テラーノベル
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「どうして先生は、大人だというのに絵本を読むのですか?」
雨夜。
それも、青いネオンが街を照らし、雨音が囁くように窓を叩く夜に、君は突然、そんなことを言ってきたな。
愛しい娘──浦和ハナコの瞳には、純粋な好奇心と揶揄いたいが為のいやらしさが混ざっている。
「急だな?」
「長らく抱いていた、素朴な疑問ですよ」
俺は手にしていた書類を机に置き、腰掛けた椅子を回し、隣で小首を傾げる君と顔を合わせた。依然として、顔を変わらず微笑んでいる。どちらかというと、揶揄うような悪戯っぽい笑みだ。
「愛しい娘よ。どうして大人は絵本を読んではならないんだ?」
「一般的に大人は活字で構成される『活字本』を読まれると聞きました」
「そうだな」
直ぐには否定はせず、君の考えに賛同した。
「その考えは、文字だけでも本を読めるって自慢したい大人が作った偏見だ。何より、文字だけで何かを伝えることは難しいのさ」
「ですが、限られた情報で理解する大人の方がかっこいいのではないのでしょうか?」
あえて試すような疑問。
君はいつもそうだ。揶揄いたいから、核心に触れる、反論が難しい問いを作って、いつも困らせる。
「その『かっこいい』というのは、本を読むだけでしか伝わらないのか?」
「あらっ。それも一理ありますね」
「娘もそうだろう?好きだということを好きでいられることこそ、『かっこいい』のではないか?」
俺の言葉を聞いた娘は、ふふっ、と声を漏らして笑った。
そして、目を開ける。翡翠色に輝く瞳が俺を見つめてた。
「私が聞きたいのは、大人ながらの言い訳ではありません。純粋に、どうして先生は絵本を読んでいるのか。その理由が知りたいのです」
「……そうだったか。すまないな」
誤魔化すように苦笑を漏らす。
どうやら、この聡明な娘を完全に理解するには、まだ時間がかかりそうだ。彼女は意図してこちらの逃げ道を塞ぎ、本音を引き出そうとする。その語彙の豊かさと、思考の柔軟さにはいつも感心させられる。
ふと思い返してみれば、ハナコを含め、生徒たちには自身の過去をあまり語ってこなかった。聞かれなかったからというのが最大の理由だが、長らく一緒にいて、ある程度の自己開示は済ませているような錯覚に陥っていたらしい。平穏故の麻痺か。
……それも悪くない、と俺は心の中でそっと息を吐いた。
「端的に言えば……昔からの習慣だ。所謂『性癖』というやつさ」
「あらっ」
娘はパチリと瞬きをして、それから口元に手を当てて艶やかに笑う。
「絵本で……? 先生ったら、中々にマニアックなご趣味をお持ちなんですね。私、そういうプレイも決して嫌いではありませんけれど……♡」
「賢い君のことだ。本来の『生まれながらにしての性質や癖』という意味だと分かっていて言っているな?」
俺が呆れたように返すと、ハナコは悪戯っぽく肩を竦めた。そして、少しの間思案するように視線を巡らせたあと、何か閃いたような軽やかな声で口にする。
「……もしかして。ご家族に読み聞かせていた頃の癖、ですか?」
「……正解だ。よく観察しているな」
その鋭い洞察を褒めると、彼女は目を細め、飼い主に甘える子猫のようにそっと頭をこちらへ差し出してきた。
その意味を知っている俺は、躊躇うことなく彼女の滑らかな髪を優しく撫でる。
無論、この一連の動作は相互の合意の上であり、既に何度も実行済みだ。
しかし、撫で終えたあとの娘の顔は、普段の余裕のある微笑みとは違い、ほんの少し唇を尖らせたような不満げなものだった。
「……どうやら、君の指令の意の解釈を間違えたみたいだな?」
「いえ、撫でていただくのは大歓迎ですよ。ただ……」
「ただ?」
「ほんの少し、嫉妬してしまっただけです」
ハナコは恨めしそうに、上目遣いで俺を見つめた。
「ただでさえ先生は、このキヴォトスで唯一の頼れる大人の男性です。あちこちから恋心という名の矢を向けられるのも無理はありませんが……まさか、キヴォトスにいらっしゃる前から、特定の『誰か』の特別な人だったなんて」
なるほど。俺が家族を有していたという事実──過去に先取りされていたことに対する、年頃の娘らしいジェラシーというわけだ。
「わざわざ言う必要もないと判断して、公言していないつもりだったんだが」
「隠せていませんよ。先生の生徒に対する接し方、慈しむような視線、そして何より、先生の隣にいると錯覚してしまう絶対的な安心感……間違いなく『お父様』のそれです」
次々と証拠を並べ立てるハナコに、俺は思わず眉を顰めた。
あまりにも露骨すぎたか? しかし、これも染み付いた性癖の一つだと言い逃れることもできる。
「……これからは、少し接し方を控えた方がいいか?
