!」とぼやいている。
──だが。
「ふざけてる場合かぁぁぁああっ!!」
男が叫んだ。
狂気のような声が夜の空に響く。
次の瞬間、動いた。
「やめ──!」
誰かの制止の声より早く、
男は銃口を粧裕へと向け、掴みかかろうとした。
月は粧裕の腕を引き、粧裕を庇うと、月の怒号が飛んだ。
「やめろ!!」
誰よりも鋭く、はっきりとした声音だった。
その声には、笑いも、迷いもなかった。
「その銃を──今すぐ捨てろ」
目が、光っていた。赤く、強く、かつて“キラ”だった時のように。
「今すぐにだ。そうでなければ──」
一歩、前に出る。
その姿勢は、まるで王のごとく。
恐れを知らず、ハッキリとあの名前を出した。
「お前は、『キラ』に裁かれるぞ」
瞬間、全員の空気が変わった。
“死”の気配が、確かにそこに満ちた。
「キラ!?」
男の口から漏れたその名は、もはや都市伝説のように囁かれる“神の名”だった。
だが──
「そうだ」
月が、一歩前に出る。
まっすぐに相手を見据える、揺るがぬ声で。
「──僕が、キラだ」
月の瞳が燃えていた。
正義の火を宿したような、黒い光。
周囲の空気が一斉に張り詰めた。
誰も動けない。誰も、言葉を発せない。
粧裕でさえ、一瞬、息を呑んで月を見上げた。
それは“演技”ではなかった。
たとえ記憶を失っていたとしても──その言葉に込められた“魂”だけは、かつての王と同じものだった。
だが次の瞬間、犯人は突如として笑い出した。
「ははははっ!」
肩を揺らし、銃口をふらつかせながら──
狂気とも、虚勢ともつかない笑いを上げる。
「キラが何だってんだよ……!キラは名前がなきゃ殺せねえ!そうだろ!?なあッ!?!」
目を見開き、震える声で月に叫ぶ。
「つまりよぉ──俺は殺せねぇってことだァ!名前知らなきゃ、何もできねぇ!!」
──その瞬間だった。
「恐田奇一郎」
静かに、はっきりと、その名が告げられた。
誰が言ったか──全員が、すぐに分かった。
Bだった。
「う、そ、だ……なんで……なんで知ってんだよ……」
拳銃を握る手が、震える。
顔が引きつり、目だけがギョロギョロと逃げ場を探していた。
「くっくっくっくっ……」
Bは喉の奥で笑った。
それは“知っている者”だけができる、不気味な勝者の笑いだった。すると──
「──さすがですね。竜崎さん。いえ、B」
その声が、夜の空気を裂くように響いた。
振り返ると、屋台の向こうの影から、凛とした姿が現れる。
浴衣の裾を軽やかに揺らしながら──銃を手にした南空ナオミが、鋭い目で恐田を見据えていた。
直後、犯人の背後から男の体を押さえ込む人影が飛び出した。
「うぐっ!?」
羽交い締めにされた犯人は、銃を取り落とす。
「やめろ!離せ!やめ──!!」
その声を遮るように、がっちりと体を押さえつけたのは──レイ・ペンバーだった。
「よし、確保完了。L、こっちは問題なし」
レイが低く報告すると、Lはゆっくりと姿勢を戻しながら頷いた。
「ありがとうございます、南空さん、レイさん」
「護衛に回れって言われた時はまさかと思ったけど……当たりだったわね」
ナオミがホッとしたように微笑むと、全員の肩の力が抜けた。
「ついでにB、あなたも逮捕してもいいんですが……」
「南空さん、その件については取引しましょう。私の寿命の半分と引き換えなんてどうですか?」
「却下です」
ナオミは即答だった。
その横で、レイ・ペンバーが恐田奇一郎の腕を固めて引きずるように連行していく。
まだ抵抗しようとする体を、容赦なく地面へ押し付けながら。
──しかし。
その様子を周囲で見ていた一部の観客たちが、ざわつき始めた。
「……今、キラって言ってたよな」
「いやLって……あのL?え、本物!?」
「もしかして、あの男がキラ……!?」