「ダメです♡」
即答だった。ハナコはいつもの柔らかい、けれどどこか熱を帯びた笑顔に戻り、俺の袖をきゅっと掴む。
「お父様のような安心感も、大人の男性としての魅力も……今は私だけの特権にしておいてください。いえ、してくださいますか?」
女心とは予測不能なものだ。俺にも娘はいたが、目の前のハナコのように、からかいの中に隠した真っ直ぐな好意を向けてくることはなかった。
ただ一つ確実に言えることは、俺のこの「性癖」に文句を言う生徒は、少なくとも俺の目の前にはいないということだ。
「すまないな。お前たちには平等であるべきだと思っている」
「ふふっ……先生なら言うと思ってましたよ」
いつも通り微笑む君。だが、純粋な笑い、揶揄いに加え、寂しさを含んでいた。
そしてゆっくり手を袖から離すのを見守ってから、俺は口を開く。
「さて。本題から逸れてしまったな。……娘よ。幼児を育むために必要な要素は何かな?」
唐突な問いかけに、娘はわずかに目を瞬かせた。しかし、直ぐに彼女特有の知的な光を翡翠の瞳に宿し、思案するように小首を傾ける。
「そうですね……。十分な食事や睡眠といった肉体的な保護は大前提として。心の発達という意味合いなら、無条件の『愛情』と、未知なる世界への『想像力』を育むこと、でしょうか」
「大正解だ。できれば、その想像力や知識を試験に活かせれば文句はなかったのだがな。……では、まだ文字の読解もままならず、言葉の概念すら曖昧な子供に、それをどうやって伝える?」
重ねて問いてみれば、お前は見透かしたようにふふっ、と吐息のような笑いを溢し、机の上に置かれた絵本へと視線を落とした。
「……合点が行きました。それが絵本というわけですね?」
「ああ。活字本は文字を介して、効率良く知識や情報を得るためには最適だ。だが、絵本はどうだ?親が子へ、声の温もりと色鮮やかな絵を使って『この世界は美しく慈愛に溢れた場所』と伝えるものだ。情報ではなく、愛情そのものを形にして伝えるために作られている」
俺が絵本について説明し終えて、チラリと娘の顔を一瞥する。
……口では合点がいったとは言いながらも、まだ疑問が抜けていないような顔色を、お前は見せていた。
また、何かやらかしたか?
「……って、また大人ながらの言い訳をしましたね?」
「……? ああ、これはまた。すまないな、何度も同じ間違いをして」
今更ながら、俺は新しい性癖を発見した。
俺の本音を包み隠して、無意識に言い訳をしてしまうところだ。これは……まだ『断ち切れていない』と言えてしまうな。
「簡単なことだ、娘。そっちの方が伝えたいことが伝わるだろう?」
机に置いていた絵本を取り出し、ある頁を娘に見せる。
それは、もがく蛙を飲み込みながら、わんわんと泣く蛇が大きく描かれた絵だ。
「……絵本にしては、とてもショッキングですね……」
「絵本の童話の根源を辿れば、どれも同じく残酷な物語へと収束する。さて、まずは頁にある文章を読んでみてくれ」
「えぇと……『かえるさんを のみこむと、なぜだか なみだが とまりません。へびさんは、おなかの なかで もがく かえるさんと いっしょに わあわあと なきました。』」
娘はどこか不思議に思いながら、一文字一文字を丁寧に、そして幼く音読する。
彼女が読み終えた後、俺はまた問うた。
「さて、この文章だけで、お前の心の中にはどんな情景が思い浮かんだ?」
「……そうですね。弱者を貪りながら、それを嘲笑う猟奇的な蛇、でしょうか」
「では、今度は絵を見てくれ。どうだ?」
俺が促すと、娘は再び絵本へ視線を落とし──僅かに目を丸くした。
「……蛇は文字通り、大粒の涙を流していますね。まるで同情するかのように、悲痛な表情で……」
「そうだ。活字からお前が想像した情景と、絵本に描かれた実際の絵。見比べてみて、どうだ?」
「……まったく、違いますね」
娘はふむ、と小さく声を漏らし、思考に耽るように唇に指を当てた。
「難しかったか?」
「いいえ、ただ……」
娘は上目遣いでこちらを見つめ、艶やかな笑みを浮かべた。
「先生ったら、意地悪ですね。私にばかり想像の奥底……恥ずかしい内面を暴かせて。今度は先生の番ですよ? あなたの中身も、私に曝け出してください♡」
その言葉遊びに隠された真っ直ぐな要求に、俺は苦笑して降参の意を示す。
「……活字だけでは、情景を正確には思い浮かべられない。蛇はどれだけ大きくて、どんな表情をしているのか。蛙はどれほど苦しんでいるのか。想像の余地があるということは、裏を返せば『読み手の都合の良いように解釈できてしまう』ということだ」
「都合の良いように、ですか」
「ああ。大人になると、無意識のうちに現実から目を背け、自分に都合の良い『言い訳』を組み上げるのが上手くなる。だから俺は、文字を読むだけでは不安になるんだ。自分の勝手な想像が、本当に正しいのか……ただの自己欺瞞ではないのか、とね」
なるほど、と。娘はふふっと柔らかく微笑んだ。
「だから、挿絵のある絵本なんですね。……ふふっ、先生は現代文のテストで満点を取れそうですね」
「どうだろうな。俺はそんな試験を受けたことがない」
「ですが、そのお考えは……なんだか、先生らしくありません。存在を一つの固定概念として定義するような……先生が普段から望んでいる『生徒の在り方』とは、随分とかけ離れている気がします」
鋭い指摘だ。本当に、この娘には誤魔化しが利かない。
俺は窓の外で降り続く雨に目を遣り、静かに口を開いた。
「生徒たちの未来は、無限の可能性だ。これだと言える明確な答えなんて定義されていないし、そもそも存在しなくていい。自分の都合の良いように、自由に世界を解釈して進んでいけばいいんだ」
「……」
「だが、大人である俺には、時に逃げ場のない『残酷な正解』が必要なんだよ。絵本には挿絵があり、作者が定めた揺るぎない実像──答えが存在する。自分の都合の良い解釈や言い訳を許さない、逃げ場のない『現実』を突きつけてくれる」
机の上の絵本を閉じ、表紙を指先でなぞる。
「俺が絵本を読むのは、自分の中にある大人のズルさを戒め、純粋な感情を忘れないための……俺なりの『答え合わせ』なんだ」
「そうですか……」
「納得がいかない顔だな」
ある程度はぐらかさず語り尽くしたつもりだが、まだ娘の中にある疑問の底はつけていないらしい。
彼女は今回もまた、俺に問う。だがその顔つきは、今までのような悪戯っぽいものではなく、静かに俺の芯を射抜くような、ひどく真摯なものだった。
「では、何故……先生は同じ絵本をずっと読んでいるのですか?」
その鋭い言葉に、俺は机の上に置かれた一冊の絵本を、そして部屋の隅にある、ひび割れた背表紙が並ぶ本棚へと視線を移す。
どうやら、彼女が踏み出した一歩は、俺自身すら蓋をしていた心の奥底──不可侵の領域へと届いてしまったようだ。
目を閉じ、あの日の優しくも酷薄な雨の記憶を追憶しながら、静か口を開く。
「……娘との思い出さ」
「……その声を聞く限り、あまり幸せな思い出ではないように感じます」
ハナコはそっと声を落とした。
「だろうな。死別した家族たちと、縁を断ち切ってしまった娘との、ただ一つの繋がりだからだ」
「……っ!」
いつもならどんな言葉でも受け流し、軽やかに打ち返してくる彼女が、その時ばかりは息を呑み、絶句する。
窓を叩く雨音だけが、沈黙の落ちた執務室にやけに大きく響いていた。
「それは……どういう、ことですか……?」
「折角、娘が勇気を出して踏み込んでくれたのだ。俺も、勇気を出して語ろうじゃないか」
かつて俺がいた場所には、絶対の法があった。
俺は虚空を見つめ、絵本を読み聞かせるように、淡々と過去を紡ぐ。
「ある日、俺に『髪を染めよ』と指令が来た。だから俺は、望まれるがままに髪を黒く染めた」
「……え?」
「ある日、俺に『名前を変えろ』と指令が来た。だから俺は、望まれるがままに『リアン』と名前を変えた」
ハナコが息を呑む気配がした。だが、俺は止まらない。
「ある日、俺に『家族を作れ』と指令が来た。だから俺は、望まれるがままに妻と出会い、娘を儲けた」