警戒心と好奇心、恐怖と混乱が入り混じった“空気”が、広がっていく。
「……まずいですね」
仮面ライダーの仮面を被り直し、Lが静かに呟いた。
群衆が少しずつ“確信”の目を向け始めていた。
そのとき、月がLの手首を掴み、引っ張った。
ぱさり、と振袖の長い袖で自分の顔を隠しながら。
「──逃げるが勝ちだ、L」
「えっ──」
Lが戸惑うより早く、月は人混みの中へと飛び込む。
軽やかに、それでいて大胆に。
「早く!こっちだ!」
袖で顔を隠しながら、ぐいと手を引く月の姿は、まるで子供のようで──だけど、不思議と頼もしかった。
その二人の後を追うように、メロが「おい待てよ!」と叫び、「行くぞニア!」と声をかけるが「動けません」と返ってきた。
マットが「何この鬼ごっこ?」と笑いながらついて行き、メロが「くそぉぉ!」と叫びながらニアを背負って一歩遅れて走り出す。
「ぎゃ!お兄ちゃん早っ!」
「粧裕ちゃん、手、離さないでねっ!」
ミサと粧裕も、笑いながらその背中を追う。
「待ってください、置いてかないでください、離してください南空さん」
「竜崎さん、話があるのでちょっと──」
──全員(B以外)が、走り出した。
そして、人混みから──抜け出した。
ざわめきが遠ざかっていく。
祭囃子も、花火の残響も、どこか遠く。
気づけば、風が涼しい。
月とLは、坂の上に並んで立っていた。
「はあ、はあ」
「はあ、はあ」
まだ誰も追いついてない。
誰が笑っていたのか。
誰が叫んでいたのか。
それすらも、もう思い出せないほど静かな夜。
「ふはっ、ふははは」
何だかおかしくって笑えていた。
誰がLで、誰がBで、何が正義で、何が嘘なのか──
Lが、ふと横を向く。
「みんな嘘つきお化けです」
その言葉は、冗談のようで、本気のようで。
けれど月は、それに少し笑いながら、言った。
「でも、助かったろ?L」
言葉には皮肉も皮肉じゃなさも含まれていた。
Lは少しだけ口元を緩めて、頷く。
「──ええ。助かりました、ありがとうございます。夜神くん」
そうして再び、月と並んで空を見上げる。
まるで、正義と嘘と、すべてを許したかのように。
満月はもう、少し傾いていた。
風も涼しくなってきて、祭りの熱気は少しずつ夜の静けさに溶けていく。
Lが、不意に問いかけた。
「──夜神くん。あの時、あなたはどこに行こうとしてたんですか?」
月は少し黙ってから、空を見上げた。
そして、ふっと笑う。
「さあ……リンゴ飴が浮いててね。ははっ、変な話だよね。見間違えたのかもしれない。──でも、あのリンゴ飴見て思い出したんだ」
夜の静けさに溶け込むように、月はぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「……昔も、ああやって、僕は浮いてるチョコバナナを見つけて……それを追いかけて迷子になったことがあるらしい」
Lが小さく聞き返す。
「……迷子?」
「うん。小さい頃の話。あそこの花火大会で、勝手にどこか行っちゃったんだって。でもそのとき、僕を助けてくれた“おじさん”がいたらしいんだ。ここに来る前、粧裕に聞いたんだよ」
Lは黙って、静かに耳を傾けている。
「そのおじさんね──今思うと、どことなくワタリさんに似てた気がして」
月は目を細め、淡く笑った。
「本当にワタリさんだったのか、それともただ似てる誰かなのか……もう分からない。でも、なんか今日は……あの時のことをずっと思い出してた」
言葉が、夜風に乗って流れていく。
Lは、そっと月の横顔を見つめた。
「……あの時、ワタリさんが手を引いてくれたから、僕は救われたのかもしれない」
そう呟いた月の言葉に、Lは静かに目を伏せた。
そして、ぽつりと口を開く。