「……」
「ある日、俺に『家族を失え』と指令が来た。だから俺は、望まれるがままに……家族を見放した」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
たまらずといった様子で、ハナコが声を荒らげる。その翡翠の瞳は、まるで理解の及ばない狂気に触れたように揺らいでいた。
「指令、とはなんですか……? 先生の意志は……。では、そのお顔の仮面と、その下に隠された傷跡は、一体……」
「これか? これは二番目の娘が俺につけた、忘れ難い傷跡さ」
「……それも、その『指令』で?」
ハナコは震える声で問う。彼女はおそらく『二番目の家族』のことだと解釈したのだろう。
俺は否定も肯定もせず、静かに頷いた。
そして椅子から腰を上げ、雨粒が流れてゆく窓硝子の方へとゆっくり歩み寄る。
「いつだって、俺は生きている気がしなかった。まるで誰かの人生を『模倣』しているような……演劇の役者になったような虚無感が、今でも心の中に漂い続けている」
夜の窓硝子に、俺の姿が反射する。
そこには、かつての傷を隠すように、顔の左半分を白い仮面で覆った男が立っていた。
今でも微かに、痛みが滲む。熱く焼ける。あの日、『良秀』がつけた傷跡を隠すために被ったこの仮面も、すっかり顔の一部になってしまった。
「そして同時に、俺は未だに蜘蛛の巣の横糸に絡めとられている。いくら断ち切ろうとしても、俺を縛るその赤い糸は……」
「そう、ですか……」
窓から視線を外し、ゆっくりと後ろを振り向く。
そこにいた娘は、今にも泣き出しそうな、ひどく悲痛な顔を見せていた。
「今の先生は……とても儚く、弱い存在に見えます」
「酷い言い様だな?」
「揶揄ってなんかいません。……本当に、今にでも糸が切れて、どこかへ消えてしまいそうで……」
ハナコはあの時から、確かに成長している。
補習授業部の生徒たちと共に困難を乗り越え、己の心情を語り尽くし、本当の絆を得た。故にこうして、他人の見えない傷を思いやり、心から悲しむことができるようになったのだろう。
「……優しいな。お前は」
「先生……」
「安心しろ。俺に『ここから消えろ』なんて指令は来ていない」
俺はかつての娘の面影を重ねるように、彼女を安心させるための微かな笑みを浮かべた。
「先生は……ご自身の意思で何かを選択したことはないのですか?」
すがるような視線で俺を見上げてくる娘。
「娘にも見えるのか? 俺を縛るこの操り糸が」
「どうして……そんな風に笑うんですか。いえ、思い返せば先生は、ずっとこうでしたね。自分のことになると、どこか空っぽで……」
娘がギュッと拳を握りしめる。
その温かい感情を無下にするほど、俺も狂いきってはいなかった。
「心配するな。今、俺自身の口で言っているのだ。……お前たち愛しい娘たちの目の前から、勝手に消えたりはしないさ」
娘の目の前で片膝をつき、彼女と視線の高さを合わせる。
先ほど「消えない」と誓ったはずだが、娘はまだ不安に揺れるような、信用しきれない顔をしていた。
一度立ててしまった心の波は、そう簡単には収まらない。時間に任せれば、必ずその荒々しい波にも静寂は訪れる。だが、この聡明な娘は、そのような有耶無耶な終わり方など決して望まないだろう。
「……なら、手を出せ」
「えっ?」
急な要求に娘は少し躊躇ったが、おずおずと白い手を差し出した。
俺はそれを手繰り寄せ、自身の小指と彼女の小指を絡める。
「あらっ!? ちょっと、強引ですね……」
「約束しよう。俺は決して、お前たちの前から消えないと」
絡めた小指に、少しだけ力を込める。
それはかつて読んだ絵本にもあった、おまじないのような子供の儀式だ。
「……『指切り』、ですか?」
「そうだ。キヴォトスにもその風習はあると聞いている。嘘をついたら、針を千本飲ませるんだったな」
「ええ。……先生が語る『指令』に比べたら、随分と可愛らしいペナルティでしょうけれど」
ハナコは小指を絡められたまま、潤んだ瞳でこちらを見つめてきた。