「……実は私も、夏祭りに来る前にワタリから、こんな話を聞いていたんです」
月が、少し顔を向ける。
「何の話?」
Lは遠くを見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「“昔、あの花火大会で……夜神くんにそっくりな子供を、迷子として警察に届けたことがある”って」
「──!」
月の目が、わずかに見開かれた。
「ワタリは、あれは偶然だったのか、それとも……と、首をかしげていましたが。……たぶん、偶然じゃなかったんでしょうね」
Lの声は、少しだけ優しかった。
月は驚きと戸惑いの中で、しばらく黙っていたが──
「……やっぱり、そうだったのか」
月が小さく笑うと、Lはその横顔を見つめながら、少しだけ沈黙した。
そして、ふっと視線を空へ向ける。
「……私も、ワタリに手を引かれて、救われたことがあります」
月が、少し目を見開いた。
「え?」
「……正確には、“何も持っていなかった私”を、ワタリが拾ってくれたんです」
Lの声は、いつもよりわずかに柔らかくて、静かだった。
そのまま、まるで昔をひとつひとつ思い出すように、淡々と語りはじめる。
「私は、生まれたときから“名前がありませんでした”。」
月が、隣でそっと息を呑む。
「親も、友達もいませんでした。一人で食事することすら……」
Lの語る「何もなかった自分」が、今こうして隣で月と会話していることの“重さ”を、はっきりと感じていた。
「でも──ある日、ワタリが現れて、私に“L”という名前をくれました。……最初は何の意味もない文字だと思った。けれど、それは初めて“私だけのもの”になったんです」
Lは空を仰いで、目を細めた。
「私という存在を定義した、たったひとつの記号。それが“L”でした。ワタリがいなければ、私は誰にもなれなかった。今こうして──夜神くんと並んで月を見上げることも、なかったでしょう」
Lは目を開き、月の方を見た。
その瞳には、かすかな光と、ほんの少しの寂しさが宿っていた。
「……だから私は、ワタリの“手”に、命を繋いでもらったと思っています。何も持っていなかった私を、優しく引っ張ってくれた、あの手に」
しばらく、二人の間には言葉がなかった。
けれど、風は静かに吹いていた。
夜は、まだ終わっていなかった。
月は、そっと視線をLに向ける。
「……L」
Lが、月の声に目を向ける。
「それでも、お前が“L”になってくれて、良かったよ」
月の声は、どこまでも穏やかだった。
いつもの論理的な鋭さも、皮肉もなかった。
ただ、心のままに出た言葉。
「この世界に“L”がいなければ──今ここにいる僕も、たぶん、もうどこかで迷ってた。キラとして、正義の名を騙って、きっと何も見えなくなってた」
月は、そっと微笑んだ。
「だから……ありがとう。LがLでいてくれて、本当に良かった」
Lは驚いたように月を見つめた。
その視線はどこか、戸惑いの色を含んでいた。
けれど、やがて。
「……恐縮です、夜神くん」
Lはゆっくりと、静かに微笑み返した。
その微笑みはほんの少し、不器用で。
でも、誰よりもあたたかかった。
「……少しは、楽しかったですか?」
月は空を見上げ、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……ああ。楽しかったよ本当に」
そう言って──月はそっと、袖の中でLの手を、握り直した。
指先に、ほんの少しだけ汗が滲んでいた。
Lは、ゆっくりと月の手を握り返す。
「……私たちの勝ちですね」
そう呟くLの横顔に、月は笑みを浮かべた。
「──ああ。僕たちの勝ちだ!」
Lが微かに笑う。
僕も笑うと、言葉が、夜空に吸い込まれた。
そして、誰よりも高く、眩しく──空の“月”が、二人を照らしていた。
──おしまい。