その皮肉めいた言葉に俺は小さく息を吐き、笑みを作る。
「いいや。誰かに強要された『指令』なんかよりも、俺の意思で愛しい娘と交わす『約束』の方が、よっぽど重くて尊い。……もし違えたら、針の一万本でも喜んで飲もう」
その決意のこもった言葉に、ハナコは目を瞬かせた。
そして長い間沈黙が流れ、いつものような──いや、今までで一番柔らかく、艶やかな微笑みを浮かべた。
「……ふふっ。言いましたね?」
彼女は絡めた小指に、きゅっと力を返し、俺の顔を覗き込む。
「先生が、ご自身の意思で結んだ、私との初めての『契約』なんですから。……絶対に、逃がしませんよ?」
「正確に言えば、指切りはかつて娘たちにもやったことがある」
「ふふっ。それは嬉しい限りです」
「どういうことだ?」
的を射ない言葉に俺は問い返す。
娘はまた、艶やかな微笑みで答えた。
「その誓いに込められた気持ちは……私を、本当の娘たちと同じくらい『大切』に思ってくださっている、ということですから」
「……ははっ。一本取られたな」
俺たちの間に、窓の外の冷たい雨を忘れさせるような、なんとも温かい空気が流れる。
そして……。
ピピッ。ピピッ。
「……どうやら、約束の時間が来たようだ」
「もう、お時間ですか」
無機質な電子音は、彼女の当番の時間の終わりを告げていた。
娘はどこか名残惜しそうな感情ををグッと堪え流用にして、からめていた小指をゆっくり離す。
「では、また。よろしくお願いしますね。先生?」
「ああ。夜道は暗い、転ばないようにな」
別れは想像以上にあっさりしていた。
薄情だからではない。再会できるという、確かな信頼故だろう。
愛しい娘の軽やかな足音が廊下に響く。時間が経つにつれ、段々と遠くなり、最後には完全に消えてしまう。
こうして、雨音が響く白い執務室には、俺だけが残された。
「アロナ。まだ残っている仕事はあるか?」
「……いいえ。本日の業務は、全て終わりましたよ」
「そうか」
俺以外、誰もいないはずの部屋に少女の声が響く。
アロナ。シッテムの箱という端末機に存在する人工知能だ。
「……先生。本当に、どこにも消えたりしないんですよね?」
「なんだ?お前も不安になってきたのか?」
「その……先生の過去を聞いて、思ったんです。いつか離れ離れになった娘さんに会いに、キヴォトスを去ってしまうのかもって」
当然の疑問だ。
確かに、俺とあの都市の間には、まだ微かな赤い糸が繋がっている。もし帰還の目処が立てば、その糸を手繰り寄せて都市へと戻ることもできるだろう。だが──。
「心配するな。娘。もうあそこに、家族なんていないからな」
「でも、二番目の娘さんは?あの方はまだ生きているんですよね?」
「言っただろう。娘は自分から縁を断ち切ったんだ。あいつの思うがままにしてやるのさ。それが、手放してしまった親にできる、せめてもの役目だ」
「だったら……先生の心は、どうなるんですか?」
俺は再び、雨粒が伝い落ちる窓硝子へと歩み寄った。
眼下には、深夜だというのに青白く輝くネオン街がどこまでも広がっている。
左の胸ポケットに右手を差し込み、とある物品を取り出す。
それは、小さな白い端末機。もう二度となる事のない、絶対の『指令』を受信していたかつての鎖だ。
「俺の体に絡められた蜘蛛の糸は、ここへ来てから、少しずつ……一本ずつ解れていっている。そうして最後に残る糸は……」
雨雲で覆われたキヴォトスの夜空へ、静かに顔を上げる。
「恋しさ、だけだろうな」
コメント
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「うわー…久し振りの新作だー……にしてもこの喋り方前の作品みたいだからリンバスにでてきそうな先生やんな」と思ってたら良秀でてきた瞬間に確定してしまった にしてもよくクロスが上手く行くなぁ…生徒選択のセンスも良過ぎんだろ!ハナコはシリアスがちゃんと栄えるから使い手次第に成るけど凄い雰囲気にマッチするよね。とりま毎度クオリティがエグい